100. 夢 うつつ
寝返りをうつと、い草の香りがした。
懐かしい…
あれ?なんでそんなこと 思ったんだろう。
目を開ければ、母の遺影と目が合う。ゆっくりと身体を起こすと、カーテンの隙間から日が射し込んでいた。カーテンを束ね 窓を開けると、排気ガスを含んだ煙たい風が吹いた。途端にクラクションや生活の音が耳に飛び込んできた。
いつもの朝、いつもの風景。
なのに なんでだろう この違和感
自分の身体を眺めても、頬を抓っても感じるナマの感覚。思い過ごしだと 自分を納得させて洗面台へ向かった。
「うわっ!!」
思わず声が出た。髪 ベリーショートだし。茶髪だし。
なんで???
記憶に無いんですけど…
クマの濃い目元、痩けた頬、青白い顔。
ヤバい薬でもやっちゃったような容姿に、声も出ない。更に 記憶にない、とくれば流石に尋常じゃない。
夢でも見てる? 寝ぼけてる?
それにしてもリアルだ。普通は美人になったりナイスバディになったり いい方向に変化するもんじゃないの?
鏡の向こうの自分と見つめ合いフリーズすること数十分。変わることの無い現実をなんとか受け止めて、身支度をやり遂げる。
洗濯機を回し、着ていたパジャマを放り込む。下着姿でも構いはしない。誰も見てないし。
!!!!!
鏡の中の自分に釘付けになった。
あまりの姿に声も出ない…。腰が抜けなかったのが不思議なくらいだ。
アザだらけじゃん…特に左手首は皮下出血したのか真っ黒。そして キャミソールから覗く胸元に怪しげなものをみつけて固まった。
「…うそ…」
怖いけど確認しなくちゃ。意を決してキャミソールの襟を下へ引いた。
これって キスマーク…?
いつ、誰と…?
━━━━━━完全に思考がフリーズした。
こんなこと、相談できる相手を思いつかない。
病院での看病とバイトで友達付き合いもしなかった。学校では話す子もいたけど、それくらいの関係。とてもこんなことを話せるような関係ではなかった。
警察?病院?
どっちも嫌だった。
昨日の記憶を辿ってみれば、渡りの樹に行ったことは覚えている。ただ、どうやって帰ってきたのか、それが思い出せない。カバンを探っても手がかりがなかった。
自分の知らない自分がいる事実に、気持ち悪さが込み上げてきた。
どうしよう、どうしたらいいの?
これってやっぱり乙女の喪失ってこと…?
身体の異変は感じない。ガールズトーク情報では結構な違和感があるらしいけど、それは微塵もない。
母の遺影を見つめて助けを求めた。もちろん返事はない。大事に育てて貰ったのに、肝心なところで記憶にないなんて情けなくて涙が溢れてくる。
そうだ…昨日を辿ればなにか思い出すかもしれない。
今日のバイトは昼から締めの作業までだから無理だ。
明日はバイト休みだから行けるかな…
本当は今すぐにでも行きたいところだが、深夜を回るシフトはキツいが時給もいい。ひとりで暮らしていくためには頑張らないといけない。
全ては明日だ。
とりあえず問題を先送りして、バイトへ向かうため支度をはじめた。
バイト前に美容院によって髪を染め直す。
茶髪禁止なのだ。美人な美容師さんはバラバラの髪を見て絶句していた。鏡越しに痛々しい視線を向けられて 真緒はいたたまれない気持ちになった。
それでも切りそろえてくれ、魅せショートな感じになった。美容師さん、ありがとう!鏡の中の自分に満足していると、美人さんが囁いた。
「…髪、彼氏に切られたの?そいつ、大丈夫?」
ケープを外すタイミングで首筋を軽く触れて、ここ、着いてるよ、薄くはなってるけどね、と教えてくれた。慌てて手で隠すと、ファンデーションで隠してくれた。
