191.暴走
ユラドラの王城の一室。
夜更けの月は眩いばかりに室内を照らし、その部屋の主の濃い影を映す。仁王立ちし、腕を組み思案に耽る男は、報告に来た影をさげると、大きく息を吐いた。
梟がもたらした情報と指令に、ヘルツェイは溜息をついた。
《ビッチェル殿下、留学先を出国。エストニルをめざしている模様。至急保護せよ》
ビッチェルは13歳であるが、落ち着きがなく思慮にかける面があり、まだ幼い。だから、美辞麗句を並び立てられ、国王暗殺の旗印に利用されたのだ。
本人は両親である国王夫妻の愛情を受け、やや粗暴で我儘に育ったものの、兄ナルセルへの尊敬も厚い。謀反など起こす意図はなかったのだろう。
王位簒奪など、考えたこともなかった筈だ。
それでも王族。
王位継承権を持つ王子であれば、思慮に富んだ慎重な行動や発言が求められる。
この王子には、それが欠けている。
今回も、勝手に飛び出したであろうことが、想像に難くない。
さてどうするか…
出国して既に日が経っている。かの国からサウザニアを目指すのであれば、ユラドラを通るしかない。もう国内にいる可能性が高い。
治安は回復しつつあるとはいえ、それでもくすぶりはある。
ユラドラの謀反者の手で葬るか…
エストニルにとって、争いの火種となる王子だ…
ヘルツェイは頭を振り、苦笑いを浮かべた。
━━ いや、保護せよとの命令だ
梟が、月明かりを背に音もなく現れると、ヘルツェイはいくつかの指示を出した。気配が消えた室内を見回し、息をつく。
明る過ぎる…
満ちた月は、必要以上に姿を闇から晒す
影を歩んできた自分には 眩しすぎるのだ。
そんな自分が託す 一縷の希望
アルタス処刑の夜 ━━━━ ライルが語った テリアス復活へのシナリオ。
あのとき、自ら望み、心を決めたのだ。
テリアスと再び歩む未来を。彼を支え護る未来を。
諌めきれず道を誤らせた、そんなことはもう二度とさせない。
…そして ふと 思う。
ビッチェルには、親身になり諌める そんな者はいないのだろうか…
ビッチェルは、周囲の予想より早くユラドラを抜ける谷へと差し掛かっていた。
護衛と言うよりは文官と呼ぶ方がしっくりくるほど華奢な作りの男は、顔色が悪く息が荒かった。
「王子…、夜の移動は危険です… 休みましょう?」
潜めた声が夜の谷間に響く。
その声に反応した獣の声がこだまし 返ってくる。エコーのかかったその声は酷く不気味で、暗闇に馴染んでいた。
「煩い!休んでいる間に 父上や母上に何かあったらどうするんだ!休みたいならお前だけ休め、私は先にゆく!」
ビッチェルは苛つく心を隠すことなく、そのまま言葉にしてぶつけた。ユラドラに入って乗り換えた馬は既に疲弊しており、その脚は重い。一向に早まらない馬の歩みに苛つきが増す。
気持ちは焦るばかりで それを沈める手段を知らず、ビッチェルは苛立ちのまま馬の腹を蹴った。
咆哮のような嘶きと共に、馬首が激しく振られ、ビッチェルの身体は木の葉のように振られた。咄嗟に手網を強く握ったが、その勢いが治まらないまま暴走した。
「う、うわっ…!」
思わず声が漏れたが、このままでは舌を噛む。ぐっと奥歯を噛み締めて馬首にしがみついた。
「おっ、王子っ!」
焦った声はすぐに遠のいてゆき、ビッチェルは暗闇の中を疾走する。枝がムチのように馬体を刺激し、ビッチェルの身体も 容赦なく痛めつける。
(…ダメだ…!こんなところで倒れる訳にはいかないんだ!私が…私が…護らなくちゃいけないんだ!)
ビッチェルは恐怖の中で、呪文のように何度も叫ぶ。
もう何処に向かっているのか わからない。
それでも
ここで倒れる訳にはいかない。
馬体が大きく崩れた瞬間、ビッチェルの身体は大きく弧を描いて闇夜に呑まれた。
闇夜に響くのは、短い嘶きのみ。
反響を伴い、やがて闇に溶けた。
目覚めは 最悪だった。
全身の痛みに加え、全身ずぶ濡れだった。
小川に半身を浸した状態で、朝日を浴びた姿は哀れだった。
「おいっ!スタルス!」
ビッチェルは、頼りない文官もどきの従者の名前を呼んだ。
私が呼んでいるのに、返事をしないとは!
私は王子だぞ!
なぜ すぐに来ない?
苛立ちに声を荒らげて従者を呼ぶが、返事はこだました自身の声だけだった。痛みに顔を顰めながら、水から上がり、岩場に腰をおろして寄りかかる。
なぜ 私がこんな目にあうのだ!
これも父上たちを守るためだ、悪魔の手先に好き勝手にはさせない。
情けなさを、気持ちを鼓舞することで押さえ込む。
怒りと寒さで身震いするが、ビッチェルは火の起こし方もわからなかった。無意識に身体をさすっていることに気づき、自分が惨めに感じられて手元にあった石を小川へ投げつけた。
「おい、危ないだろうが」
突然の低い声に、ビッチェルは腰掛けていた岩からずり落ちた。恥ずかしさに顔が熱を帯びるのが自分でわかる。余計に悟られたくなくて、大きな声で虚勢を張った。
「う、煩い!みだりに話しかけるな!」
声こそ大きいが、その声は震え乱れており勢いがなかった。目の前に現れた男は、がっちりとした体躯で背が高く、朝日を遮りビッチェルの前に立ちはだかる姿は岩のようだった。そんな男に見下ろされたら生きた心地がしない。震える足で立ち上がる。それでも男の視線からは見下ろす位置だった。
「お前は、誰だ?」
なけなしの気力を振り絞り、ビッチェルは威圧的に問いただした。男はそれには応えず、値踏みするような視線を送った。
「答えよ!なぜ答えない!私はエストニル王国の王子だ。無礼は許さない」
おい、簡単に身分を明かすなよ…
噂に聞く通りの幼さだな…
「…みだりに話しかけるなと 言われたもんでね」
ふてぶてしく答えれば、ビッチェルの顔が紅潮し、怒気のこもった声が辺りに響く。
刺客がいたなら、一発で殺されるな
溜息を噛み殺して、その問の答えを口にした。
「傭兵のエドだ」
エド ━━━ ヘルツェイは意図的に凄みをきかせてビッチェルを見下ろしたのだった。




