第1話 記念すべき日
圭一は一睡もできなかった。
今日は長年開発に携わってきた次世代通信技術のお披露目会。実用試験はすでに無事にクリア済み。今回のお披露目会はただのパフォーマンスに過ぎない。
度重なる試験をすべてクリアしてきた。失敗するはずはない。ただ、万一失敗でもすれば笑い事ではすまない。
そういうプレッシャーが圭一を睡魔から遠ざけた。
理由はもう一つ。
圭一自ら記者団を前に発表しなければならないと言う点だ。人前での発表が苦手なのだ。しかも日本の記者だけでなく海外からも多くの記者がやってくるらしい。
通訳がいるので日本語で大丈夫。そんなことはどうでもいい。「それにしても何で僕が……」日に日にそういう思いが込み上げてきた。今日はそれがピークに達している。
原稿は完璧に覚えた。完璧にだ。しかし、緊張で内容が頭から吹き飛んだらどうしよう。そう思うと寝たくても寝れなかった。
そうこうしている内に不安なまま朝日を迎えてしまった。
気分とは真逆で天気は快晴。
今日は土曜日。本来なら休日。しかしこの式典のため休日出勤。
いつもならのんびりしているはずだ。しかし、なんか今日は悪夢みたいな日だ。
何故だろうか?ただの発表なのに。この緊張感は何だろうか。
食欲もあまりなく、お湯を入れればできるインスタントのポタージュスープだけを飲んだ。
ため息をつきながらスーツに着替え、ネクタイを締めた。
時刻は九時。式典は十三時から。
まだまだ時間に余裕はある。しかし、家にいても気分が上がらない。
もう会場に向かうことにした。会場は圭一の勤務先。慣れた場所。唯一の救いといえばこれくらいだろう。
圭一はアパートを出て、自転車にまたがった。
圭一は、筑波にある国立研究開発法人の情報通信先端研究センター(ICARC:アイカーク)に勤務している。
入所以来、そこで次世代情報通信の開発にずっと携わっている。
次世代情報通信技術――。
それは、量子情報理論を応用した技術。一秒間当たり無限容量のデータを送ることができる画期的な通信技術。
また、量子情報理論とは、量子力学と情報理論を融合した理論のこと。
圭一は、大学院で物理を専攻しており、そこで量子情報理論に関する研究を行っていた。
博士号を取得した後、ICARCに入所。
ICARCでも量子情報理論に関する研究開発をずっと行っている。今となってはセンター内では彼が一番詳しい。
しかも圭一はセンター内では一目を置かれている。
と言うのは、無限容量データ通信を応用することで無限のデータ容量をストレージできるシステムを圭一は提案。そして、実際に構築した。
今回発表するのも、どちらかといえばその話題が中心である。
そういうこともあり、センター長直々の命で、圭一が発表するに至ったのだ。
業績は申し分ないが、圭一は一般企業で言えば平社員同然の地位にいる。
もちろんリーダークラス、つまりマネージメントの役職への打診も何度があった。しかし、すべて断っている。そういうのは苦手で興味もない。
研究員としてずっと働きたいと言うのが圭一の希望だ。
博士号取得後、大学に残らなかったのも教授職に興味がなかったからだ。教壇に立つのも苦手。教授はどちらかといえば雑務の方が多い。研究はもっぱら学生やポスドクが行う。それならICARCなどの研究所でずっと研究に携わっていた方が無難だ。ここで下手に昇格でもしたらICARCに来た意味がない。
圭一は生涯研究者という地位を守り抜くつもりなのだ。
※ ※ ※
時刻は九時半。いつもなら二十分もあれば着く。今日は少し遠回りしてICARCの敷地内に入ったのだ。
入ってすぐ右側にある駐輪場に自転車をとめ、会場に向かう。
会場は駐輪場の真向かいにある五建てビルの一階。
少しだけ扉を開けて中を覗くと、準備担当の人たちが忙しく作業に追われていた。中に入ると、手伝いをお願いされそうなので、圭一は三階にある自販機コーナに向かった。
缶コーヒーを飲みながら論文を呼んでいると「菅原さん、おはようございます」という声が聞こえてきた。
振り返ると、後輩の灰原茜音が手を振っていた。圭一と違って元気がいい。
灰原は今年、ICARCに入所したばかりだ。まだ数ヶ月しか経っていない。
灰原も圭一と同様に博士号を取得後、このセンターにやってきた。
センター内にはいろんな部署が存在する。
圭一が所属する次世代情報通信開発部に女性が配属されるのは珍しい。
「あっおはよう、灰原さん。準備ご苦労様」
「いえいえ、準備はもう終わりました。今日ってテレビカメラも来るんですよね! 私、なんかワクワクしてきました。だって、うちの研究所が世界に誇るFAPIGシステムの発表がテレビで流れるんですよ! 私テレビに映るのかな? でも大丈夫です。化粧はバッチリですよ!」
灰原は若手なので準備の手伝いをさせられていたのだ。それにしても、圭一とはテンションが随分と異なる。しかし、これは今日に限ったことではない。
ICARCでは、無限容量のデータをストレージするシステムのことをFAPIGシステムと呼んでいる。
