257.囮
どこまでも 沈んでゆく。
揺らぎながら沈む身体は鉛のように重く、指ひとつ動かすこともままならない。思うようにならない身体に苛立ち、無理矢理 身をよじれば、せり上がる胃が悲鳴をあげた。胸が焼けるようだ。のたうち回るほどの苦痛に襲われながら逃れる術がない。
いっその事 このまま闇に呑まれてしまおうか …
このまま意識を手放したら どんなに楽だろう。
━━━ さぁ 手放してしまえ。 楽になれるぞ。
甘美な悪魔の囁きが、真緒を絶えず 誘惑した。
何度目かの波に襲われ、真緒の意識が闇に沈みかけたとき、苦しさに伸ばした手が 強く握られた。
その感触が、真緒にまとわりつく闇を払い、意識を繋いだ。
急速に真緒の耳に音が戻ってくる。
衣擦れの音、息遣い。そして、握られた手の感触。
「…気がついたかしら…?」
柔らかな声が、真緒を迎えた。重い瞼をなんとかこじ開けて、その声を頼りにその人を探す。
視線を動かせば、世界が回る。
襲ってくる吐き気に再び目を閉じ、その波が引くまで耐えた。声の主は、そんな真緒の背を優しく摩り続け、人肌の温もりに安心を得た真緒は再び意識を手放した。
不意に目が覚め、真緒の身体が小さく震えた。
「目が覚めましたか?」
頭上から囁くような声がする。その声の方へ頭を動かせば、柔らかなものに頭を預けていることに今更ながら気づいた。
視界に捉えたのは、目の覚めるような金髪に理知的なグリーンの瞳の女性。
…… どなたでしょう …?
真緒は瞬きも忘れて、その女性を見つめた。
同性同士が見つめ合う、一種異様な状態がしばらく続いた。月の光を受けて輝く金髪は、絵画から抜け出した女神のようだった。その端正な顔にほほ笑みを浮かべ、やや薄めの玉唇から吐息のように柔らかな声が紡がれた。
「…気分はどうですか?」
吐き気は?目眩は?
矢次早に繰り出される質問に、ゆっくりと頭を振る。その女性との位置関係に、自分が膝枕されていることに遅まきながら気づいた。
「すみま…っ!」
慌てて身体を起こそうとして、揺らいた視界に身体が支えきれなかった。膝の上に崩れた真緒の背を、手の温もりが慰めてくれた。
「まだ無理は駄目よ。…貴女、毒に慣れていないのね…」
可哀想に、辛いでしょう。
いや、毒に慣れてるって… そのことの方が怖いんですけど。ということは、毒に身体を慣らす必要のある身分の人ってこと?どうにか目眩をやり過ごし、再び目線を合わせれば、女神は再び微笑んだ。
「初めまして 渡りの姫。お会いしたいと思っておりました。私はローゼルシア。サウザニア貴族ヘルデハーク公爵の娘です」
こんな形でご挨拶する失礼をお詫びします。
なんとも優雅で丁寧な自己紹介をいただき、焦った真緒はしどろもどろにとりあえず名乗った。
「真緒 … です」
公爵の娘なら、毒に慣らしていてもおかしくないか…。妙なところに納得して気づいた。
「あのぉ…もしかして… あの王太子と婚約した…?」
その言葉に 小さく頷き返され、思わず おめでとうございます と、なんとも場違いな祝福を贈った。
「…ここは どこでしょうか」
私、王妃様に呼ばれているので行かないと。真緒は今度は慎重にそろりそろりと身体を起こした。軽い目眩は仕方がない。これくらいは気合と根性で我慢だ。
乗り切れ、私! 頑張れ 私!
自分を叱咤激励して、深呼吸を繰り返した。
「…まだ無理をしてはいけないわ。それに、貴女は囚われているのよ」
ここから自由に出ることはできないわ。だから今は身体を大事にして。
身体を起こしたものの そこから動くことができないでいる真緒の身体を、そっと横たえた。
大きく息を吐き出して、この状況を整理する。
王妃様に呼ばれて、侍女の案内で回廊を歩いていた。
首筋に違和感を覚えて…
急に吐き気に襲われて…襲われて…どうした?
