134.国境
せり上がる吐き気に我慢できず、目が覚めた。目を開けるのも辛い。揺れる身体が吐き気を強め、あまりの辛さに抱かれている胸にしがみついた。
「目が覚めたのか?」
この声…イヴァン…?
割れそうな頭の痛みにうめき声が漏れる。それでも確かめたくて強引に目を開いた。しがみついた胸がイヴァンのものと分かり、真緒は逃れようと咄嗟に胸を押した。硬さのある胸板は揺らがない。逆に強い力で腕を掴まれて 思わず声が出た。
「暴れるなよ、落ちるぞ」
ブロンドの緩く纏めた髪が、風に舞う。月の光に照らされて輝く。美人だと思った横顔は、今は男らしく凛々しかった。男でも 女でも、美人だわ…。いろいろと頭に浮かぶが言葉がまとまらない。激しい頭痛に思考が遮られる。
「…お、降ろして…。吐きそうなの…」
嘔吐くように せり上がるものを堪える姿に、イヴァンは馬を止めた。ひと息に国境を越えたかったが仕方がない。馬から下ろせば、力無く身体を丸めうずくまる。その華奢な背を、ゆっくりとさすった。
「…ありがとう」
震える肩越しに かすれ声がきこえてきた。
この様子ではしばらく無理か…、イヴァンは思案する。いつ追っ手が掛かってもおかしくない。一刻も早く国境を超えたい。イヴァンは真緒の首筋に手刀を落とすと、念の為に用意していた薬を真緒の鼻先へ近付けた。再び規則的な浅い呼吸となったことを確認して 抱きあげだとき、影が追っ手の存在を告げた。
単騎で追ってきたのか?
蹄の音はひとつ。それは見覚えのある男だった。
「…またお前か。主人に忠実だな」
イヴァンは、息を切らし追ってきたエイドルを一瞥すると 躊躇うことなく背を向けて真緒を馬上へと抱え上げた。
エイドルの頭に血が上る。簡単に背を向けるとは、騎士として侮られている、相手にならないと言われているようなものだ。ライックにも背を向けられたが、この男だけは許せなかった。剣を向け踏み込めば、護衛の男が間に割り込み、鍔で受けとめると軽く弾き返された。
「殿下、先へ」
エイドルは体勢を立て直し、護衛の男に向き直る。まずは目の前の男か。でもその間に逃げられてしまう。視線に迷いがでた隙を狙われ、踏み込まれた。寸でのところで躱したが、そのまま二手、三手が繰り出され、エイドルは大木の元まで押しやられた。
息が上がる。防ぐのに精一杯だ。
己の実力を思い知らされ、下唇を噛んだ。
覚悟を決め、次の一手を見極めようと目の前の男を
みれば、剣を構えたまま何かの気配を探っていた。
余裕だな…
侮られたもんだな、怒りよりも情けなさがエイドルを支配する。剣を向けている自分より、違う気配に気を向ける余裕が持てるほどなのか。
「気を抜くんじゃねぇ!」
風を切る音と共に数本の矢が、男めがけて放たれていた。男は軽く後ろに飛び抜き躱す。既に男の相手は自分ではなくなっていた。
複数の蹄の音が近付いてくる。それはエイドルを越えて、前に立ちはだかった。
「ライルは追え!…坊主、お前、一人くらいは相手できるだろ?気を抜くなよ」
ライックは素早く指示を出すと、目の前の男に間髪入れず一刀だにした。流石に致命傷とはならなかったが、すかさず切り返し、地に伏せた。これが騎士団トップの実力か。エイドルは息を呑んだ。
「戦場で集中しないやつは、どんなに腕があっても長生きできないぞ。目の前のことに集中するんだ」
エイドルの背を気合を入れるかのように叩くと、全面からくる集団へと突撃していく。
「確実に仕留めろ。自分の実力を見誤るなよ。向こうが上手なら、どう生き抜くか考えろ」
