274.王宮の噂
目を開けた筈なのに、視界は闇だった。
森を抜ける低い風の音はまるで獣の唸り声のようだ。それに混じり、フクロウの鳴き声が木霊する。まるで何かを呼んでいるようだ。闇の奏が真緒の耳を捉えて離さない。真緒は恐ろしさに自身の身体を抱きしめてギュッと目を瞑った。
自分の温もりが、安心を与えてくれる。
深呼吸を繰り返し そっと目を開く。
目が慣れてくれば、ここは自身の部屋だと理解できた。月明かりに照らされたシンプルな家具が視界に映り ホッと息をついた。
(随分 寝ちゃったな… もう夜じゃん)
頭が痛いのは寝すぎたからか …
スッキリしない頭を軽く振り、ベッドを降りる。月が見たくて窓辺へと足を進めた。ふらつく足もとは心許なくて、手近かな丸椅子を窓際に置いて腰掛けた。
満月には どこか足りない歪な月が夜空に浮かぶ。
何か が足りない 、どこかが歪なのだ。
今のライルとの関係に似ている。
…ライルもルーシェも 私に何か隠してる?
あのとき、私を揺り起こしたとき。
ライルはなんて言ってた?
━━ 逝くな!
そう言ってなかった?
そのときの ルーシェの怯えを含んだ険しい顔。
私はルーシェの暗殺者としての姿を知っている。でも、そんな表情見たことない。
この体調の悪さが、何か関係するのだろうか。
うーん 全然わからない
それに エイドル。
なんなんだ? 『だよな』って。
鍵は 『私』 。
答えを …私は知っている のだと思う。
いや、確信に近い。私は 見ないふり、気付かない振りをしてるんじゃないんだろうか。
知りたくない真実
それから目を背けている ━━━ そんな気がする。
思考を巡らせ、ぼんやりと眺めていた夜闇に影が動いた。月明かりの中、薄闇の中に落ちる漆黒のシルエットは森へと消えた。
咄嗟に立ち上がり窓に手をかけた。
「…どうしましたか?」
不意に声をかけられて身を固くする。振り返ればいつの間に開かれていた扉に ハルセンが立っていた。
「…いえ。なんでもないです。外の空気が吸いたかっただけです」
浮かべた笑は顔に張りつけたようでぎこちないものになった。声が震える。
だって先生の雰囲気が違うから。研ぎ終えた刃のような鋭さを感じるから。
足音もなく近づいてくるハルセンに気圧されて、窓際に乗り上がるように後ずさった。
「マオ、ベッドに戻りましょう?」
差し出される手を無意識によけ、もう少し起きていたいと口にする。本能が 従うな と警鐘を鳴らす。第六感なんて冴えたものは自分にはない。でも、ヒロインでもないのに 異世界で生き残っているのは、きっとこの野性的な勘があるからだ。運がいいとも思えないし。
「貴女には まだ休養が必要ですよ…」
柔らかい笑みなのに向けられる瞳は冴え冴えとして見えた。
知っている人なのに知らない人。
得体の知れない恐怖に 真緒の身体は自由を失った。
ハルセンはそんな真緒の腕を取り、背に手を当てゆっくりと擦る。優しい手つき、温もりが伝わってくる。
(…やだ…、先生のことまで疑うなんて)
見つめたハルセンの横顔は、優しげだ。どうも疑り深くなっているようだ。ダメだな…私。
真緒はハルセンのリードに従い、ベッドへと戻った。
「…少し熱っぽいな、これを飲みなさい」
差し出された薬湯を素直に口にした。ほろ苦さと甘さが混じる不思議な味。
あれ?
なんでこんなに準備がいいの?
