176.願い
最敬礼で下を向く真緒の足元に濃いグリーンのドレスが映る。
「…顔を おあげなさい」
感情を排した声に、真緒の背中に何かが伝った。
あげろ、と言われてもウィッグと飾りが重くてちょっとすぐには難しいのですが?
感じた畏怖を誤魔化すように、違う思考で自分を和ませる。でも、このまま無視する訳にもいかない。
「…はい…」
蚊の鳴くような声で返事をして、腹に力を入れて上体を起こしにかかった。
「緊張してるのか?」
声と同時に手を取られ背中を支えて貰ったおかげで転倒は免れた。感謝の気持ちで見つめた先にはヴィレッツが麗しい微笑みを浮かべていた。
君でも緊張するんだね、そんな失礼な言葉もその微笑みで帳消しにできる。美男子はなんてお得なんだろう。
手を取られたままだと気づいて 手を引こうとすれば、ヴィレッツはそれを許さなかった。慣れた手つきで腰に手を回し、さぁいきましょう、と王妃に声を掛けた。
王妃の後に続き、ヴィレッツのサポートを受けて歩き出す。綱の上を歩くような不安定さが真緒を襲う。ヴィレッツに緊張が伝わったのだろうか。
「大丈夫、私に身体を預けて?」
抱く腰に力を入れて自身に引き寄せる。身体のぐらつきが治まり、格段に歩きやすくなった。亀の歩みは相変わらずだが、それは ご愛嬌だ。
王妃が先に到着して待つ、という有り得ない状況を作り出した真緒に、お付きの皆様の視線が痛い。
なんだか ごめんなさいね
一応心の中で詫びておく。
サロンは夜とは違い、陽射しが差し込み、眩い明るさだった。ガラス張りの扉が開け放たれ、木々を抜けた風が緊張で汗ばんだ肌に心地よかった。
ヴィレッツはソファに真緒を座らせると、人払いをしてから真緒の隣に腰を下ろした。
「よく来たな、無事でよかった。改めてお礼を言わせてもらう、ベルタの街を救ってくれてありがとう」
真緒の手に自身の手を重ね、右手を胸に当てる。ヴィレッツは貴族の礼をとった。
これって、不味いんじゃないの?
なんで偉い人がこんなことしてるの!
慌ててヴィレッツの身体を起こせば、優しげな瞳と合った。
「とんでもないです!わかんないけど、何とかなったみたいで良かったですっ!」
もういいから、やめてください!お願いします!
慌てた様子で余裕のない真緒が面白いのか、目を細めて更におどけたように礼を取るヴィレッツはかなり性格が悪い。うん、腹黒認定だ!
「…私を忘れてないかしら?」
貴方、女性にそんな態度も取れるのね。笑いを含んだその声は、先程とは違い柔らかく温かいものだった。
「失礼な。私はいつでも紳士的ですよ」
ヴィレッツもようやく真緒の手を離し、王妃に向き合って軽く礼をとった。
この二人は親しいのだろうか…?
やり取りを見つめぼんやりと考えていると、そんなことはお見通しなのか、ヴィレッツは苦笑いを浮かべた。
「残念ながら、王妃は同志、戦友だな」
その言葉に継いで、王妃アルマリアは扇で口元を隠していたずらっぽい視線をヴィレッツに向けた。
「貴方の駒、ではなくって?参謀の手駒。私を動かすなんて陛下か貴方くらい」
…王族の冗談を混じえた軽口って、優雅だわ。
自分とエイドルの応酬に足りないのは、この優雅さだ。馬鹿とか阿呆とか、そんな直接的なやり取りは控えよう。そして、ライルとのやり取りに 是非この優雅さを採用したい。
「…マオ?」
いけない。また思考が明後日に旅立ってた…。
名前を呼ばれて、我に返ると心配そうな瞳とぶつかった。
大丈夫です、コルセットがキツくてぼんやりしちゃいました。
おどけて返せば、ヴィレッツの探るような瞳が真緒を見つめていた。反射的に視線を逸らしてしまったが、これじゃぁ、裏暗いところ有り、みたいじゃない?
気を引き締めてヴィレッツに笑顔を向けて敢えて視線を合わせた。
「マオ、私はずっと貴方と話してみたかったのですよ」
扇をたたみ、膝に乗せて揺らす。そんな動作でも優雅だ。アルマリアの細い白磁のような手を見つめてぼんやりと思った。脇から小突かれて、目の前の貴婦人に集中する。
「ミクの娘。陛下のお心に今も在る女性の娘…」
伏したまつ毛にも色香が漂う。
お母さん、王妃様は本当のお姫様だね。
でも、この話の流れは昼ドラ的展開ですか?