無意識に手が首筋を探る。その仕草を目にしたローゼルシアはサラリと言い放った。
「毒よ。首筋に毒を打たれたのよ」
まぁ、微量なら死にはしないわ。私は、小さい頃から慣らしているから もう大丈夫ですけど。貴女は違うわ。
「…大丈夫よ。目的を果たすまで、私たちが脅かされることは無いわ」
「…目的…?」
真緒はローゼルシアのグリーンの瞳を見つめた。
「━━━ 父と殿下の生命、国王の失脚、そんなところかしら」
淡々とした口調で語られた内容に、真緒は目を見開き言葉を失った。
そんな天気を語るみたいに、サラリと言う内容じゃないよね?
この世界のお姫様たちの常識が理解できない
言葉を失った口よりも、心の声は多弁だ。
真緒は、心の叫びを繰り返しながら、ローゼルシアをただ ただ みつめた。
でも、それってサウザニアの問題でしょう?
なぜ私が巻き込まれているの?
私、関係ないよね?
「貴女…、自分は関係ない、なぜ巻き込まれたのかって、思っているでしょう?」
心の声が漏れているのだろうか。ローゼルシアは目を細め、真緒の瞳を覗き込んだ。まるで心の奥まで見透かされているようで、心の声を言い当てられた真緒は視線を逸らした。
「フロイアス殿下を引きずり出すためよ」
核心をついた答えを、ローゼルシアは真緒に突きつけた。
思い当たらなくもない。そうかもしれない、そんな考えが頭の隅を過ったが、婚約者を前にそんな考えを一瞬でも持ったことに、強い罪悪感を感じていた。
「わたくしの存在では、父を誘き出せても 殿下は無理ね。彼らも良く知っているわ」
感情のない言葉を口にしながら、自嘲する。その表情は悲愴感に満ちていた。貴方もそう思うでしょう?
ほほ笑みかけるその瞳は深い悲しみを湛えていて、真緒は直視できなかった。
「━━━ 還ってしまえば良かったのに」
吐露された言葉の剣は、マオの胸に深く突き刺さった。
「━━━ っ!ごめんなさい…!そんなつもりでいったのではないの!」
思わず漏れた心の澱が剣となって 真緒を貫いたことに気づき、ローゼルシアは慌てた口調で真緒に詫びた。今までとは違う感情の籠った言葉に、ローゼルシアの本心がみえた気がした。
「王太子のこと…」
真緒が口にすれば、ローゼルシアは弱々しく微笑んだ。
「お慕いしております。幼い頃から」
形ばかりでも夫婦となれば、夫婦としての情は繋いでゆける。たとえ殿下の心に貴女がいても、国を護るパートナーとして共に歩むことができる。
そう納得したのに。
この想いを 閉じ込めたのに。
駄目ね、貴女を前にしたら自制が効かなかったわ。私もまだまだ未熟ね。
「…私を殺したら良かったじゃないですか…」
思わず口をついて出た言葉は、刺々しく自分自身の心も抉った。
この世界で生きていこう、そう決意したあとにぶつけられた『還ってしまえ』は、正直 堪えた。
感情のままに言葉をぶつけてしまい、真緒は自己嫌悪に陥って瞳を伏せた。
「…それをしたら、私は殿下の心を一生手に入れることができなくなるわ。そのような卑怯者には成り下がらない。…叶わぬ想いを抱き続ける苦しさは殿下も私も同じですわ」
そう言い切ったローゼルシアの顔には、先程の弱々しさはなかった。グリーンの瞳には光が宿り、玉唇には微笑みが湛えられていた。
強い女性だな …
凛としたその姿が、眩しかった。
このひとは護るべきものが 沢山あるのだ。
サウザニアであり、父親であり、民であり、想うひと なのだ。
「ここは、王宮内ではなさそうです」
宴の調べも、賑わいも耳に届かない。聞こえてくるのは、窓の鳴る音と、風に揺れる木々の騒めきだ。それに混じり、金属の擦れる重い音がする。
「…囲まれているわ」
見張りも 多く配置されているようだわ。こちらの貴族に手引きした者が居るようね。
ローゼルシアは独り言のようにつぶやき、真緒に置かれている状況を説明した。
「ねぇ、誰がこんなことを…」
真緒がため息と共に紡いだ言葉に、ローゼルシアは答えた。
「第一王子派よ。殿下の後見についた父と私、殿下に制裁をくだす、そう主張しているわ」
一旦 言葉を切る。不安に揺れる真緒の瞳に視線を合わせ、ローゼルシアは不敵に微笑んだ。
「大丈夫よ。このような事態も想定済みです」




