193.与えられた使命
朝の鍛錬を澄ませば、ライルの足は自然と渡りの樹へと向かう。そして、日が暮れるまでそこで過ごす。これが最近の日課になっていた。
ニックヘルムは王宮へ戻り、テリアスが残ったが、執務室に籠ることもあれば、夜中まで帰らぬときもあり 忙しくしているようだった。兄のそんな姿を頼もしく思い、父との関係が戻りつつあることに安堵していた。
父上の後を継ぐのは兄上だ。
その気持ちは変わらない。
兄上が忙しくしている原因が、第二王子ビッチェルであると聞いたのは、昨晩のことだ。
国王暗殺の旗印にされ、その貴族の処断と共に 王妃アルマリアの実妹の嫁ぎ先である 第三国へ留学という名目で幽閉されていた。
そのビッチェルが勝手に出国して、この王家の庭に向かっているというのだ。ユラドラからヘルツェイが素性を隠して護衛についている。サウザニアが絡んでいることは間違いなく、その思惑を探るため、ヴィレッツが暗部を動かし探っている状態だ。
本来なら、近衛騎士であるライルも王宮に詰めて警護に務めるところだが、真緒のことがある。
サウザニアの目的が真緒である可能性がある以上、真緒が現れるこの場所で真緒を待つのが、ライルの役目だった。
マオ…もう 戻ってこい…
目を瞑り 彼女を想えば、湖面をなぞる風にマオの香りを感じた。渡りの樹に感じる彼女の気配に抱かれてライルはしばしの幸福を味わった。
日暮れの西日は眩しく、左手を陽射しにかざした。
陽射しと違う煌めきを、ライルは見つめた。
薬指に嵌めた金の指環、
それは 国王とミクの証
マオがこの手に戻ってきたら、ふたりの真名を渡りの樹に告げよう。
惹き合いの石 ━━━━━
この世界に繋がる証を、共に分かち合いたい。
再び この腕に抱いたら
誰にも 奪わせない
どこにも いかせない
ずっと 護るから
きっと 幸せにするから ━━━━
茜に染まった水面が失せると、あたりは暗闇が迫ってくる。
もう アレ は到着しているだろうか…
昨晩告げられたのはビッチェルが出国した事実だけではない。
既にエストニルに入国し、今晩には王家の庭に迎え入れると知らされたのだ。
ビッチェルは なぜ 王家の庭を目指しているのか…
狙いは 何なのだろうか …
考えが纏まらないまま、時が過ぎる。
ライルは渡りの樹に触れ、そっと唇を寄せると
また来る、と呟き背を向けた。
ライルが別邸に戻る前に、ベルタの街から近衛騎士に護られたビッチェルが到着していた。
本人の強い希望と、予定外の帰国を隠蔽するための利害が一致し、王家の庭へと迎え入れることとなっていた。
「お待ちしていました、殿下」
テリアスは貴族の礼を取り、ビッチェルを迎えた。
王宮内では何度か見かけたが、成人前の王族とは接点がなく、こうして面と向かって言葉を交わすのは初めてだった。
父親譲りの凛々しい目元。剣を好むと聞いているが、少年から青年へと移りゆく体躯はまだ線が細い。中性的な印象を与える外見とは裏腹に、粗暴な言動が目についた。
「━━ 宰相はいないのだな」
「はい。父に代わりまして私がご挨拶させていただきます」
テリアスは言葉の終わりに 更に深く礼を取った。頭を深く下げるテリアスの前を、言葉をかけることなく通り過ぎてゆく。
「疲れているので、休ませてもらう」
振り返ることなく、背後に控えるテリアスに声をかけると、そのまま用意された居室へと足を向けた。
ビッチェルは用意された部屋へと入ると、早々に人払いをしてベッドに身体を横たえた。
やっと 辿り着いた。
あとは シナリオ通りにことを起こせばいい。
父上、母上、兄上。
もうなんの心配も要りません。私が悪しきものから解放して差し上げます。
身体は慣れない野営に疲れがたまっていたが、崇高なことを成し遂げるのだという事実に、気分が高揚し、その疲れも気にならなかった。
夜の決行に向けて休まねば。
仕損じることがあってはならない。
無理矢理に目を瞑れば、大きな使命を帯びたあの日が脳裏に蘇った。
それは アルマリアの実妹の元に来たサウザニアの貴族が、挨拶をしたいとビッチェルを訪ねてきたことからはじまった。
自分がこの国に滞在していることは極秘事項の筈だ。
商人に扮装して 近づいてきたその貴族は、ビッチェルの王子としての矜恃を言葉巧みに擽った。
『貴方様にしかできないことがございます。どうか、悪しきものからお救いください』
エストニルに現れた渡り人が、国王の娘だと騙り、自分こそが正当な王位継承者だと言っている。
ビッチェル殿下の名を騙り、国王暗殺を企み、ユラドラとの戦端を開いた。サウザニアをも手中に納めようと画策している。
『このままでは、マージオ国王は暗殺され、ナルセル王太子に変わって、渡り人が王位につくことになるでしょう。これを阻止できるのは、ビッチェル王子、貴方様にしかおりません』
救国の英雄。
その名にふさわしいのは 貴方様です
それは
異国の地に追いやられ、燻っていた矜恃を擽るのに充分だった。
アルマリア様を長きに渡る苦痛から解放して差し上げましょう、その言葉がビッチェルにとって最も心を揺すぶられた
渡りの樹に火を放つ ━━━━
そうすれば、そこに眠る渡り人は永遠に現れることはない。
渡りの樹が無くなれば、父が母以外の女性に心を奪われることもないのだ。
国を乱す悪しきものを 葬る
この崇高なことを成し遂げるのは 私しかいないのだ
『宰相やヴィレッツ殿下に心を許してはなりません。彼らは既に渡り人に惑わされております。アルマリア様をお救いできる方は貴方様しかおりません』
もう少しです、母上
私がこの国を救い、母上を解放して差し上げます
高鳴る鼓動に 更に高揚して身震いし、寝返りを打つ。夕食も断ったビッチェルは、昂る気持ちを持て余しながら 浅い眠りについたのだった。




