195.炎上
その報告がきたのは、夜が最も深まる時間だった。
巡視の合間を抜けて、ビッチェルが姿を消したのだ。
扉前に立つ近衛騎士は姿をみていない。開け放たれた窓から抜け出たようだった。侵入の形跡はなく、本人の意思であることは明白だった。
「森を捜索せよ!」
ライックが騎士に指令を出し、自らも闇に消えていった。ライルはを妙な胸騒ぎを覚え、捜索に加わることなく渡りの樹をめざした。
ビッチェルが渡りの樹を訪れたことはない。
王家の庭に訪れるマージオは、ニックヘルムを伴う以外はひとりであった。渡りの樹に 他の者が近づくことを嫌い、訪れるときは人払いをする程であった。
ビッチェルが渡りの樹に現れることはない筈だ。
そう思うのに、ライルの中で警鐘が鳴り止まない。
何かが起こる。
そんな不安が確信に変わるのに時間はかからなかった。
駆けつけた先、渡りの樹が暗闇を照らすように、焔をあげて燃えていた。
その焔は生き物のように枝に移り、音を立てて葉を呑み、幹を這い上がる。
バチバチと弾ける音をたてながら、暗闇を鮮やかに染め上げる姿に、ライルは立ち尽くした。
なぜ…!なぜ 燃えている…?
気が動転して、何も考えられない。
目の前の光景が信じられず、ただ立ち尽くしていた。
弾けた焔が周囲を照らすと、渡りの樹の傍らに人影が映った。
「やったぞ、私は成し遂げた!」
繰り返される言葉は呟きから 声量を増し、言葉が聞き取れぬほどの叫び声となった。
焔に照らされた表情は恍惚として、歓喜に溢れた声はやがて笑い声に変わった。
「王子!なんてことを…!」
ライルはビッチェルの肩を揺すり、正気を戻そうと試みた。ビッチェルはライルに揺すられるままに身を任せ、堪えられないとばかりに、声を上げて笑い続けた。
「私は成し遂げたのだ。この国を滅ぼす悪しきものを葬ったのだ!この樹と共に燃え尽きて消え失せる。渡り人などにこの国を渡さない!」
高笑いと共に叫ばれた言葉に、ライルの手は止まった。
渡りの樹がなければ、マオはこの世界に還ってこれない…?それは マオを失うということ…?
思い至った思考が、ライルの焦燥感を生み、その恐怖に 全身が雷に打たれたような衝撃が走った。
━━ マオ!
気づけば、ビッチェルを突き飛ばし焔の中に身を投じていた。皮膚を焼く痛みと臭いがライルを襲うが、ライルの足は止まらなかった。
指環を嵌めた指でネックレスを握り込むと、その名を叫んだ。
「マオ ━━━ッ!」
立ち上る焔が夜空を染める光景に、渡りの樹に駆けつけるもの達の姿があった。
テリアスは湖の水での消火を指示しながら、燃え盛る焔の中に弟の姿を探した。
ライルは いる。
焔の勢いは弱まることを知らず、漆黒の空間に立ち上る。
天を仰ぎ高笑いを続けるビッチェルを確保すると、その胸ぐらを掴み頬を叩いて、ライルの所在を問いただした。
「悪魔に魅入られたお前たちに、私の崇高な行いがわかるはずもない。私は父上とこの国を救ったのだ」
自分の行為の正当性を 信じて疑わないビッチェルの発言に悪寒が走る。
駆けつけたライックにビッチェルを払うように押し付けると、焔と対峙した。
「テリアス様、危険です!離れてください!」
ライックに背を引かれるが、それを払い向かおうとすれば、ヘルツェイに羽交い締めに拘束されて、後退させられた。
「離せ!あの中にライルが居るんだ!」
「無理です!燃え盛る中に人はおりません。冷静になってください!」
ヘルツェイが力づくで拘束すれば、テリアスは抜け出すことは叶わない。
「消火していますから!貴方にまで何かあれば、宰相に顔向けできません」
堪えてください、絞り出された低い声にテリアスはようやく抵抗を止めたが、力の抜けたテリアスの身体をヘルツェイは離さなかった。
「テリアス様、周辺を捜索させます。ライルはきっと無事です」
ライックは消火の指揮を執るためにその場を離れていったが、ヘルツェイはテリアスを拘束したまま、離れることは無かった。
「離せ、ヘルツェイ。もう大丈夫だ。」
努めて冷静な口調で言葉にしたつもりだったが、ヘルツェイは首を横に振った。
「ダメです、行かせませ…」
ヘルツェイの言葉を遮り、大きな音と共に渡りの樹が崩れ落ちた。
声にならない声をあげて、テリアスはその場に崩れ落ちた。分かるのだ、ライルの気配はあの樹の中にあったのだ。燃え盛る焔の中に身を投じ、マオの元へ向かったのだ。
崩れた樹の焔の勢いは、周囲を焼いてようやくおさまりをみせていた。焦げた臭いと立ち込める煙が、テリアスの視界を阻む。
崩れた樹の向こうには引き込まれそうな漆黒の闇が広がり、生命の兆候を感じない。
テリアスの周囲も闇が包む。鎮火に合わせ、用意された松明が灯ると、惨状が照らし出された。
「あはは!これで憂いは無くなった。父上も喜ばれる。悪しきものを葬ったのだ!」
騎士の動きのなかに、ビッチェルの高笑いが響く。気でも触れたのかと思うほど、その姿は異様だった。
渡りの樹に真緒が眠っていることを知っていて、樹ごと燃やして始末する。それが目的だったとは。
渡り人の存在が手に入らないのなら、消してしまえということか。
ヘルツェイの胸に苦いものが迫り上がる。
━━━ まさか渡り人を葬り去ろうとは。
考えが至らなかった。
項垂れ、地面に伏すテリアスの背を見つめた。
こんな形で、ライルを失うことは避けたい。
どうか無事であって欲しい、ヘルツェイはテリアスを立ち上がらせようと肩を抱いた。テリアスはその手を振りほどいて、地面に手を這わせた。
「…感じるんだ…気配を」
「…えっ…?」
血走った目で地をさするテリアスの姿に、気が触れたのかと心配になったが杞憂だった。
「感じるんだ…、なんだこの感じは」
落ち着いた声色で語られた言葉に、ヘルツェイに向けられた視線は、辣腕を振るうテリアスそのものだったからだ。
「どういうことですか?」
ヘルツェイが尋ねれば、テリアスは地を這わせた手を進め、渡りの樹へと近づいて行った。
「感じる。この手があのひ惹き合いの石に共鳴した時のように惹かれているんだ」
迷いなく言い切ると、目を瞑り手に感じる感覚に集中した。
まだ燻り続ける幹に迷いなく近づいていくテリアスをヘルツェイも追う。誘われるように樹の中心部へと歩みを進めた。
「━━ ここだ」
テリアスの声は確信を得たように凛として、一切迷いがなかった。
大きく深い呼吸を数回繰り返し、テリアスは燻りのある幹へと手を伸ばした。
その手が触れた瞬間 ━━━━
眩い閃光に包まれ、視界は白色に閉ざされた。




