151.黄泉の谷
「…よかったのか?」
カーテンの隙間から、夜闇に溶ける二人の影を見送るニックヘルムにヴィレッツは声をかけた。
「あれが、石版の護りからマオを解放する鍵だ。行かない訳にはいかないでしょうな」
視線だけはずっと暗闇を見つめながら、ニックヘルムは呟くように答えた。
出立前にライックは執務室を訪れ、この二人に惹き合いの石について話していた。ライルが向かうことに反対していたヴィレッツも、最終的に合意したのだ。それでも、イヴァンの出方が分からない以上、心配は尽きなかった。
「梟をつけている。大丈夫だ」
淡々とした語り口だが、ヴィレッツにはわかった。心配でたまらないのだろう。無意識なのか、ニックヘルムは強く窓の木枠を握りしめていた。爪がくい込みそうな強さに、ヴィレッツはそっと、その手に手を重ねた。ようやく力が入っていた事に気づいたようだ。慌てた様子で木枠から手を離すと、所在無げに拳を組んでは離しを繰り返していた。
(とにかく無事に戻ってきてくれ…)
ヴィレッツは祈らずにはいられなかった。
サウザニアに入国するには、国境にある砦を通るのが常套である。しかし、緊張状態にあるエストニルからの入国は厳しい。そうなれば、国境沿いの山に分け入るしかない。
二人は途中から街道を逸れて、けもの道を進む。
馬が登れるところまでは馬を使い、その後は歩いて進む。弱音を吐かずあゆみを進めるライルだが、息遣いの荒さが目立ってきた。
「小休憩しよう、この先の方がキツいぞ」
何度目かの提案にようやくライルが応じた。
水をゆっくりと含み、幹に身体を預ける。夜風が心地よい。目を瞑れば眠りに誘われる。
「少し寝ろ。身体がもたないぞ」
ライックが言えば、ライルは首を横に振った。
「いや、明るくなる前に山神のエリアに入りたい」
その方が安全性が高いのは事実だか、倒れては本末転倒だ。ライックは自分が斥候に出ている間は体を休めるようにライルに念押しして、斥候に出た。
月の明るい夜だった。
けもの道とは名ばかりで、標のない行程だ。街道から外れたこの国境に塀や砦がある訳ではない。ライックにとってこの辺りは土地勘がある。ここはもうサウザニアだ。
しばらく周囲の気配を探っていると、複数の気配が近づいてくるのがわかった。
「…聞こう」
ひとこと発すれば、足元にその気配は影として現れた。
「彼の者は50人ほどの一団を率いて進軍中。到着は未明かと」
「黄泉の谷へ向かう道程に動きがあり。山神の者が配置されています」
「…石版は?」
「変わりない様子。渡りの姫も無事」
いくつかの指示を与え 、ライックが合図を送れば その気配は瞬時に消えた。
梟の報告を受けたライックは、その場を動かず思案する。
━━ 黄泉の谷。
それは山神のエリアに存在する山神の使いを襲うものたちの墓場といわれる地。
荒々しく険しい崖が多数存在する谷。
はるか昔、その谷へ導かれたサウザニアの大師団が瞬時に消えた。黄泉の道が開かれ、侵略者を飲み込み地形を変えた、と語り継がれている。
山神の使いは、奴らを黄泉の谷に追い込むつもりなのだろうか…
黄泉への道は、発動条件が揃ったとき 開かれると言われているが、真偽の程は定かではない。
しかし、マオはそのために石版に囚われているのではないか、ライックはそう考えている。
渡りの樹の意思が働いているのか…
エストニルを創ったシャーマンの力の名残りといわれる渡りの樹、そして国境防護を果たす石版の存在。
人智を超えた何かがあるのは間違いないだろう。
そこまで考えて、背後の気配に思考を止める。
「…休んでおけ、と言った筈だが?」
「…梟は何を持ってきた?」
逆にライルに問われ、ライックは苦笑した。
目新しい情報はない、奴らが未明には到着するだろう。そのままをライルに伝えた。
「それならば、奴らより先に着かなくては」
焦りを声に滲ませるライルに、ライックは落ち着かせるため視線を合わせた。そして、ゆっくりとした口調で諭した。
「焦りは禁物だ。焦りは全てを無にする。
石版のある地は平野だか狭い。そこでの戦いの前に山神のものたちが奴らの兵力を削る。それは行軍の足止めにもなるだろう。このペースならば我らの方が先に着く」
わかるな?ライックの言葉に、ライルは焦る自分を恥じた。わかった、そう素直に告げれば大きな手がライルの背に触れた。そう、自分にはこんなにも心強い味方があるじゃないか。焦る必要はない。
ライルが落ち着きを取り戻すのを確認して、ライックは月明かりに照らされた岩場を示した。それはこの先進む道。ライルはそれに頷いて応えた。
懐で存在感を増す惹き合いの石を握りしめ、マオに近づいていることを感じ己の力にする。
夜更けの月は、二人の影を濃く岩場に映した。




