第3話 ノイズ
「菅原さん、ちょっとこれを見てください」
圭一はコーヒーカップを持ちながら灰原の席に近づいた。
「灰原さん、どうかした?」
「あっ、ここなんです」
灰原はパソコンのディスプレイを指差した。
圭一はコーヒーカップを持ったままディスプレイを覗き込む。
「うん? なんかノイズがあるね」
FAPIGシステムの本格稼働が始まって三時間程経ったときの出来事だった。
圭一が覗き込んだディスプレイにはFAPIGシステムの稼働状況を示すグラフが示されている。
心電図モニターを想像すれば分かりやすいかもしれない。心電図モニターでは心肺が停止するとフラットな波形が表示される。FAPIGシステムの場合、心電図とは逆で、フラットな波形が表示されていれば正常に動いていることを意味する。一方、上下に波形が出ている場合は、システムが不安定であることを意味する。
圭一が目にしたのはこの不安定を示す波形だ。
ただ時間的には一瞬なので、その波形はピコンと静電気で立つ髪の毛のような一線だけであった。これくらいなら気にかけることはないが、今までこのようなことは起きたことはない。
何度も稼働テストをしてきたのでそれは確かだ。
テスト環境と大きく異なることといえば、外部環境にも接続可能になり、今や世界中でこのシステムが使用可能ということくらいだ。もちろん、それを加味したテストも行っている。
「灰原さん、念のため干渉状況も見てみて」
「あっ、はい」
ここで言う『干渉』とは、データ同士の重なりのこと。
データは全て電波に変換して送信される。FAPIGシステムでは同じデータが無限に同じ地点を行き来するので、それらが互いに重なることでデータが不安定もしくは破壊される。当たり前だが破壊されたデータは二度と元に戻らない。
この干渉は『データ干渉』と呼ばれており、FAPIGシステムではこれが起こらないように設計されている。
「データ干渉はないようだね」
「そうですね」
「データ干渉の抑制もうまく働いていそうだし、これならあまり気にしなくてもいいかな」
研究というのは、だいたいこういうよく分からないデータが出ることがある。気に過ぎると前に進まない。こういうときは無視して差し支えない。圭一は自身の研究人生を振り返りながらそういう決断を下した。
圭一が灰原と次の研究について話していると、受付から圭一宛に内線電話がかかってきた。
来客らしい。鳥羽がやってきたのだ。
しかし、鳥羽と会う約束などしていない。何の用事だろうか? 居留守を使って帰すことも可能であったが、今はそんなに忙しくもない。それにオカルトのサイエンスライターとはいえ、ライターさんと話すのは初めてだ。好奇心が勝り、受付に通すように返答した。
※ ※ ※
ノックが三回鳴った後、「すいません」と言いながら鳥羽が研究室に入ってきた。
「鳥羽さんですね。菅原圭一です。ここはあれなんでこちらにどうぞ」
圭一は鳥羽を会議室に案内した。
「初めまして。鳥羽慎一と申します。急に押し掛けたりして申し訳ありません」
「あー知ってますよ。この前の式典で質問されてましたよね?」
「覚えてくださっていたんですね。ありがとうございます」
お互い名刺を交換した。
「印象に残る質問だったので」
「サイエンス関連の記事を書いているんですが、どちらかといえば宇宙人とかUFOとかそっち系を専門に書いているんで。変な質問で失礼しました」
圭一はあえて鳥羽のホームページを調べたことは言わなかった。それに鳥羽の『専門』という用語に関心した。こういうものにも専門というものが存在するのか。
「今日はどういったご用件で?」
「ちょっとこれを見てください」
そういうと鳥羽はカバンから何かを取り出した。
「これは私が現在執筆中の『異世界』についての原稿です」
「い、いせかい?」
「そうです。異世界です。菅原さんは多元宇宙論をご存知ですか?」
「それなら聞いたことはありますよ。確か量子力学における多世界解釈ですよね?」
「そうです。この宇宙論によると、世界は一つの宇宙だけでなく無限個の宇宙から成り立っているそうです。この宇宙には私は存在していますが、私が存在していない宇宙ももちろん存在します。ありとあらゆる可能性に対応した宇宙が存在する。それが多元宇宙論です」
「で……それがどうしたんですか?」
「多元宇宙論では我々とは別の世界を異世界と言うのですが、それを研究している阿久教授と言う人がいます。異世界について調べていると、阿久教授の論文を見つけたんです」
そういうと鳥羽はその論文をカバンから取り出した。
聞いたこともない雑誌名。怪し過ぎる。もちろん英語だ。世界中のこういった不思議なサイエンスを扱っている雑誌なのだろう。圭一は再度関心した。
「私はライターなのでこういう数式は分からないのですが、この論文の内容がとても興味深いんです」
確かに数式が並んでいるが、専門外ということもあり圭一にもさっぱり分からない。
「簡単に説明しますと、一定量のデータ、つまり情報が集まると爆発を引き起こし異世界に通じる道ができるらしいです」
鳥羽はそのあとも異世界について色々熱心に話していたが、圭一はぽかんとしたまま聞いていた。何を言っているのか分からない。
「データが爆発って……機器が爆発してデータが壊れるなら分かりますが……」
「いや、違うんです。データそのものが爆発するらしいです。それについて深く聞こうと、論文に記載されている阿久教授のメールアドレスに連絡したんですが、エラーで返ってきたんですよね。大学に連絡してみると、阿久教授はもう大学を定年退職されたそうなんです。もちろん今の居場所は個人情報なので教えれないと……それで論文の引用部分を見てみると、菅原さんの論文が引用されていたんです」
「えっ、私の論文が?」
「そうです。FAPIGシステムについての論文です。読ませていただきました」
鳥羽はその引用箇所を指差した。
「ああー、確かにFAPIGシステムに関する論文です」
引用されることは嬉しいが、こういう論文にも引用されるとは夢にも思っていなかった。
「FAPIGシステムはもう稼働してますよね? 何か不思議なこととか起きませんでしたか?」
なるほど。鳥羽がやってきたのは稼働状況を知るためか。圭一の頭にあのノイズが一瞬フラッシュバックしたが「システムは安定に稼働していますよ」と答えた。
「そうですか。それはそうですよね。何かあったら今こうして話なんてできてないですもんね。もし不思議なことが起きたら遠慮なく私に連絡してください。いつでも構いません。飛んで行きます」
なんで鳥羽に連絡する必要があるのか。鳥羽と会話するのは今日で最後だろう。そういう意味も込めて圭一は愛想よく返事した。
※ ※ ※
鳥羽との話が終わり、圭一は研究室に戻った。
「菅原さん、お疲れ様です。随分長かったですね。何の話だったんですか?」
「うーん、異世界とは僕には難しくてさっぱり分からなかったよ」
灰原はきょとんとしていた。
圭一は自分の机に向かった。
FAPIGシステムの稼働状況を確認するためにパソコンのマウスを操作して、専用のアプリケーションをクリックした。
アプリケーションが立ち上がる。
右上に表示されてある『システム状況』をマウスで押した。
圭一は目を疑った。
ノイズが増えていたのだ――。