266.夜明け
窓の外が白み始めたが、室内に朝日が差し込むのは まだ暫く後だろう。
人払いした部屋でひとり窓枠に背を預け 佇む。
マリダナ王・ヤーデンリュードは自身が放った影の報告を待っていた。朝日がなくとも 灯りは不要だ。調度の輪郭を視線でなぞると、振り返り外の景色に視線を移した。
(…遅いな…)
大きな息を吐き出し、急く心を落ち着かせる。
国を統べる立場になって四半世紀。
マリダナは安寧秩序が保たれて久しい。
王となった頃、派閥間の闘争やサウザニア、ユラドラを含む諸国との関係の中、影を使い 我が身を囮にし、生命の危機の中に常に身を置いていた。その頃の感覚が蘇り、気分が高揚する。
自身が直に指揮を執るのは いつぶりであろうか。
研ぎ澄まされ、興奮の中にある神経が昂りそっと目を閉じた。
あれは、実に思惑通り動いてくれた。渡りの姫は 始末できただろうか。
目覚しい復興を遂げたとはいえ、エストニルがこの短期間でマリダナを脅かす存在となり得たのは、渡りの姫の存在があったからだ。
マージオの娘、渡りの姫… そう ただの小娘だ。
なんの力も持たない。
━━━ だが、その存在がこの国を列強国の一角に押し上げたのだ。
その存在を護るため。
その大義名分は争いを招く。そして その目的のためには手段を選ばず、諦めることがない。エストニルがそうはならない、その保証は無いのだ。
(… 芽は早いうちに摘むべきだ …)
マリダナの王として、国と民を脅かすかもしれない存在を見過ごす訳にはいかない。ヤーデンリュードはその双眸に強く鋭い光を宿し、正面の大樹を見据えた。
「…こんな早朝に前ぶれなく訪ねてくるとは、些か礼を欠くのではないかな ━━━━ エストニルの王よ」
背後の扉が開く気配に、ヤーデンリュードはゆっくりと振り返った。
「…礼を欠くのはどちらであろうか。我が国で暗部を使うとは」
マージオと共にニックヘルムが正面に立つ。ライックは二人を護るように全身に殺気を纏いながら警戒を怠らない。その横をすり抜け、ライルはヤーデンリュードの背後、窓際に移動した。
「… 物々しいな」
ヤーデンリュードがおどけたような口調で肩を竦めるが、マージオもニックヘルムも反応することはなかった。
「…待ち人は戻りませんよ、永遠にね」
さすが 王の手の者ですな、口を割る前に自害しましたが。あぁ、渡りの姫は無事にお戻りになりましたよ。ニックヘルムは薄く笑った。
「あらゆる国から招かざる者たちが宴に潜んでおりましたが、特にマリダナの夜光虫は蜘蛛や梟の良い餌でしたよ」
ライックが冴え冴えした視線をヤーデンリュードに向け、口の端を上げた。我々を舐めてもらっては困る、そう瞳が語っていた。
「…マリダナ王よ、我々は争いを望まない。この大陸の中で国と民を護る術と地位、後ろ盾を望むだけだ」
マージオは低く落ち着いた 強い意思を含んだ口調でヤーデンリュードに向かい言い放った。
「…だが、大切なものを害されるのであれば、全てを戦乱に巻き込む覚悟はある」
その言葉と共に、山神の使いの長・リュードが静かに現れた。その気配を感じ取れなかったことにヤーデンリュードは目を見開き驚きを見せたが、直ぐに表情を消した。
山神の使いは広大な山脈を拠点とした一族だ。
その領域はマリダナの王都近くまで迫る。ユラドラ、サウザニアとも広く接しており、その戦闘力は戦士数人居ればで一師団にも匹敵すると言われている。
長い歴史の中、エストニルの滅亡の危機を救ってきたのは山神の一族だ。
そして、渡りの姫を召喚できる人智を超えた力を有する者たち。
濁流を生み出した事実は、ヤーデンリュードの記憶に新しい。
「マリダナ王よ、我の土地で勝手は許さない。全てマリダナへ送り返した」
リュードの言葉に続き、ニックヘルムも口を開いた。
「ベルタの街に入った商隊は 拘束しております。ベルタの自警団は優秀でしてな。商隊の正体を知ることなど雑作ないこと。…あぁ、ユラドラでも足止めを食らっている商隊の報告が上がっております」
━━━ 何を画策されていたのかな?
