281.もうひとりの母
「……マディ…… どうしてここに?」
喘ぐようなマージオの声が、乱れた息遣いと共に室内に響く。だるまさんがころんだ、のように誰も身動ぎせず、国王夫婦のその後の展開に注目する。
乱れた呼吸を広げた扇で隠し、マディ━━王妃は微笑んだ。
「私も お話に混ぜてくださいませ」
そう告げるよりも早く、アルマリアは真緒の隣に腰を下ろした。背筋を伸ばし、凛としたアルマリアに対して、明らかに狼狽えて視線を泳がすマージオの姿は、蛇に睨まれた蛙だ。夫婦関係だけでなく、この国の実権を握っているのは王妃だと、真緒は確信した。
王妃には 決して逆らってはいけない相手だ、うん。
アルマリアは優雅にお茶を申し付けると、乱れた呼吸を正すように、殊更優雅に扇ぎなら胸元に手をやった。
隣に座ってるけど…これって挨拶した方がいいのかな?助けを求めてルーシェを探せば、扉越しに話し中。念を込めて視線を送ったが、伝わることは無かった、無念。
「あ、あのぅ…」
挨拶をしようと立ち上がろうとした真緒を、細い腕が押さえつけた。思ったより力強いですね、王妃様。
「挨拶は結構よ。それよりも体調はどうなのですか?医師からは問題ないと報告を受けていますが」
口調は淡々としているが、愛情表現に不器用な人なのだということは解っている。アルマリアにまで心配をかけていることに申し訳なく思った。
「…大丈夫です。なんともありません。ご心配かけて申し訳ありません」
その言葉に眉尻を上げて、睨むように視線が向けられて、真緒の身体がビクッと跳ねた。
「娘の体調を心配しない親はいません!」
貴方は私の娘だと そういった筈ですよ、忘れたのですか。
━━ はい。確かに 言われました。
「…この人が、馬鹿な噂を真に受けて 王宮に混乱を招いたのです」
嫁入り前の大切な私の娘に、そのようなことを本気で願うなど許させることではございません。
アルマリアの語気は強く、その視線は真っ直ぐマージオに向けられていた。
「マオ、殿方は役に立ちません。貴女のことは私が護ります」
そう宣言する言葉の力強さとは反対に、背に回された腕は優しく包み込んでくれた。その優しさが嬉しくて、その腕にそっと手を添えた。
「マオが想う相手と添わせます。子など成さずとも宜しい。マオが幸せに過ごすこと、それだけです」
アルマリアは運ばれてきたカップに手を伸ばし、それを優雅に口許へ運んだ。貴女もいかが?と視線で促され、真緒もおずおずとカップに手を伸ばした。
うん、いい香り。
しばし現実逃避する。なんなんだ、この展開は。
夫婦喧嘩は他所でやって欲しい。ほら、この宮の人たちが、困ってるよ…。
この国で一番偉い人を伺い見れば、すっかり顔色を無くし、床に視線を泳がせていた。
「王妃様、私は結婚は望みません」
真緒がそう口にすれば、驚くこともなくアルマリアはカップを戻した。
「…それは遠くない未来に 死ぬとわかっているから ですか?」
真緒は頷いた。ライルには、幸せになって欲しい。きっと、私がいなくなっても彼を支えて幸せにしてくれる人が現れるはずだから。
「…それは、宰相の息子の意思でもあるのですか?」
真緒が答えないことに アルマリアは目を細めて、ゆっくりと真緒の身体を自身の正面に向かせた。
「先が決まっていたら、幸せを望んではいけないのですか?貴女は自分の思いだけで、相手の幸せを計るのですか?」
この人も仕方ないひとですが、貴女もですね…
ため息混じりに零すアルマリアの言葉に、真緒は縋るように見つめた。
だったら どうしろって 言うの?
アルマリアの瞳に宿る優しい揺らぎは、真緒の心を落ち着かせてくれた。言い含めるように、丁寧に紡がれた言葉は真緒に染み込んでゆく。
「先など 誰にもわからないのです。騎士などしていれば、彼の者の生命もわからないのです。
…今を 精一杯生きなさい」
そして マージオに視線を向けた。
「宰相やヴィレッツなどは、貴女に、この人を支えるため、国の安寧のために、貴女やその血を継ぐものが必要だと言うでしょう。この国は貴女が消えるくらいで傾くほど 脆弱ではありません。そんなことで国王が崩れることもありません。
そんなことは 烏滸がましい限りです!
貴女が現れるまでの18年間、私が、私の家族がこの人とこの国を支えてきたのです。ミクでは無い」
アルマリアは真緒の頬に両手を添わせ、指で優しく撫でた。
「いいですか、貴女はこの人の支えになれるほど 傍にいて 親孝行していないのです。
だから、貴女が その為だけに、その血を残すことなど考えなくてもよろしい。
━━━ 貴女がしなくてはいけないこと。
この人を支えるひとつになれるように、親子の時間を埋めていくことです。18年分を 残された時間でしっかりと埋めるのです」
わかりますか?