「背中にもアザがあるよ」
美人な美容師さんは本気で心配してくれていたが、転んだだけです、と慌てて否定して代金を支払うと店を出た。雑踏の中を足早に店から遠ざかる。
記憶にないだけで、私、大変なことに巻き込まてるんじゃない?不安で心が潰されそうだった。
バイトに行かなくちゃ、
何度も自分を叱咤するが一向に足が進まなかった。雑踏にまみれているのに、自分だけ異質な感覚。肩が当たれば痛みがあり 怒鳴られる。周りに認識されているのに自分が存在している実感が持てないのだ。
なんとかバイトを終えると 深夜の街を歩き、家路を目指す。夜の街は賑やかだ。同世代の若者が集い声を上げ、壮年の男たちは酒に溺れ 夜の街を彷徨う。それらを横目でみながら足を進める。赤信号で足を止めて、空を見上げた。
(星がない…)
夜空に瞬く星がないことが不思議だった。
あれ?私、ほかの夜空なんて知ってるっけ?都会育ちの真緒に輝く星空は記憶に無い。映画の場面だったのだろうか。
なんだか疲れたな…
朝から感じている違和感は薄れてきているものの、ちょいちょい感じる異質な感覚が真緒を不安にさせた。
信号が変わるのを確認して足を踏み出す。
足元のおぼつかない女性の脇を抜き去り渡りきったとき、けたましいクラクションが鳴り響いた。
横断歩道に踞る影が目に入り、思わず駆け出していた。大丈夫ですか?声をかけて肩を貸す。酒の匂いが真緒にかかり、一瞬何かが脳裏を掠めた。それよりもこの女性を安全なところへ連れていくことが先だ。自分より背の高い女性を肩に担いでよろけながらも歩道へ行き着く。声をかけてもろくに返事ができないほどの泥酔状態だ。
「誰か救急車を呼んでもらえませんか?」
先程のクラクションで野次馬が集まっているのに、誰も彼もが無関心だった。スマホのカメラを向け、無表情でシャッターを切る人たち。
なんなの!なぜ助けようと思わないの!
真緒の心は怒りで溢れた。
「お願いします!」
真緒の声に反応する者はいなかった。近くのコンビニに走りお願いすると、その女性に水を飲ませようと試みた。
「ねぇ 優しいねぇ。救急車も来るし、俺たちと遊びに行こうよ」
遠くにサイレンの音が聞こえる。
3人の男たちが真緒を囲み、一人は後ろから親しげに抱きついてきた。背中に虫酸が走る。
「やめて!」
私を抱きしめる腕はこれじゃない!
えっ?自分の言葉に驚いた。誰のことを言ってるの?
「なに、彼氏?いいじゃん、バレないよ」
しつこく絡む男の腕に爪を立てて、力任せに引っ掻いた。痛みに緩んだところを素早く抜け出して、救急隊に手を振って合図する。
何か言いたげに男たちはみていたが、流石に救急隊がいる前では分が悪いと思ったのか手出しはしなかった。真緒は付き添います、と告げて救急車に乗り込んだ。
揺れる車内で、自身の身体の震えも止まらない。後ろから抱きつかれ、首筋にかかった息の生々しさに、胃がせり上がってくるのがわかる。口の中に酸っぱさが広がり、呼吸が早くなるのがわかった。
(ライル、助けて!)
胸元をギュッと掴み、込み上げる吐き気を逃す。
ライル…?誰のこと?
脳内に発せられた自身の叫びに、意識を集中する。
ライル…
私、何か大切なことを忘れている気がする。
はっきりと思い出せないけれど、大事な人がいて、大切な人たちの力になりたくて…
思考に濃い靄がかかり、それ以上に進めない。
救急車が病院に到着する。
止まらない吐き気に、トイレへと駆け込む。
誰も呼びに来ないことをいいことに、真緒はそのまま病院を立ち去った。




