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282.この先へ

トイレに向かう回廊を外れ、庭園に出る。

あれ?

という顔をした真緒に、ルーシェはイタズラが成功したかのように、満面の笑みで応えた。

「あれだけの方々に囲まれては、マオも辛いでしょう?」

行きたくもないトイレよりも、外の空気を吸いましょう。そう言ってくれるルーシェが大好きだ。


庭園には小さな東屋がある。

ルーシェは真緒をそこへ誘った。

小さな東屋は、簡素な木製のテーブルと小さなベンチがひとつあるだけ。華やかなヴィレッツ邸にしては珍しい造りだった。でも、清々しいくらい簡素な感じは、真緒を心の底からほっとさせた。ベンチに腰かけて手足を伸ばす。寛ぎきった真緒の姿に、ルーシェは呆れながらも笑って許してくれた。


そよ風は ひんやりとしていて、深まる秋を思わせる。

目を瞑れば、カサカサと枯葉が風に舞う音がする。それが耳に心地よい。

風の音、枯葉が大地を攫う音、木々の騒めき、遠くに感じる日々の営みの音。


生きている。 私は ちゃんと ここに存在する


それを実感していることが 何よりも嬉しい。

目を開けて、隣のルーシェと微笑み合った。


必要としくれる人がいる。

だから、その時まで精一杯生きるんだ。


「…マオ?」

草木をかき分ける音と共に、一番会いたい相手が現れた。ルーシェは ライルに目配せると、その場を立ち去っていった。その姿をふたりで見送ると、自然と視線が交わった。

「おかえりなさい」

マオが微笑めば、あぁ、とライルが微笑み返した。

二人並んで、ベンチに腰掛ける。重なり合う手は自然と繋がれ、言葉を交わさなくても居心地がよかった。


「…ねぇ、マオ」

ん? 小首を傾げて ライルを見上げれば、逆光が眩しく目を細めた。


「結婚しよう。どんなに僅かな時間だったとしても、俺は真緒の唯一でいたい。夫としてマオと共にありたい」


ライルの顔が近づいてきて、陽射しが遮られた。

優しく凪いだ瞳が真緒を捉える。

少し乾いた唇が、真緒のそれに重なる。

重ねられた唇は深くなることなく、丁寧に真緒の熱を攫ってゆく。堪らないとばかりに、ライルが吐息を漏らした。


「俺を受け入れて、マオ」


熱の篭もる言葉は、それだけで真緒の身体を熱く溶かした。


「YES 以外は認めない」


今度は深く唇を求められる。

真緒が喘ぐように身をよじれば、離さないとばかりに抱き締め、胸に捉えて離さなかった。

己の腕の中で 小さく震える身体は、どんなに強く抱いても この腕をすり抜けてしまいそうで、ライルの不安を煽った。その存在を確かめるように 一層腕に力を込める。

力の抜けた真緒の身体が 胸元で丸まって収まる。黒髪に顔を埋めれば、柔らかな髪は仄かに甘い香りを伴ってライルを虜にした。


「マオ、いいね?」

腕の中の愛しい存在が、頷いた。

ライルは己の内から湧き上がる歓喜に身が震えた。

今度はそっとガラス細工を愛でるように抱いた。


その黒髪に。黒曜の瞳に。その唇に。

そっと唇を落としてゆく。


まるでそれが己のものだと 所有を主張するかのように、丁寧に 丁寧に 唇を落とした。


「俺の心は 分かつ時が訪れても決して離れない。マオだけだ」

耳元で囁く誓いは、真緒の心に深く染みてゆく。真緒の心は青紫のライルの色に染められていった。


神様、どうか お願いします

このひとの傍に、少しでも長くいられますように


真緒はライルの温もりの中、強く祈る。

どうか この願いが 叶いますように ━━━━━



(…ようやく だな…)

回廊の柱の影に身を寄せて、ふたりの気持ちが寄り添い 重なり合ったことを見届けたライックは、安堵のため息を零した。不器用な弟分であるライルが想いを通じあえたのだ。兄貴分としては嬉しいことだ。


異世界からマオが現れてから、ライルは変わった。

いや、ライルだけでは無い。我々は変わった。勿論 己も含めてだ。


ふと 思うことがある。

18年前に歪んだものを正すために、マオは現れたのでは無いのだろうか と。


マオの存在が無かったら、

宰相は 息子たちに目を向けただろうか。

オレは イザとの関係を修復できただろうか。

国王は ミクを過去にできただろうか。

イザは 我々への見方を変えることができただろうか


ユラドラの革命。

サウザニアとの関係。マリダナとの関係。


マオが現れなくても、何かしらの結果に辿り着いたであろう。しかし、彼女の存在があったことで、我々はひとつになり、その困難を乗り越え、力としてきたのだ。

次世代を担うもの達がマオに関わり、力を発揮したのだ。


殺伐とした中で、いつか先に逝った奴らと同じように朽ちてゆくことしか想像できなかったのに、いつの間にか、ライルとマオの幸せな姿を願い、長く傍で見守りたいと願う自分がいるのだ。