アルマリアは真緒の髪を撫で、慈しむように優しく抱いてくれた。
「貴女を残して逝ったこと、ミクはさぞかし心残りであったでしょう」
この世界では、私が貴女の母です。
頬が熱い。
きっと、王妃様の体温が高いのだ。
背中を擦る手が温かいからだ。
新たな温もりに視線を上げれば、マージオの腕がが真緒とアルマリアを包み込んでいた。
「…ありがとう、マディ…」
マージオの囁きはアルマリアに届いたのだろう。アルマリアが頷いたように感じた。
新たな足音が、室内に流れ込んできた。
今日は突然の来客が多い。この邸で働くひと達に同情する。
「…私の邸で ご歓談ですか?」
ヴィレッツの柔らかな微笑みから出たとは思えない、凄みのある声が室内に響く。
でも、勝手にやってきた 国の偉いひと達を、使用人の皆様では止められないですよ?
真緒がそんな思いで ヴィレッツを見れば、軽く咳払いして、扉の外から室内を伺う護衛騎士たちを一瞥した。…納得したようにはみえないが、大きくため息をつくと 説明頂けますか? とアルマリアに視線を向けた。
アルマリアはそっと真緒を離すと、着席するようヴィレッツとマージオに促した。
…こんな偉いひと達に囲まれていたくない。
退室したいが、生憎ここは真緒の居室だ。
そうだ!
こういうときは トイレだ。そのまま庭にでも行ってやり過ごそう。
タイミングを逃してはならない。
真緒は勢いよく立ち上がった。
だが、ヴィレッツに どうしたの?と艶やかな笑顔を向けられ、トイレ!と言い出しにくくなった。美形を前に 宣言できる程、女を捨ててないのだ。
「あ…、えーっと…」
泳がせた視線でルーシェを探す。今度は真緒の視線をキャッチしてくれた。切羽詰まった表情から察してくれたのだろう。アルマリアの近くに進み出て、耳元で囁くと、アルマリアから退室の許可が下りた。
胸をなで下ろし、ルーシェの手を借りて、席を離れる。振り返り、完璧とはいえないがカーテシーで退室の挨拶をした。
「…まだまだ 教育の必要があるようですね」
アルマリアの呟きは聞こえなかったことにする。
うん、気のせいだ。空耳だ。
とにかくこの扉を出てしまえばこっちのもんだ。
真緒は逸る気持ちを堪えて、できるだけ優雅に扉へと向かった。
「着替えを済ませて、戻ってらっしゃい」
…終わった…
王妃様は全てお見通しってことか。
観念した真緒はしおらしく はい と答え、行きたくもないトイレへと向かったのだった。
「…それで、マオになんの御用でしょうか、両陛下」
真緒の姿が扉の向こうに消えると、ヴィレッツは口を開いた。警戒する張り詰めた空気が漂う。アルマリアは扇越しにヴィレッツを見遣った。
「顔を見にきたのですよ。顔を見れば、体調が分かるというもの。それに、先にここを訪れたのは王ですわ。私はそれを追ってきたのです」
ふぅ、とヴィレッツはため息をつく。大方、マージオが真緒の到着の報を聞いて向かったのを、アルマリアは諫めるために追ってきたのだろう。
「ヴィレッツ、王妃を責めるな。私がマオによからぬ事を告げるのではと心配しての事だ」
マージオはすまなそうにアルマリアに視線を送り、責は私にあるのだ、と告げた。
「…それで、首尾はどうなのだ?」
マージオはヴィレッツにニックヘルムとの外出の成果報告を求めた。それに応え、ヴィレッツは晴れ晴れとした表情を浮かべた。
「ご推察の通りです。あんな小者、我々が手を下すまでもない。しかし、念を入れて潰しておきませんとね」
よからぬ事を考える者は後を断ちませんので。
物騒なことをサラリと言い放ち、ヴィレッツは優雅に微笑んだ。
「…ニックヘルムは…?」
マージオが伺うように問う。
今回の獲物は、亡き妻の実家筋のことだ。自死という形で妻を失い、妻の実家との関係もギクシャクしたものとなっていた。色々と黒い噂が絶えない家系であったが、ニックヘルムは負い目からなのか、その事に対して確かめることも、処罰することもせずにきたのだ。
「…淡々としております。これであの家との悪しき関係が断ち切れることでしょう」
息子の為に、清算する気持ちになれて何よりです。
ヴィレッツは本気でそう思っている。
悪しき権力の名残りだったが、今まで、ニックヘルムが動かない為に好き勝手されていたのだ。ナルセルの治世に負の遺産を継ぎたくなかったヴィレッツにとって、願ってもないチャンスだったのだ。
噂が広がるのを止めることをせず、逆にそれを煽り 後に引けない状況に追いやったのだ。王族を辱める行為に、虚偽を申し立てた行為は、到底許されるものでは無い。
そして、マオには王が認めた、宰相の息子という婚約者が居るのだ。
『貴方がお腹の子の父親であれば、王もお喜びになる。これで宰相の鼻をあかせますな』
ひろがる噂にのせて そう囁いてやれば、簡単に靡いた。私の意を汲んだ貴族たちの甘言に乗せられて踊らされているとも知らずに憐れなものだ。
「それは 良いこと。流石ですわね」
アルマリアも艶やかに微笑んだ。
昔から、ニックヘルムとこのふたりは 口にするのも憚られる事柄を処理してきた。決してマージオには関わらせようとしなかった。いや、ミクのいう理想に逃げて、そういったダークな部分を 見ない振りをしてきたのだ。
マージオは微笑み合うふたりの傍で、カップを手に取った。冷めた茶は、想像以上に苦く感じた。