ライックが抜刀するのに合わせ、ライルも間合いを詰め、短刀をヤーデンリュードの背後に構えた。
「… 手を引こう」
長い沈黙の後、嘆息と共にヤーデンリュードはマージオに告げた。出来うる限りの要求に応えよう。
ヤーデンリュードはマージオとニックヘルムに視線を向け、胸に手を当て誓いをたてた。その姿を冷ややかに見つめ、ニックヘルムはライックに剣を引くよう目で合図する。ライックはその視線をライルに流したが、ライルは殺気を隠すことなく、ヤーデンリュードとの間合いを更に詰めた。短刀の感触が厚い布地の上からもわかる。それが背筋を這い首筋に触れる。
嫌な汗が背に流れる。
怒りと共に発せられる殺気は無機質な刃を通して熱として伝わり、ヤーデンリュードの心臓を鷲掴みする。何度も死線をくぐりぬけたヤーデンリュードには、ライルの本気がわかった。
「… 渡りの姫には手を出さない」
ヤーデンリュードを保たせるのは王としての矜恃だけだ。この瞬間にも、この男の刃は自分の喉を裂くだろう。この命が惜しい訳ではない。ここで倒れれば、後継の定まっていないマリダナは諸国からの侵略を受けるか、国内の後継争いに荒れることだろう。
マリダナと小娘を天秤にかけることなど有り得ない。起こるかもしれない問題に杞憂するよりも、己の国を護ることが大事であることは自明の事実だ。
「納めよ」
マージオの言葉にようやく首筋の刃が離れた。しかしヤーデンリュードは背後から伝わる変わることの無い殺気に、緊張を解くことができなかった。
「夜明けと共に、出立していただきます」
宜しいですな、ニックヘルムは有無を言わさず言い放った。
「…この一晩で、護衛が減り心許ないでしょう?心安らかな帰路のため我が国の精鋭をつけます」
私の息子たちです、ご安心を。
油断なくヤーデンリュードを見据える双眸が細められた。
一人の男が進み出てヤーデンリュードの前に進み出て礼を取ると、父親譲りの感情の読めない双眸を向けた。
テリアスはヤーデンリュードの背後に立つライルを一瞥し、弟が護衛致しますので、ご安心ください。さぁ、お仕度 を。慇懃無礼とも取れる態度でヤーデンリュードを促した。
別室へと誘われ、足を進めるヤーデンリュードの背にニックヘルムの声が掛かる。
「…あぁ お伝えし忘れました。ステリアーナ様はしばらく我が国にご滞在いただくことになりました」
その言葉にヤーデンリュードの足が止まった。
「アルマリア様のお招きで、ヒルハイト王を交え、水入らずのときをお過ごしになることとなりました。ステリアーナ様は大変お悦びで、既にアルマリア様と滞在先へと出立されました」
「…私は許可した記憶はないが?」
それは体の良い人質ではないか!低い声に怒りがこもる。それをニックヘルムは目を細め口の端を上げて受け流した。
「そうでしたか?ステリアーナ様の侍女に紛れ込んでいた者たちは知っていたようですが?」
あぁ、報告の前に梟の餌食となったか。王宮とはいえ、我が国の森は深い。蜘蛛の糸に絡められたか。
「…くっ…」
低く唸るような声を漏らし、ヤーデンリュードは再び足を踏み出した。
「マリダナが鉾を納めれば良いだけのこと。こちらの要望は帰路、我が息子が具体的にお話しさせていだだきます。良い結論へと繋がり 約定を締結できる頃、ステリアーナ様も帰路につかれることとなりましょう」
怒りの焔が揺らめく無言の背中をマージオとニックヘルムは見送った。その姿が扉の先に消えたのち、マージオは深くため息をついた。
「… ただ、安寧を求め、我が国を護りたいだけなのに、何故 放っておいてくれないのだ…」
ため息と共に吐露された言葉に、ニックヘルムはマージオの肩に手を置き 労った。今までこういったことはアルマリアとニックヘルムの役割だった。エストニルが今後この大陸内で地位を得ていくためには、マージオ国王がことの処理に出る必要があったし、マージオ自身が望んだことでもあった。
「夜が明けるな…」
いつの間にか朝日が差し込み始めていた。
外の景色に視線を移せば、木洩れ陽が眩しく目を細めた。
「フロイアス殿下とヘルデハークはもう出立するころでしょう」
表向き アルマリアの招待を受けナキア王太子妃との親睦を深めることを理由にローゼルシアはエストニルに軟禁となった。同じく監視下にヒルハイト王を置くことでサウザニアを牽制した。
「この国の復興を支えてくれた恩義ある義兄上だ。マオのことを思えば甘いのかもしれないがな…」
お前の息子は、許してくれるだろうか。
マージオの言葉にニックヘルムは苦笑を浮かべた。
ライルの態度は お許しください。あれは妻に似て真っ直ぐなものですから。
視線で会話したふたりは、笑みを深めた。
ライックに促され、ふたりは部屋を後にした。




