136.蚊帳の外
日を追う事に身体の痛みは薄れ、悩まされていた頭痛や目眩からも解放されてきた。食事も美味しく頂いた。真緒は日常が戻ってきたことを実感していた。
会いたい人は、ユラドラへ戻ってしまった。
せめて、発つ前に会いに来てくれても良かったのに。
それは、真緒にとって不満に思う反面、ホッとしたのも事実だった。
あんなライルは初めてだった。
あんなに激しく求められたことはなかった。嫉妬心を隠すことなく、責められたこともなかった。ライルの想いの深さを感じ、身体のうちから悦びが湧き上がる。それと同時に見悶えるほど恥ずかしくて仕方ないのだ。どんな顔で会えばいいのかわからない。ライルが顔も見せずにユラドラに発ってくれたことは、ある意味真緒を救ったともいえる。
「ねぇ、ちょっと外に行っちゃダメ?」
エイドルに上目遣いでお願いしてみるが、目を三角にして、無理!と即答だった。こういうところルーシェにそっくり、流石 姉弟だわ…。こんな所似ないでいいのに。真緒は心の中で盛大にため息をついた。
窓の外をぼんやり眺める真緒の横顔を、エイドルは苦しい気持ちで見つめた。ライルの状態は固く口止めされている。この部屋を出れば、どこから真緒の耳に入るか分からない。医師の許可が下りていない、と言い張ってこの2日を乗りきった。それもそろそろ限界である。ライックやイザからも、そろそろ何かやるぞ、と脅されている。よく見張っておけよ、って、あの二人は楽しんでいるんじなないだろうか。そんな不埒な考えが浮かび、ハッとしてその考えを否定した。
イヴァンが国境を越え サウザニアの保護下に入ったのは確認済みだ。渡りの姫を拐った事実は秘されているが、先日の山神の姫の拐かしの一件も絡み、二国の緊張が高まりつつあるのだ。
宰相は自身の息子の意識が戻らないことへの苛立ちに、強行手段も辞さない態度だ。ヴィレッツは宰相を抑えつつ、マージオとの調整に余念が無い。
誰もこの状況に楽しめる人は居ないのだ。
━━━なのにだ。
目の前のこの人は呑気なものだ。散歩?どういう神経しているんだろうか。頭の中を割って見てみたい。どこまで呑気なんだか。そこに思考がいきつけば、真緒の能天気さにイライラしてきた。
「今、サウザニアと緊張状態だということはわかるよな?お前が誘拐されかけたこともわかるよな?」
なぜ大人しくしてられないんだ、そんな気持ちを込めて諭せば、真緒の頬が膨れた。
「分かってるわよ。ちょっと庭に出たい、そう思っただけじゃない」
「みんなの苦労を思えば、そんな能天気な発言ダメだろ」
大人になれよ…、そんな副音声が聞こえ、真緒のスイッチが入った。
「年下のくせに煩いわね!私だってちゃんと考えてるわよ」
へぇ、脱走方法とか?売り言葉に買い言葉、エイドルも負けじとからかえば、真緒は枕を投げつけて出てけ!と怒鳴った。エイドルは 枕を投げ返すと肩を竦めて、外にいる、と出ていってしまった。
…言い過ぎた。
ちゃんと反省する気持ちはある。大変な状況にあるのも、自分が易々と誘拐されたせいだ。だから お伺いをたてているのだ。それなのに、脳天気な人間だといわれれば腹も立つ。真緒はベッドに仰向けに身を投げだすと、天蓋に描かれている絵画を見つめた。
深い森の中を連想させる背景に様々な大きさのオーブが舞っている。胸元のペンダントヘッドを握ると、ライルの気配を僅かに感じるのみだ。ユラドラって遠いのかな…。僅かに感じる程度に弱い気配が、真緒を不安な気持ちにさせる。その気持ちを払うように、ベッドから飛び起きると、毛足の長い絨毯の上でストレッチを開始した。ウダウダと悩むのは趣味じゃない。
少しだけ、ね。
テラスから見える太めの枝に狙いを定める。あの木に移るのはセーフじゃない?庭に降りなければいいんでしょう?自然に包まれたい。ここは息苦しいのだ。
そんな真緒の気持ちを知る由もなく、エイドルは扉の外に控えていた。