妾の子を虐める正妻的な感じ?
これが よく聞く ざまぁ ってこと?
ということは ざまぁ されるのは 私ですよね?
「マオ?」
アルマリアを見つめたまま、フリーズしている真緒をヴィレッツの真剣な声色が呼び戻す。
「すっ、すみません…」
とりあえず頭を下げて謝罪すると、アルマリアもじっと真緒を見ていた。何か言わなければ。
「あ…あの、王妃様が余りに綺麗で。本当のお姫様なんだなって…。えっと、何言っちゃってるのかな…ご、ごめんなさい!」
焦って口走った言葉がそれかいっ!己にツッコんで、凹んだ。ダメだこりゃ…。
鳥のさえずりのような声が、次第にハッキリとした笑い声になり、扇で顔を隠しながらも 身体を震わせアルマリアは笑っていた。
「笑い過ぎですよ、王妃」
形ばかりの諌言をするヴィレッツも肩を震わせていた。
「マオ、貴方らしい。それでいいんですよ」
ヴィレッツの声が震えている。かなりツボだったのだろうか。まぁ、笑っていただけたなら何よりです。
ふぅ、と大きく息を吐いて呼吸を整えたアルマリアは優しく微笑んで見つめた。
「貴方と話がしてみたかったのは本当です。ミクのことを聞かせて欲しいのです」
アルマリアが婚姻のためエストニルの地を訪れた時には、ミクはもう居なかった。
マージオはアルマリアと向き合い、国の復興のために共に力を尽くそう、そう告げて、言葉通りアルマリアを慈しみ、息子たちを愛してくれた。穏やかな夫婦関係、心通う家族を築いてきた。
婚姻当初は、ミクの影に心を乱し、マージオを疑い、怒りを覚え、悲嘆にくれた。
そして、思い至った。
既にこの世界に存在しないミクには、どんなことをしても敵わない。
今ある幸せを大切にしよう。
マージオと築いたこの国の安寧と夫婦の信頼関係は揺るがないのだ。
早春の王家の森に、年に一度だけ向かうマージオを穏やかな気持ちで送り出せるようになった。
それなのに。
ミクの気配がする。そんな言葉を口走るマージオの姿に、忘れていた心の澱が蘇る。
━━ 現れたのはミクの娘。
ミクは既にこの世に存在しなかった。マージオの胸を満たすものはもう存在しないのだ。
「ミクは、私のことを恨んでいたのではない?」
アルマリアの言葉に真緒は首を横に振る。
「この世界のこと、王様のこと、お母さんは沢山話してくれました。その瞳はいつも輝いていて幸せそうでした。だから私は、お母さんの話が大好きでした」
真緒は母とのやり取りを紡いだ。
━━━━━━━━━━━━━━
『ねぇ、お母さん。王子様はなんで本当のお姫様と結婚したの?』
幼い私が母の膝で甘えた声を出す。
『王子様は王様になって国を護ったからよ。戦争をしないために お姫様と力を合わせたのよ』
優しい手が私の髪を何度も撫でる。その気持ちよさに目を細め、母に寄り掛かる。
『王子様は幸せになったのかな?』
『そうね、きっと幸せになったわ』
『お母さんは 幸せになった?』
母は私を抱き締めてくれた。
『もちろんよ。あなたという幸せを授かったのだから。とっても幸せよ』
━━━━━━━━━━━━━━
見上げた母の微笑みは、優しさと幸せが溢れていた。
それを思い出し、真緒に微笑みが浮かんだ。
「お母さんは幸せでした、もちろん私もです」
澄んだ瞳がアルマリアを包む。それは真緒を通してミクがアルマリアへ贈るメッセージのようだった。
慈愛に満ちた聖母のような女性。
ミクは、抱いていたイメージの通りの女性だった。心の澱に陽射しが差し込む。澱は陽射しに溶けていき、心を軽くした。
晴れた心は、サロンに差し込む陽射しのように輝き、温かさに溢れていた。
「マオ、今日から貴方は私の娘。公には陛下の娘はおりません。ですが、私と陛下にとって貴方は娘です」
凛とした張りのある声が、サロンに響いた。真緒はアルマリアを見つめて、そっと頭を下げた。
お母さん、お姫様は素敵な人だったよ。
お父さんはお姫様と結婚して、絶対幸せになったよ
真緒の心にも、温かい陽射しが差し込んだ




