291.助け人
ヴィレッツらが訪れたからといって、真緒の待遇が変わることは無かった。無実が証明された訳でもなく、罪が消えた訳でも無いのだ。明日、刑が執行されることを考えれば、当然のことだろう。
その決定は議会が下したもので、国王は最後まで頷かなかったという。しかし、だからといって王太子妃の生命を脅かしたとなれば、無罪放免とはいかない。状況証拠とはいえ、その現場を多くのものがみていたとなれば、国王だからこそ厳しい処罰の判断が求められのであろう。
頷かなかったということは、少しは 無実を信じてくれたのだろう。そう思えて 真緒は父親としてのマージオの情を感じたのだった。
相変わらず誰も訪れることの無い部屋は、すきま風の吹き抜ける音がしていた。
『俺たちを信じろ』
ライックの言葉が、真緒の脳裏に繰り返される。その言葉と届けられた渡りの樹の絵が、真緒に希望を与えたくれた。
一緒に届いた白い手袋を指でなぞる。
透けた腕を隠すのに丁度いい。
ドレスは身につけることが出来ないかもしれない。それでも、ライルのもとに嫁ぐ装いをひとつでも身に着けておきたかった。
心だけは貴方と 共に
たとえ会えぬまま 永遠の別れを迎えても。
そんな思いを込めて 白い手袋を、胸元に抱き込んだ。
ライルを近くに感じる。
この想いが 彼の元へ導いてくれるようで、真緒の心を強くした。
包みを解き 絵を取り出すと、懐かしい風景から ふわり と風が舞った ━━ 気がした。
一瞬の出来事に 目を見開きみつめたが、渡りの樹はただ、キャンパスの中にあるだけだった。
半地下の室内は闇が支配し、明り取りの窓からは うっすらとした月明かりが途切れ途切れに差し込む。今宵は雲がかかっているのだろう。月明かりのない闇の中では 触れる絵の具の重なりが、キャンパスの世界を伝えてくれる。
目を閉じれば、鮮やかな緑が瞼に広がる。湖面をなぞる風に乗る澄んだ空気を感じたくて、大きく息を吸った。
手を伸ばせば樹に触れられる。
足を踏み出せば、足裏から大地の感触を得られそうだった。
リアルな感覚に、まるでその場にいるような錯覚に陥り、真緒に心地よい時間を与えてくれる。
そんな心地よい時間を破ったのは、無機質な音だった。
錆びた錠前と重い扉の開く音が、真緒を現実に引き戻した。闇に溶ける黒衣の男は、足を止めることなく真緒に近づくと、固いベッドの上に乗り上った。
逃げるまもなかった。
真緒が仰向けに拘束されるまで一瞬の出来事だった。
何が起きたか分からない。
声を上げたくても喉元に掛る手に気管が押されて、苦しげにヒューヒューと音を立てた。
「…そうだ…もっとだ … もっと…苦しめ…」
耳障りな引き笑いが、隙間風の音を消す。
苦しみに潤んだ瞳で強く睨み返せば、とげとげしい嘲りの色を浮かべた瞳は、歪んだ歓喜に満たされていた。目深に被ったフードからもみえる双眸は残忍な色を浮かべ、真緒を見下ろしていた。
「…苦しいか?…その表情…堪らないな…」
舌なめずりする口許は歪に吊り上がる。
空気を求めて藻掻く様を 恍惚と見下ろしていた。
「…乞えよ、命乞いしろ…」
更に指に力を入れ、声すら上げることのできない真緒を嘲笑う。
襲われた恐怖も、苦しさも、闇に吸い込まれるかのように 鈍くなり、溶けてゆく。自由の効く腕を喉元の手に向けるが、暗闇の視界ではそれを捉えられず空を切るだけだった。
(…… ライル ……!)
零れる落ちる涙と共に、唇が愛しい名を紡ぐ。
見開いた瞳で抗うように男を睨めた、そのとき。
「…ぐがっっ……!」
男の目が こぼれんばかりに見開かれ、首に掛かった手が一瞬だけ強ばるように力が入り、急速に力が抜ける。
声にならない唸り声が男の口から漏れると、その身体は重力に引き寄せられるように、真緒の身体に倒れ込んできた。
「!!!」
解放された気管が 大きく空気を取り込もうとするが、のしかかる男の重みで圧迫されてそれを阻む。思うように呼吸ができず、首を振れば、男の頭が真緒の顔のすぐ横にあった。見開かれ、光を失った瞳には真緒が映り込んでいた。
人間は本当に驚いたときには 声も出ないのだと思う。
正に、今が それだ。
目を背けることが出来ない。目を閉じることも出来ず、瞬きも忘れて 目の前の男から目が離せなかった。
生気のないはずの瞳が、嘲笑っているようにみえた。胸元に生温かな感触が広がる。
ビクともしない男の身体をどかそうと、渾身の力を振り絞った。ぬるりとした感触を指先が捉え、咄嗟に手を引いた。
━━━━━ 呼吸が楽になった。
それは、突然のことだった。
身体の重みが取り払われ、真緒は身体の隅々に行き渡るよう大きく息を吸い込んだ。咳き込みながらも傍らに立つシルエットに視線を向けた。
月光に背を向けたそれは、輪郭しか分からない。その足元には、骸となった男。
腕に下がった短剣が、月光を受けて滴る朱を際立たせていた。
「……」
言葉を発することなく、真緒を見下す。
殺す気 なの?