もし、自分に十分な力があれば、ライル様一人で追うことは無かっただろう。あんな傷を負い、今の状況は防げたのでないのか。そんな後悔の気持ちが頭をもたげる。力が欲しい。もっと、もっと強くなりたい。
拳を強く握り、唇を噛み締める。
「…そんな力むな、お前のせいじゃない」
優しい声はイザだった。慌てて敬礼をしようとするエイドルをイザは止めた。マオは?そう問う視線に、拗ねてます、と答えた。あー、とどこか納得したような声を出してイザはエイドルの横に並んだ。
「…副団長、オレ、もっと強くなりたいです。自分の力でちゃんと護れるようになりたい」
エイドルが独り言のように呟く。イザはチラッと横目で見て、続きを促した。
「敵わなかった。それ以前に背中を向けられて相手にされなかった。オレがちゃんと相手になれていれば、ライル様はひとりで追って行く事なかった…!」
力が入り過ぎて白くなったエイドルの拳を、イザは大きなでで包んだ。
「人にはできることが限られている。だからこそ その瞬間に全てを出し切るんだ」
よくやった、それは慰めにもならない言葉だと知っている。ミクを失ったときの自分の無力さは、イザか護りたい人を護る力を望んだ原動力だ。
「強くなれ、もっと上を目指せ」
邪魔したな、イザはエイドルの肩をポンと叩きそのまま真緒に会わずに立ち去った。
室内では、念入りのストレッチを終え、テラスへと足を向ける真緒がいた。
さぁ、行くわよ!
首を回し、腕を振れば準備完了だ。
森から抜けてくる風は湿度を孕み心地よい。大きく吸い込めば、草木の柔らかい香りが真緒を満たした。
深呼吸を数回繰り返して、テラスの手すりに足をかける。少し反動をつけて飛び移れば、大きく枝がしなった。その揺れに落とされないように枝にしがみつき、しなりがおさまるのを待つ。タイミングをみてそっと身体を起こせば、森が広がる。深緑は海の色に見えた。
ゆっくりと進み、太い幹に近づく。枝も合わせて太くなり、真緒の身体を支えてくれた。反対側の太い枝が視界に入り、自然と身体が向かう。目的の枝に辿り着き、真緒は腰を下ろした。目を閉じて木々が揺れる音に耳を澄ます。遠くに鳥のさえずりが聞こえ、葉が擦れる音が風に乗って真緒を癒した。幹に身体を預け、うつらうつらと舟を漕ぐ。それは至福のひとときだった。
「…ねぇ、もう3日よね、どうなるのかしら」
「明後日には王都に戻られるんでしょう?ご一緒されるのかしら」
「医師団も匙を投げたんでしょう?」
なにやら声がする。自分の真下からだ。侍女たちがお喋りに興じているようだ。その会話を子守唄代わりに真緒は微睡む。
「解毒剤は効いたのでしょう?」
「お可哀想に。意識が戻らないそうよ」
「宰相様もお辛いわよね。テリアス様がいらっしゃらないのにライル様までこんなことになってしまわれて」
(…ライル…?)
聞き流せない単語に、真緒の意識が急速に覚醒する。
「お目覚めにならなければ、このまま…ってことも有り得るのよね」
「このまま脱水症状が進むと危険だってノイサス様が仰ってたわ」
侍女たちの声が遠のいていく。彼女たちは立ち去りながら会話が続いているようだったが、その声は小さくなりやがて聞こえなくなった。
(ライルに何があったの?ユラドラにいるんじゃないの?)
侍女が立ち去った方向には、別邸がある。
(…別邸…)
どうやってテラスまで戻ってきたのか覚えていない。手すりを踏み外し、テラスの中に転げ落ちた。その音にエイドルが扉を蹴破り駆け込んできた。
「どうした!?」
テラスに倒れ込む真緒をみつけると、慌てた様子で駆け寄り抱き起こした。
「顔色悪いぞ、大丈夫か?」
エイドルは真緒を抱き上げると、そのままベッドへ運び、横たえた。
「こんな身体じゃ散歩は無理だ。大人しく休め」
エイドルの言葉に反論する余裕はなかった。かけられた上掛けを頭まで被り、エイドルに背を向けた。
エイドルは真緒が大人しくベッドに落ち着いたことに違和感を覚えたが、医者を呼んでくる、と言い残し そのまま部屋を後にした。




