289.収監
真緒が押し込められた場所は、半地下の薄暗い粗末な部屋だった。石造りの壁はむき出しで、明り取りの窓には鉄格子、夜には冷たい風が吹き込む。厚みのない湿り気のある掛布だけでは、身体を温めることも叶わなかった。
日に二度、冷めたスープと硬いパンが食事として与えられたが、扉の脇にある小窓から無言のまま差し入れられるそれを、真緒が口にすることは無かった。
カタン
木戸の音が、配膳を告げる。
薄い毛布もないよりマシだ。それにくるまり、身体を丸めて寒さに耐える。視線だけで置かれた食事を確認した。
━━━━ 初めは 食べようとしたのだ。
硬いパンのカビを避けて 口に運んだ。それを咀嚼するためにスープを含めば、舌に刺激を感じ 反射的に吐き出した。慌てて水差しに手を伸ばせば、濁りのある液体がどろりとカップを満たし、真緒は食事を諦めた。
こんな所で こんな形で 死ねない。
ライルに会うまでは 諦めない。
左手の指環に触れれば、仄かな温もりは真緒の希望となった。
昼でも薄暗い部屋だが、何度か陽が差し込んでいることから、数日は経っているのだろう。
『王太子妃に毒を盛った』
有り得ない罪状に真緒は言葉を失った。
形ばかりの取り調べであっても、真緒は必死に訴えたがそれを聞き入れられることはなかった。水差しから毒が見つかり、真緒の罪状は確定したのか、それ以降、取り調べが行われることは無かった。
なぜ こんなことになったんだろう…
ナキアは 大丈夫だろうか?
毒を含んだ水は口にしていない。
生命の力を押し返すために力を使わなければ、回復するのだろうか…
ナキアが元気なのか、それが知りたかった。
差し込む弱い陽射しに塵が舞う。
その様を飽きることなく見つめ、暖を求めて腕を伸ばせば、肘の近くまで透けた腕が頼りなげに宙を彷徨う。腕の動きに合わせて舞う塵が、天女の羽衣のようで、くすり と笑った。
「…… 随分 透けちゃったな …」
まるで他人事のように呟く。前の時は、怖くて 怖くて堪らなかった。エイドルに縋り、ライルに知られたくなくて 隠すことに必死だった。
でも、今は違う。
生命の期限があることを 隠さなくてもいい。
ただ静かにそのときを待てばいい。
残された時間が 多くはないことは 、この腕が証明していた。
「…結婚式 楽しみにしてたんだけどな」
仮縫いのドレスは 憧れだった白。当日まで内緒、なんて言わずにライルにみてもらえばよかった。透けた腕で膝を抱えれば、寝衣から見える足も透けていた。
こうやって身体の全部が透けて やがて消えてしまうのかな…
それも悪くない と思う。
元々 この世界の人間では無いのだから。
魂だけ ライルの傍にあればいい。
ライルには 悲しみを引きずって欲しくない。
お父さんみたいに。
…… お母さんの願い まだ叶えてなかったな …
━━━━ 渡りの樹の根元に、この絵とペンダントを渡りの樹の元へ埋めて欲しい ━━━━━━━
A4サイズのキャンパスを切なげに見つめる母の姿。病室では枕元に置いて涙を浮かべていた姿が脳裏に蘇った。
せめて、お母さんの願いは叶えたい。
さすがに 毒殺しようとしたなんて ヴィレッツ殿下もお父さんも庇いようがないよね。やってないけど、向こうの世界のように科学捜査がある訳では無い。証明のしようがないのだ。
ライルは まだユラドラだろうか…
こんな事態になってしまったこと 知ってしまっただろうか…
「…会いたいな …」
思わず漏れた 本音を 吐息で誤魔化した。
鉄の擦れる音が室内に響く。
錠前を弄る音に、真緒は眉をひそめて扉へ視線を移した。重く軋む音と共に現れたのは、ヴィレッツとライックだった。扉を大きく開き、その入口にライックは立つと、看守を下がらせた。
ベッドの上で粗末な毛布に包まる真緒の姿に、ヴィレッツは厳しい顔つきとなり、無言で真緒を抱き締めた。