そう 叶うのなら。

多くの血で染まったこの腕だが、あのふたりの結晶を抱いてみたい。

…そんなことを願っている。

乾いた笑いを浮かべ、ライックは頭を振りその考えを振り払った。


真緒の馬車を襲った奴らは 始末した。

…さて、小者の始末はどうだろうか。

宰相閣下とヴィレッツ殿下が指揮を執っているのだ。万が一にも失敗はないだろう。


対の柱の影に潜むルーシェに目配せし、ライックはその場を離れた。


ライックが立ち去るのを視線の端で見送り、ルーシェは東屋の周囲に意識を集中した。

どこにでも 悪の芽はあるのだ。油断はできない。

これ以上、真緒の生命の力を削ぐようなことは許さない。ルーシェは強く拳を握り締めた。


背後の気配に、ルーシェの殺気が放たれる。

「姉さん、俺だ」

エイドルの声に、ルーシェは殺気を収めたが振り返ることは無かった。エイドルはルーシェの横に並び立つと、東屋に目をやった。

「マオには、幸せになって欲しいんだ」

東屋の茂みの影にあるふたりのシルエットを見つめ、エイドルは呟いた。偽らざる本心だ。


「姉さん、オレ、マオのこと…」

「分かってる、父さんも私も。どれだけ あなたが マオのことを大事に想っているのか」

真緒を助けるため、どんな思いで ライルに託し 敵と対峙したのか。

そして ━━━━ マオへの想いを封じ込めたことも。


そっと弟の肩に手を回す。

「今なら 泣いてもいいわよ」

私が肩を貸すわよ。胸がいい?

そう言って引き寄せれば、エイドルは力の限りその腕を振り払った。

「…泣くかっ!」

顔を赤くし怒りを露わにする弟に、ルーシェは優しい笑みを浮かべた。揶揄った訳じゃないのよ。ルーシェはエイドルを見つめた。

「私は、エイドルにも幸せになって欲しい。生きていて欲しい。これは、父さんの願いでもあるの」

マオだけじゃない。

あなたにも 生きて 幸せでいて欲しい。


(はかりごと)に手を染めるのは 自分だけでいい。

あなたは、 騎士として、陽の当たる場所をいきなさい。


そしていつか 心通わせ合う相手見つけて、父さんを安心させてあげて欲しい。


「…姉さん…」

言葉に詰まり、何も言えなかった。

暗殺者(アサシン)として染まった手は、幸せを望まない。父さんは反対したけど、自分で決めて進んだ道だから、後悔はないのよ。

ルーシェはそっとエイドルの髪に触れた。

「マオも…あなたのことも 失うなんて 耐えられない」

あなたは 生き抜きなさい。

「…姉さん、オレ強くなる。姉さんよりも 父さんよりも。そして二人のことを護るよ」

エイドルは真剣な瞳で ルーシェの瞳を見つめた。

「私に 勝てるの?」

笑いを含んだ声色でルーシェは応えたが、その瞳は歓喜に満ち、その顔には心からの笑みが浮かんでいた。

「勝つさ、すぐにね」

エイドルもニヤリと返す。でも、父さんに勝つには何年か要るな…。そんな呟きに二人して笑う。


マオがいなかったら、姉さんとこうやって笑い合うことなど、無かっただろう。父さんの気持ちを知ることも無かったらだろう。

秘めた気持ちは叶わなかったが、家族の想いを知ることができた。


なぁ マオ …

どうやったら お前を 失わずに済むんだ?


生命の力を得る方法は ないのだろうか

渡りの樹を 復活させる方法は無いのだろうか


秋風は

エイドルの心に 吹き込んでくる

冷たい風が 焦燥感を煽る


答えのみえない現実への苛立ちと 限られた時間への焦りが エイドルを支配する

急に表情を変えた弟の背を、ルーシェは優しく撫でた。

「…なにか手がある筈だ。今、ハルセンも山神の知恵を持つサルド医師も 手を尽くしている」

私たちは、自分たちに できることをしよう。

無言で頷くエイドルを確認して、ルーシェは東屋に視線を移した。


立ち上がる二人の姿が見えた。

エイドルの背を もう一度優しく無でて、ルーシェは振り返ることなく二人を追っていった。


その後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、エイドルもその場を後にした。











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