エイドルと背向かいになり、ライックはエイドルを落ち着かせる。背中から伝わる温かさが、エイドルが平常心を取り戻すきっかけをくれた。
「ありがとうございます!」
エイドルの声に、もう大丈夫だと悟ったライックは、自ら戦場へと身を投じた。
ライックに任せて、ライルはイヴァンを追う。
二人乗りの馬の脚は、思いのほか遅く、ライルは直ぐにその姿を捉えた。
「待て!」
鋭い声にイヴァンは振り返った。
声の主はすぐに追いつく距離まで詰めていた。馬の脚が違う。このままでは逃げきれない。イヴァンはそう判断すると、真緒を馬から抱いて降ろすと立ち木によりかけて座らせた。眉間に皺を寄せて小さい唸り声が漏れたが、起きる気配はなかった。真緒を背にイヴァンはライルと向き合った。
「殿下、マオを渡しください」
剣を向けている時点で不敬であるが、拐かした者に対して取る礼はない。ライルはイヴァンの背に庇われている真緒の様子が知りたくて、間合いを詰めた。ライルの意識が真緒に向けられてるとわかると、イヴァンはライルに先手を仕掛けた。反射的に躱すと 攻撃に転じた。ライルの剣先がイヴァンの腕を掠める。その隙をついて更に切り込むと、イヴァンの身体が揺らいだ。痛みで顔を顰めながらも、殺気を放ち構える姿はとても王子とは思えない。暗殺者という方がしっくりきた。
第三王子の立場は想像以上に危うく、自分の身を護る必要があったのだろう。それは、道楽者にみえていた王子の 別の顔なのだろう。
イヴァンの構えが変わった。それは一撃必殺の構え。ライルはその殺気に呑まれないように、呼吸を整えイヴァンの気配に集中した。
「…う…ん…」
張り詰めた空気の中に、真緒のかすかな声がした。
一瞬ライルの意識が逸れた。
イヴァンの剣先がライルの肩を掠める、それを弾こうと剣を向ければ、イヴァンの短剣が脇腹を裂いた。ライルは襲う痛みに奥歯をかみ締め堪えると、下腹に力を入れて剣を払い除け、イヴァンの肩を貫いた。
お互い後ろに退くと、視線だけは相手から外さずに睨み合う。
激痛に声が漏れそうなるのを喉を閉めて堪え、ライルは隙なく剣を構えた。イヴァンは利き手の肩を抑え、一段と殺気を増した眼光でライルを捉えていた。だらりと下がった腕から伝う雫で地面には血溜まりができている。それでも攻撃的な構えは崩さない。
二人の睨み合いを破ったのは、ライックだった。
蹄の音は茂みを蹴散らし、その馬体で真緒の前に躍り出た。
その差なく、イヴァンの後ろの茂みに闇に動く影の気配が現れ、両者は互いの援軍同士が睨み合う形となった。
「引け!」
イヴァンの身体を馬上に攫うと、低く短く発せられた影の声に合わせ潮が引くように、気配が消えた。
ライルはしばらく動くことができなかった。
ライックに声をかけられ、ようやく警戒を解く。痛みに遠のく意識に片膝を着くと、エイドルが身体を支えてくれた。
「━━━血がっ!」
身体を支える手に生温いものが伝う。エイドルはそのヌメリのある感触に心臓が強く打った。どこだっ!探る手が脇腹に触れると、ライルの身体が強ばった。
すぐに圧迫止血にかかる。
「だい、丈夫だ…」
苦しげに頬を歪め声を絞り出すライルに、エイドルの不安が募る。
到着したばかりの騎士に警戒を指示し、ライックは真緒をエイドルに託すと、ライルを担ぎ上げ、馬に乗せた。
「真緒の護衛を任せる。しっかり護れよ」
ライックはエイドルの頷きを確認すると、そのまま駆け出した。エイドルもその後を追って漆黒の森を駆け出した。