そう思った時には、勧められるままに飲み干した後だった。身体から、吸い取らるように力が抜けてゆく。倒れそうな身体を、ハルセンの腕がそっと横たえてくれた。
「おやすみなさい、マオ。抗わず 休みなさい」
ハルセンの手が真緒の瞼をそっと閉じる。その手は 真緒の瞳から光を遮るように置かれたままだった。
ゴツゴツとした手 …先生も剣を握る人なんだね…
意識が沈む。
暗闇に引きずり込まれる。身体ごと沈み混む感覚に手を伸ばし救いを求める。
その手を掴んでくれる人は いなかった。
真緒の意識は 深い眠りに沈んだ。
「…落ちたか」
「…はい。本当に王宮まで眠らせておくのですか」
「…王命だからな」
深い眠りについた真緒の傍らで、ライックはハルセンに声をかけた。いつも飄々としたこの男にしては珍しく、険しい表情だった。ハルセンはこの男の胸中を慮る。
飄々とした風貌と違う繊細な内面は 今までどれだけの心を殺してきたのだろうか。
「…いこうか」
ライックの静かな声に、ハルセンは頷きその後に続いた。扉近くで足を止め、振り返り真緒の寝顔をみる。
規則的な吐息のような呼吸が、夜の空気に溶けてゆく。少し尖った唇が呼吸のたびに震える。
「…可愛いだろう?惚れるなよ」
ライックのふざけた口調に、ハルセンは思わず笑みを零した。何を言ってるんだ この男は。自身の娘と同じくらいの女性に、心映す筈がないだろう。
「娘と同じですよ」
何を言い出すのかと思えば、そう呆れ口調で返せば、真剣な眼差しとぶつかった。
「だからだ。だから、失いたくない」
無情な現実に、苛立ち もがいているのだ。だから力を貸してくれ。
その瞳が語るものを受け止めたハルセンは大きく頷いた。
「勿論です」
そっと扉を締める。今度は振り返らずにふたりは立ち去った。
真緒の療養のための住まいは、村の外れにある一軒家だ。厨房と居間と玄関を兼ねたフロアを除けば、真緒の居室と客間とも呼べない寝室がひとつあるだけの家だ。密談にはそぐわない。
真緒の住処から近い森の小屋が、その場所に選ばれた。そこに集った顔触れを確認して、ライックは口を開いた。
「ハルセンからの報告は聞いたか?」
その問いにライルとルーシェは表情を固くして頷いた。
「…俺が王都からきた、その意味も 判るな?」
頷かないライルに視線を向けて、淡々と告げた。
「王命だ。お前たちを、王宮へ連れ帰る」
ライックがわざわざ来たと言うこと。
絶対服従の命であり、確実に連れ帰るという意志。
そして、何かしらの問題が発生している ということ。
ライルの探るような視線を、あえて無視してライックは続けた。
「…アーウィン伯を知ってるな?」
突然出た名に、意図が掴めず戸惑う。
アーウィン伯爵はニックヘルムの亡き妻の異母弟である。本家は兄が継ぎ次男であったアーウィン伯は婿入りする形で伯爵家を継いだ。そこにはライルと同い年の息子が居たはずだ。貴族名鑑に載っているような一般的なことしかライルの知識にはない。その息子についても名前すら浮かばないくらいだ。
記憶を辿り思い出したライルだったが、やはりここで名が上がることには思い当たらなかった。
「王宮にある噂がたっている」
ライックが口の端を歪め、目を細めた。
「マオが子を宿している ━━ 腹の子の父親は アーウィン伯の息子だ」
ライルの反応を見るようにライックは視線を向けた。予想外の内容に、ルーシェも驚きに声が出ない。ライルは一見表情が変わらないようにみえるが、握りこんだ拳は色を失い、ライックを睨めつける瞳は怒りに燃えていた。
殺気立つ室内を中和したのはハルセンだった。
からかう話ではないでしょう。ハルセンはライックを諌め、詳しく話を続けた。
噂の出処は、王宮での真緒付きの侍女たちらしい。
真緒の吐き気と優れない体調はおさまることがなく、懐妊ではないのか と噂されたことがまことしやかに伝わった。未婚の女性に有るまじき事態に ヴィレッツ殿下が真緒を匿っている のだと。
そして、そんな噂の中、
『私が腹の子の父親かもしない』
そう名乗るものが現れた。それが、アーウィン伯の息子である。身篭るような関係にあったと主張し、ヴィレッツに婚姻の許しを求めたという。
「…マオには 常に影がついている。そのような男女のことが為されてれば すぐ知れる」
全く 有り得ないことだ。ライル、安心しろ。
ライックの揶揄うような口振りに、全く面白くない、とライルは憤った。
「マオが妊娠している事実はありません。医師である私が証明します」
ただ、行為があったかどうかの事実は証明のしょうがありません。影が証言する訳にもいきませんので。あちらの主張も、万が一妊娠していれば 父親は自分。 そう主張しています。
「愛し合うふたりに横恋慕して、権力を笠に着て連れ去った男。偉く男前の称号だなぁ、ライル」
ハルセンが真面目に説明しているのに揚げ足をとって喜んでいる、本当にタチの悪い男だ。
「…それにしても、そんなことをしてなんの利を狙っているのですか」
ルーシェの疑問にハルセンが答えた。
男女の仲であったことを盾に婚姻に持ち込もうとする、あるいは貴方を陥れ、宰相の失墜を狙っているのかもしれません。国王の実娘である殿下の養女。婚姻を結べれば、政治的な立場は強まるでしょう。本家もライル様の母君が亡くなられてから、宰相家との関係はギスギスしたものになっています。父親のアーウィン伯よりも、息子の方が野心家ですから。
そんな身勝手な政治的な野心のために、マオは不名誉な噂を流され、思惑に翻弄されるのか!
生命の限りが迫る中で、こんなくだらないことで傷つけたくない、苦しませたくない。
「…俺は何をすればいい?ライック」
ライルが問えば、ライックは満足そうな笑みを浮かべた。
「話が早いな。間男から 夫に役替えだ」