真緒は呼吸を整えながら、ゆっくりと身体を起こし 後退る。恐怖で強ばる身体を、気力で動かした。
「…お前が マオか?」
(えっ… 子供?)
その 声変わり前の柔らかなメゾソプラノは、凄惨な短剣とあまりにもそぐわなかった。
真緒は虚をつかれ、動きを止めて しばし見詰め合う。
徐にフードを外せば、鮮やかな金髪と青い瞳が現れた。
幼さの残る少年。
その面差しは、よく似ていた。
━━━━ 国王 マージオ に。
「……誰?」
思わず出た言葉は 掠れ声だったが、すきま風にかき消されることは無かった。
ナルセルにも通ずるその容貌は、湖畔で遠目に見たある人物に行き着いた。誰何というより 答え合わせだった。
王妃アルマリアの実子は二人の王子。
ナルセルの三歳下の弟。
(…ビッチェル王子…なの?)
意外すぎる人物の登場に、真緒は相変わらずのピンチであることを忘れた。
異母弟 その2…だよね。
悔しいくらい 美少年だ。ナルセルの王子様風とまた違い、青年期に移る前の 少年の面差しは魅力的だ。背も高いし、モテるんだろうな…
「ビッチェルだ」
現実逃避の思考に耽る真緒に 苛立ちをみせながらも名乗った義母弟は、真緒との距離を詰めると、透けた腕を見て 顔を強ばらせた。
ビッチェルの視線が腕に釘付けになったことに気づき、慌てて後ろ手に隠す。
「…その腕…」
ビッチェルは無遠慮に真緒の腕を掴むと、月光に晒した。
「…気味悪いでしょう?」
ごめんね、あんまり見ないで。
言葉を失い固まるビッチェルの腕から手を引こうとするが、逆に強く掴まれ真緒は困惑の瞳を向けた。
この子、何しに来たんだろう…
私を助けてくれたけど…
「…私のせいか?
…私が …私があの樹を燃やしたからか…?」
うわ言のように呟くと、反対の腕も掴み大きく揺すった。答えろ、そうなのか?
真緒は、静かに頷いた。
「…お前の生命が尽きるっていうのは…本当のことなんだな…」
膝から崩れ落ち頭を抱えたビッチェルを、どうしたらいいのかわからず とりあえず背中をさすった。
真緒の手にビクリと身体を震わせたが、払うことはしなかった。かける言葉も見つからず、振り払われなかったので、真緒はそのままさすり続けた。
「…こんなことになるなんて…思わなかったんだ…
この国を 護りたかったんだ…
父上を… 母上を… 苦しめたかったわけじゃない」
ぐっ とこぶしを握り、勢いをつけて上げた表情は硬いが、迷いはなかった。
「これ以上、母上が悲しむ姿をみたくない」
お前が死ねば、父上が苦しむ。その姿に母上が苦しむ。だから お前を助ける。
父上は お前の処刑に異を唱えた。しかし、議会が決定したものを国王が覆す訳にはいかない。
だから、私が父上の代わりにお前を逃がす。
ビッチェルの独白は、静かに 真緒の心に広がってゆく。両親を想い、新たな罪を重ねることを選んだというのか…
尚更、そんなことはさせてはいけない、そう思った。
だから真緒は、ゆるりと首を横に振った。
「…私を逃がしたら、罪を重ねることになるんだよ。その方が、王妃様も悲しむんじゃないのかな」
諭すように、ゆっくりとした丁寧な言葉で言葉をかける。
もちろん、逃げたい。
このまま処刑されるなんて 真っ平御免だ。
でも、誰かに罪を着せるのは嫌だ。
たとえ王子であっても、罪は罪だ。
「…ビッチェル様、早くしませんと…」
扉から音もなく現れたのは、エイドルだった。
闇に紛れる黒衣に身を包み、抜きみの剣は鈍い光を放っていた。真緒の視線を 黙ってろ と視線で制し、ビッチェルの傍にくると、腕を掴み立たせた。
「…渡りの姫、我らと共に」
言葉少なく目礼で真緒を促し 、エイドルは真緒の腕を掴んだ。透けた腕に表情を硬くしたが、何も言わなかった。視線が絡めば、エイドルの瞳が真緒に語る。
俺が ここに居る その意味 … 分かるよな?
エイドルが来た、ということは、ライックかヴィレッツの命令ということか?
『俺たちを信じろ』
ライックの言葉が脳裏をかすめる。
「…分かった」
真緒は取られた腕に抵抗することなく、ベッドから降りた。胸元にしっかり キャンパスと手袋越しにを抱き込んだ。




