286.対立
執務室には 重い空気が支配し、ヴィレッツは目の前に立つライックの殺気に晒されていた。
真緒を拐ったのは、失脚したテルロー公爵の娘・シェリアナの乳母だった。
年齢を理由に実家へと下がっていたが、シェリアナが毒混入の罪に問われ、修道院へと送られたことを知り、真緒への復讐心を抱いた。
ステリアーナの茶会に招かれた 令嬢の付き人のひとりとして王宮に入り込んだ。そして、真緒を誘い出す チャンスを伺っていたのだ。
死人に口なし。
王妃管轄の庭園に、あの女が何故出入りできたのかはわからない。本来は 悲劇が繰り返し起こらぬように、警邏の者が配置されている場所なのだ。
その警邏の者たちは外され、そこに続く小路には蜘蛛が配置されていた。捨てられた庭に真緒捜索の手が及ばないようにであろう。
そのため 薬で深い眠りの中に落ちていた真緒は、濡れた身体で風を浴びながら、長い時間放置されたのだ。意図的に配置されていた蜘蛛は、果たして誰の指示だったのか…。
ライックが淡々と語る事の顛末に、ヴィレッツは己が犯した失態に強い憤りを覚え、強く拳を握り込む。くい込む爪が皮膚を刺す。ぬるりと生温かい感触が指先に伝うが、些細なことだった。
勿論、ヴィレッツが指示したものではない。だが、統べるものとして 裏切り者を見落とし、その者が犯したその事実の責は己にあるのだ。
「……それで マオは?」
「……流石に 気になりますか?…今は王宮の医務室で手当を受けています」
棘のある言葉にヴィレッツは一瞬眉を寄せたが、直ぐに表情を消した。
「…そうか」
独り言のように呟き 立ち上がる。執務机を離れ、ライックとの間合いを詰めた。
強い緊張が空気を震わす。
指の先まで殺気を巡らせたライックは、踏み込むと瞬時に短剣を僅かに抜き、その柄をヴィレッツの腹部へと押し当てた。ライックが短剣を引けば、容易にヴィレッツを手にかけることが出来る。
互いに視線を外すことなく、息のかかる距離で強い視線を交えた。
「手を出すな!」
ヴィレッツが控える蜘蛛を制するのと 室内の殺気が一気に高まるのは同時だった。
「…良い判断ですよ、殿下。我々梟に抗うのは利口ではありませんからね」
その声に気配が動く。増してゆく緊張の中に殺伐とした空気が高まってゆくが、ヴィレッツは気配に目配せし、手出しを封じた。
「……」
「……」
互いに睨み合い、それを取り巻く気配も対立を強めていく。息苦しい程の高まりを破ったのはライックだった。
「…殿下、 それほどまでに女狐の囁きは魅力的か…」
嘲笑を含んだ物言いに、ヴィレッツはその挑発に乗ることなく、冷笑を浮かべた。
「……どういう意味だ?」
「…言葉の通りですよ。骨抜きにされましたかな?手網が緩んだとみえますな」
ライックは ぐっ と柄を腹に押し混みヴィレッツの動きを封じるかのように身体を押し付けた。ライックの動きに室内の緊張は最高潮に達した。
「…これも 囁きの産物ですかな?マオの護衛に蜘蛛の裏切り者をつけるとは。…殿下の指示では無いでしょうな?」
ライックの怒気が空気を揺るがす。
一触即発の事態は、暗部の不文律によって辛うじて均衡が保たれていた。暗部2大組織を有するエストニルには、互いの組織が闘うことを禁じている。全面闘争となれば国が二分する。いや、内部崩壊しかねないからだ。互いの組織に介入しないことも不文律のひとつだ。
このようにライックが蜘蛛について口にすることは、その不文律を破ることでもあった。
執務室を取り囲むように潜む暗部のものたちは、互いの主を護るための算段を巡らせ 牽制しつつ、主の動向を窺う。
息を呑む音さえ、均衡を破りかねない緊張状態の中、睨み合う二人に言葉は無い。
「……だとしたら どうなのだ?」
冴え冴えとしたヴィレッツの低い声が室内に響く。その問いにライックは答えなかった。
「…引け」
しばらくの沈黙を挟み ライックは言い放つと、自身もヴィレッツから距離を取った。潮が引くように気配が動く。
「…我々は手を取り合う前に 考えねばならぬようですな…」
それだけ告げると、慇懃無礼に礼を取り 静かに立ち去った。
張り詰めた空気が、ヴィレッツの吐き出す息によって、途端に解けた。
「…大事無い、騒ぐな」
ヴィレッツの周りには三人の影が静かに膝を折っていた。一様に口許を強く結び、ヴィレッツに向ける瞳には怒りの焔が揺らめいていた。
「……既に始末はついております」
年嵩の男が口火を切った。小路にいた奴らなど、指示を与えた者の駒に過ぎない。問題は 指示を与えた裏切り者だ。それを問えば 既に死んでいたと 悔しげに口元を結んだ。
「…それは 消された ということか」
肯定の頷きに、ヴィレッツの抜き去った剣が宙を舞い その剣先は男の首筋に止まった。男は微動だにせず それを受け入れた。
「御心のままに」
首を自ら差し出すかのように 深く頭を垂れた。
永くヴィレッツの傍らにあり、蜘蛛を率いてきた男にとっても、この事態は屈辱であった。むしろヴィレッツの手にかかることは、悦びであった。
ヴィレッツは深く息を吐き出し、握る柄に力を込めた。
「……お前の力が必要だ。お前の命、私に預けよ。身勝手な責任の取り方は許さない」
組織を改めて引き締めよ。マリダナの女狐に好き勝手を許してはならぬ。
言葉なく更に深く頭を垂れた男に並ぶ二人も倣う。
ヴィレッツはその傍らに膝をつき身体を寄せると、その背を手で触れた。ヴィレッツの指が規則性を伴いその背に踊る。
途端、男の顔に緊張と瞳には強い光が宿った。
黙したまま、男はふたりを連れて闇に消えた。
間を置いて、頭上の気配も失せた。
━━ 仲違いの報は、これで奴らに伝わるだろう。
『始動』
ライックがヴィレッツに身体を寄せた瞬間、自らの身体を盾に胸元に綴った。それは、暗部の隠語。手話と指文字を合わせた独特な伝達法だ。
以前からステリアーナの動きを ニックヘルムは警戒していた。エストニル国内の撹乱を狙っていることは察知していたが、見極めている中での今回の出来事。
これを機に ニックヘルムとヴィレッツの間で、秘密裏に交わされていた策謀が始動したことを意味する。
ヴィレッツも手をこまねいていた訳では無い。
ニックヘルムの思惑に従い、手筈を整えてきたのだ。裏切り者が出たことは想定外であったが、膿は出し切らねばならない。
ヴィレッツは男の背に隠語を記した。
腹心の男は、正確に意図を汲んで動くであろう。組織の粛清も任せて大丈夫だろう。責任感の強い男だ。
気づけば 月が高い。
月には雲がかかり、その姿は朧気に映る。
だが、その輝きまでが失せた訳では無いのだ。
月の陰りは、見せかけの姿。
しばし己も翳りの月となり、心疾しいものたちの餌となろう。
国内の対立をさせたいのなら、その思惑に乗ろうではないか。それによって 女狐はどう動くのか。
我々の結束はそのようなものでは無い。
この国の今を、この先を護る。
その想いはひとつ、だ。
マオが 無事でよかった…
ようやく安堵の息を漏らした




