204.雲隠れの月夜
━━━━ 突然のノック音に、それは遮られた。
「…ライル、父上から 緊急の招集がかかった」
テリアスの緊迫した声が、ふたりを現実に引き戻した。
ライルは胸元に埋めていた顔を緩慢に上げたが、真緒の視線を避けるように、直ぐに背を向けた。
拘束されていた腕は自由を得たが、真緒の身体は動くことができなかった。
「…いってくる…」
微かに聞き取れるほどの小さな声で、ライルは告げると、真緒を振り返ることなく 逃げるように扉の向こうへ消えていった。
バタン…
扉の締まる微かな音も、静寂の室内に反響する。
去りゆく足音が届かなくなり、ようやく真緒は腕を下ろした。
首筋に、デコルテに 唇の感触が残る。
その感触を追うように、手でなぞる。襟元を掻き集めて、ゆっくりと身体を起こした。
床に不自然に落ちているクッションが ふたりの 艶かしい絡みを語る。乱れたワンピースの裾を慌てて直して、立ち上がった。ふらついて咄嗟にサイドテーブル手をつけば、大きく傾いで花瓶が割れ散った。その破片でが指に真紅の雫を生み出した。
何やってるんだろ、私…
…帰ろう…
部屋に戻って、ベッドに入ろう。
そして 何も考えずに 眠りたい…
誰にも 会いたくなかった。
テラスから中庭に降りると、そのまま暗がりの広がる奥へ向かった。使用人用の勝手口があるのだ。
月明かりを頼りに 宿屋を目指す。
星を見上げる余裕もなかった。自分の影を追いながら歩いた。
ライルに 知っていると 告げてしまった
怒りを顕にする姿に 悦びを感じ
自分の想いが 報われたいと願ってしまった
さもしい自分を蛇蝎の如く嫌悪する。
消えてしまいたい…
自身の心が、深い闇に落ちていくのがわかる。
それもいい。そのまま闇に溶けてしまいたい。
雲がかかる月は 闇夜を照らすには心許ない。
今は それが有難かった。
ライルはテリアスと並び執務室へと入った。
明らかに様子のおかしいライルに テリアスは気遣うように視線を向けたが、ライルは視線を合わせようとしなかった。
終始うつむき加減のライルよりも、緊迫した事態が迫っていた。
「揃ったな」
ニックヘルムが一同を見回した。視線の合わないライルに一瞬、眉間に皺を寄せたが、直ぐに鉄の宰相と言われる感情の読めない表情を作った。
「今日、王宮にサウザニアから使者が来た。明後日、サウザニア王と第二王子が来ることになった」
王宮からこの知らせをもってやってきたのはヴィレッツだった。ヴィレッツは 王妃と王太子と共に断ろうと試みたが、既に出立しており、その一行を止めるのは困難だった。使者がこのように直前であることは通常有り得ない。そのことを指摘すれば、体調を崩し到着まで時間を取った自身の失態である、首を跳ねてくれ!と迫られ、サウザニア王の親戚筋にあたる老人を処罰する訳にもいかない。サウザニア王の狡猾な手腕の一端であろう。
「…明後日…」
ライックが唸る。未だ過去の時間を生きている国王マージオは、ミクのことだけでなく全てが18年前だった。記憶が戻る予兆すら感じない。
ニックヘルムも厳しい顔つきで腕を組み、閉眼した。
どうするか…
今の状態のマージオを、謁見させる訳にはいかない。
今回の訪問の目的が、第二王子の王太子指名に伴う挨拶となっている以上、王太子では役不足だ。
国の復興を支援してくれた国に対して、国王が謁見しないという選択肢はなかった。
「…急な病で伏せている、とするのは…?」
「無理だな。国の力関係からいっても、病を押してでも、謁見だけはやらねばならない」
テリアスの問いに ヴィレッツは即答だった。
「…明日、ミクには消えてもらう」
ニックヘルムは重い口を開いた。ライルは弾かれたように顔を上げた。
ライックもテリアスも話の続きを促すようにニックヘルムに視線を集中させた。