温かい。人の温もりとは こんなにも温かいものなのか
ぼんやりと 真緒が温もりに身を委ねている様に、ヴィレッツの心に恐怖が湧いた。華奢な身体はより頼りなく 儚く、抱き締めているのに 消えてしまいそうな錯覚を覚える。泣くでもなく、穏やかに微笑む真緒が、生きることをを手放してしまったように感じられて、抱く腕により力を込めた。
「すまない…マオ。来るのが遅くなった」
ヴィレッツの苦しげな声に ゆるゆると首を振る。身体は大丈夫か、そう続くに声に、真緒はしっかりと頷いた。ライックに視線を向ければ、厳しい顔つきに口元だけ少し緩ませて頷き返してくれた。
ヴィレッツは腕を緩ませ 真緒を離すと、周囲を伺うように真緒から集中を逸らした。そして、意を決したように正面から真緒に視線を合わせた。
「…明日、処刑となる。 望むものはないか」
低い声が ゆっくりと 告げる。
一瞬見開かれた真緒の瞳は、すぐに凪いだものとなった。しかし、真緒の身体が小刻みに震えている。この毛布の下で、ぐっと拳を握り締め耐えているのだろう。告げる者の痛みを知っているのだ、この娘は。
その意地らしさに ヴィレッツは愛しさと共に苛立ちを覚えた。
「なぜ 抗わないのだ!身に覚えのない罪で生命を絶たれる理不尽さに、なぜ抗わない!」
荒らげた声が震えている。真緒は眉を下げて、困ったように微笑んだ。
「…お母さんの絵が欲しいです、渡りの樹が描かれているあの絵。あと できたらでいいんですけど…ウェディングドレスと一緒に仕立てた肘まである手袋が欲しいです」
ヴィレッツの叱咤には敢えて答えず、真緒は穏やかにお願いを口にした。
本当は 逃げたい
ライルのところへ 行きたい
殺されるなんて 嫌!
自分でもわかる、もう生命が尽きるまで時間が残っていないこと。
殿下自ら こんな所まで足を運んで伝えにきたのだ。
派閥争いが深刻になっている中、私が逃げたら殿下にもお父さんにも迷惑がかかる。ライルだって無事に済まないだろう。
「…食べてないのか」
沈黙を割って入ったのは、ライックだった。
置かれたままの食事に手を伸ばし、徐にスープをひと匙含むとそれを吐き出した。
「…懸命だな。手をつけるなよ」
ライックの放つ怒気が空気を震わす。ヴィレッツはライックの行動に全てを察し、無言で立ち上がった。
「マオ。望みのものは、直ぐに届けさせる。いいか、身を大事にするように」
真緒が頷くのを確認すると、ヴィレッツは振り返ることなく部屋を後にした。
入れ違いでライックは真緒の傍にやってくると、水差しを叩き落とし、真緒にグッと近づいた。濁った液体から鼻を突く匂いが立ち、ライックは顔を顰めてそのまま立ち去った。
『俺たちを信じろ』
陶器の割れる音に混じり告げられた言葉が、真緒の耳に残る。それは 真緒の心に希望という灯りを点した。
この世界の大切な人たちが、対立する様を見たくなかった。聞きたくなかった。
もしそれが、作られた関係だったらどんなにいいだろう。そう思っていた。
ライックの言葉は、真緒に失いかけていた希望を思い出させたのだった。
「…毒か?」
移動の馬車の中、ヴィレッツとライックは膝を突き合わせ、息のかかる距離で声を潜めて言葉を交わす。
ヴィレッツの問いに頷き肯定すると、ライックは片側だけ口の端を上げ、残忍な色を瞳に浮かべた。
「…今宵 マオは毒に倒れる、よろしいですな?」
ヴィレッツもライックの瞳に 凍てた瞳を交じわせ 首肯した。
ステリアーナは できることならマオを手に入れたいのだ。エストニルとの交渉に優位なカードであるから。
ただ、手に入れる手段がなかった。
これは誘い水。
ヴィレッツは その顔に冷笑を浮かべた。
この国で 好き勝手はさせない。
あの女狐は どの手を打ってくるか…
せいぜい、我がシナリオの中で踊って貰おう。
潜め合う声は 馬車の車輪の軋みにかき消されていった。




