205.贖罪
「…マオを… 自分のものに…」
ライルの告白に、これを見りゃ わかる とライックはカウチソファを一瞥した。テリアスも大きく息を吐くと、なにやってるんだ…と天を仰いだ。
ライルの姿は、瞬殺・1RKO負けのボクサーの様だった。
あまりの姿に、テリアスとライックは視線を交わし、ため息をついた。
「こういうことは…合意の元で だろう?お前は 心得ていると思ったのだがな」
ため息混じりのテリアスの言葉に、ライルはびくっと身体を揺らした。
その通りだ。そんなことをするつもりなんて無かった。ただ、どうして避けるのか、頼ってくれないのか問い正したかっただげだ。
「…話し合いをする筈じゃなかったのか?」
好きな相手を前に 男として分からなくもないがな、ライックは顎に手をやり擦りながら 若いな と苦笑いを浮かべた。そして表情を厳しいものに変えた。
「だがな、マオを傷付けていいことにはならない。人として、男として最低だ」
語気を強めて言いきられた言葉を、そのまま受け止めた。全く その通りだ、卑劣な行為でしかない。
「話はできたのか?」
テリアスの言葉に、ライルはようやく顔を上げた。視線は床を見つめていたが、なぜマオがあのような言葉を言ったのか知りたい、と思ったからだ。
『…私を この世界に繋ぎ止める役目なんでしょう?私の想いを利用して、愛を囁いて…、この国に繋ぎ止めるために優しい言葉をかけてくれたんだよね。…もう そんな事しなくてもいい。帰りたくても、帰れないんだから』
真緒の言葉をそのまま口にすれば、二人は押し黙った。なぜ、真緒はそんなことを言ったのか?
傍から見て、このふたりは想いを通じ合わせていると思っていた。ライルも同じであろう。
惹き合いの石は渡りの樹が認めた想い合うふたりの真名を告げることにより生まれるもの。それがふたりを繋ぎ、この世界に繋ぎ止めるものではなかったのか?
「…誰かに 何か吹き込まれたのか…?」
唸るようにライックが呟けば、テリアスが否定した。
「宿屋でも 接触は無かった。ビッチェル王子のこともあるから、そこは警戒していた」
ふたりの視線がライルに注がれる。ライルは頭を抱え、ゆるゆると頭を横に振った。
「訳が分からない。想い合っている、そう感じていた」
「宿屋に住む、と言い始めたことと関係するのか?時期的にはその頃が怪しいな」
三人は無言になり 思考に耽ったが、真実には辿り着けなかった。杯を重ねるライルを咎めるものはいない。酒では弟の枯渇した心は満たされないと知りながら、テリアスは黙々と弟のグラスを満たす。
ライックは一杯だけ付き合って、ライルの肩を小突くと黙って部屋を出ていった。
兄弟で交わす杯は、初めてだった。
年の離れた弟と、プライベートで関わることが無かった。沈むライルの姿を見る。今までの時間を埋めているようで背徳感はあるが、喜びを得ている己を感じていた。力になってやりたい。本心でそう思った。
気付けば、宿屋の灯りの届く場所にいた。
宿泊客なのだろう、陽気な笑い声が聞こえてくる。真緒の足元には朧気な灯りが届いていたが、それすら別世界に感じるほど 宿屋の灯りは眩しかった。
食堂を通らなければ、部屋には戻れない。
今は あそこに踏み入れる気力は無かった。
裸足で歩いてきた姿を見れば、マルシアが黙っていないだろう。ミクの身代わりをすることにも怒りを露わにしていたのだから。
数歩後ずさると、踵を返して走って森へ入った。
ランプも月明かりもない。
こんな状態でなければ、恐怖に足がすくんだだろう。
闇夜に包まれることは、今の真緒の望むところだった。大地に張る根に足を取られながら、彷徨う。何も考えずにいられるほどに疲れ果てて眠りたかった。
足をとめずに幹から幹を伝い歩く。
気がつけば湖畔に辿り着いていた。
いつも訪れる渡りの樹がある湖畔の対岸になる場所だった。
雲隠れの月は、雲の切れ間からひとときの輝きを水面に映していた。それは水盤のようで真緒を惹き付けた。迷うことなく湖に足を踏み入れた。
冷たい水が肌を刺す。傷のある足がヒリヒリと存在を主張したが、真緒は意に返さなかった。水深は直ぐに膝になり、やがて腰、数歩進めば胸となった。
水が身体に纏わり、歩みを妨げる。
水を掻くように、それに逆らい進んでゆく。
もう少し…! もう少しで 手が届く。
黄金の水盤に手を伸ばした途端、雲が隠してしまった。波状の広がる水面の中で、真緒は取り残された。
━━━ これも 偽り か …
身体の力を抜いて 水に沈める。
足が取られると、傾いだ身体は水面に浮いた。仰向けで空を見上げれば、雲間から月の光が降りてきた。
召される、とはこういうことなのだろうか。
そうだったら いいのに。
水に浸る耳は外界と遮断され、目を瞑れば、そこは真緒だけの世界だった。
ライル…
偽りの眼差しはいらないよ
そう思うのに
思い出すのは、命懸けで護ってくれた背中や
抱きしめる強い腕だった
本当は 疑いたくない 信じたいのだ
緩やかな水面のゆらめきは 真緒を包むゆりかごのようだった。
『マオ』
薄らぐ意識に優しい声が名を呼ぶ。
『今は 眠りなさい』
母に抱かれる心地良さが蘇った。心からの安堵に包まれて、眠りの波に攫われていった。