「…消えてもらう、とは…?」
「言葉通りだ。一種のショック療法のようなものだ。18年前の記憶から 目覚めさせる。陛下は 現実を認めたくなくて 逃げているのだ」
ニックヘルムはぐるりと見回したあと、最後にライルの手元で視線を止めた。
「ライル、陛下の指環とミクのペンダントを持っているか?」
ライルは金細工の指環を抜き取り、首にかけていたネックレスを外した。それを合わせて テーブルへと置いた。
「これは ミクの気配がわかるらしい。陛下に身につけてもらい、ミクがこの世界に存在しないことを理解していただく」
手に取ったそれらをハンカチに包むと、胸のポケットへと仕舞った。
「…父上、もし、陛下の状況に変化がなければどうなるのですか?」
テリアスの疑問は皆のものでもあった。
ヘルツェイの表情が一段と険しくなる。
「その時は、このまま謁見となるだろう。王妃様と王太子殿下に力添えをいただく。それでも、この国の窮地はすぐに周辺国に知れることになるだろう」
大きく息を吐き、言葉を続ける。
「ユラドラは同盟国といっても、まだ自国内が不安定だ。サウザニアに多くの利益を提案して他国の脅威を遠ざけることになるだろう」
眉間を揉みほぐし、疲れた様子で目を閉じる。
争いを避けるためには、致し方ないのだ。
ニックヘルムの呟きは、まるで 自身に言い聞かせているようだった。
詳細を詰めて、執務室を後にしたのは夜更けだった。
月は天高い位置へと移り、かかる雲がその姿をぼんやりとしたものにする。星の輝きも倣って弱い。
ライルは重い足取りで、自身の居室へと向かった。
まだ マオは居るだろうか…
鍵はかけなかった
あえて 入り口に騎士を配置しなかった
自分がいない間に、マオが居なくなっていればいい
そう 思った
━━━ 合わせる顔がない
感情のままに マオを 抱こうとした
俺を拒み 俺の気持ちを偽りだという
頭に血が上り、我を忘れた
わからせたい
手に入れたい
その想いを 止められなかった
回廊の柱に強く拳を当てれば、鈍い痛みが腕を伝った
マオの心の痛みは こんなもんじゃない…
自身を痛めつけても 許される訳は無いとわかっている。それでも 己を罰しないと 狂ってしまいそうだった、
「…ライル」
柱に打ち付ける拳を押さえ込んだのは、テリアスだった。拮抗したのは一瞬のこと。ライルの拳は勢いを失い、テリアスの手に従った。
「…話せたのか?」
テリアスの問いに、ライルは答えられなかった。どう答えたらいいのかわからなかったのだ。
「マオはいないぞ」
回廊の反対側から姿を現したのは、ライックだった。
三人の男たちは、回廊で静かに見つめあった。
「…部屋へいくぞ」
テリアスに引きづられるように、ライルは足を運んだ。ライルの居室に入ると、ライックは、ライルの襟首を掴んだ。
「…お前、マオに何をした…?」
殺気立つ低い声が、ライルを責める。カウチソファの周囲は、クッションが床に散り、サイドテーブルは押しやられ花瓶は見る影もない。マオの靴が、蹴り散らされていた。
襟を掴む腕に一層の力がこもる。
━━ このまま 俺を責めてくれ。
決して 許されないことをしたのだ。誰か 俺を責めてくれ。
そんな願いが伝わったのか、ライックは腕を離した。
「責められて楽になる、それはただの自己満足だ」
甘えるな、そう吐き捨てると応接用のソファに、荒々しくライルを座らせた。
テリアスはグラスに琥珀の液体を注ぐと、飲め、とライルの前に差し出した。煽るように飲み干す姿に、無言で継ぎ足す。
自身も一人掛けに腰を下ろすと、軽くグラスを掲げて口に含んだ。
「…聞かせてもらおうか、何があったのか」
テリアスから表情が消えていた。ライックの鋭い視線がライルを射貫く。
ライルは項垂れ両手で顔を覆うと、その重い口を開いた、