ストレージ容量は事実上無限大。圭一はそれを『太った豚(FAT PIG)』と喩え、そこから『FAPIG』と名付けたのだ。これは圭一が遊び半分で名付けたもの。もともと開発チーム内だけで使われていた俗称であったが、いつの間にかそれが正式名称になってしまった。
「ワクワクかぁー」
「あれっ? 菅原さん、もしかして緊張してます?」
「えっ、いや、まぁー多少は……」
多少どころが吐き気がするほど緊張している。
「てっきり部門長が発表すると思ってましたよ。でも菅原さんが発表するんですね。まぁー開発者ですからね。応援してますよ!」
「石井センター長に頼まれてしまってね……」
「テンション上げていきましょう! テレビに映るんですから」
「灰原さんはいつも元気だね。なんか飲む? おごるよ」
「元気だけが取り柄なんで、私。じゃー菅原さんと同じ缶コーヒーでいいです。ありがとうございます」
「灰原さんも学生時代に量子情報関連の研究をしてたの?」
圭一はコーヒーをすすりながら聞いた。
「はい、そうです。学生時代からなんか興味があって。菅原さんの論文もよく読ませていただきましたよ。だから菅原さんと同じところで働いてみたいなと思って応募したんです。こうやって一緒にお話ししているのも夢見たいですよ」
圭一は照れた。自分に憧れてここに来るなんて。お世辞かもしれないけど悪い気はしない。
「それは光栄ですね。そういえば、灰原さんとこうやって話すのも初めてだね。センターには慣れた? って灰原さんならもう慣れているよね」
「はい、みんないい人ばかりでもう慣れましたよ。ところで、菅原さんは勤務して何年目になるんですか?」
「えーと、確か今年で十一年目だっかかな」
「えっ、十一年! 菅原さんて今何歳なんですか?」
「今年で三十八歳だよ」
「えっ、本当ですか! とても若く見えますね」
確かに圭一は見た目よりも若くみられることが多い。
「私なんかお腹が空いてきました。食堂にでも行きません?」
時刻はもう十一時半になっていた。
灰原と話したせいか圭一の緊張は少し和らいだ。おかげで少し食欲も湧いてきた。
昼食には少し早いが灰原の誘いに快諾した。
灰原主導のもと会話は弾み、あっという間に時間が過ぎた。
「灰原さん、そろそろ時間だから行こうか」
「はい!」
※ ※ ※
会場に戻ると、センター内の職員だけでなく記者たちやカメラマンたちの姿が見えた。灰原はその光景を見て、より一層ワクワクしているようだ。
センター内でこういった会見は今まで行ったことはない。テレビで見るような記者会見場が出来上がっている。初めてにしてはよくできていると圭一は感心した。
しかしもう暫くすると、あの一番前で自分が発表していると思うと沸々と緊張が込み上げきた。
「あっ、あそこに石井センター長がいらっしゃいますよ、菅原さん」
灰原の声にセンター長が気づいたのかこちらに近づいてきた。
「菅原君、今日は頼んだよ」
石井センター長はそう言いながら圭一の肩を軽く叩きその場を去っていった。その背中に向かって圭一は会釈した。
指定された席に圭一は座り、暫くすると式典が始まった。
司会進行役の女性が段取りよく石井センター長に初めの挨拶をお願いする。
「当センター長の石井と申します。今日は休日にも関わらず遠いところからお越しいただきありがとうございます。今回の会見は、無限容量通信とFAPIGシステムと我々が呼んでいる無限容量のデータをストレージできるシステムの実用化に関してであります。実用化に関するテストは無事に全てクリアしており、今日の会見をもって実用化されます。今までにないシステムでもあり、我々の生活は一変するでしょう。
本システムは、当センターだけでなくアメリカや中国との連携で、多くの研究者と共に達成されました。この場を借りて御礼を申し上げます――」
石井センター長の話はまだまだ続く。もはや挨拶の域を超えてきた。
圭一の緊張が増していく。こういう時は待っている時の方が辛いものだ。圭一は早く終わってくれと心中で念じた。
ようやく長い挨拶が終わり、司会者に変わった。
「石井センター長ありがとうございました。それでは、当センターが開発した無限容量の通信に関する内容を当センターの菅原から説明していただきます」
正面のスクリーンにパワポの画面が映し出された。
ついに出番がきてしまった。
※ ※ ※
「ただいま紹介に預かりました、菅原圭一と申します。今日は当センターに御来所いただきありがとうございます。よろしくお願いします。まず、無限容量通信について説明させていただきます――」
そう言うと、圭一は次のパワポのスライドを表示させた。
「我々が無限容量と言っているのは、正確には間違っています。本来は有限の値を持っているのですが、その容量値は理論上、天文学的な数字の後にTBが続きます。それは事実上、無限大と言っても過言ではないので我々は無限容量としています――」
いざ話し出すと、意外にすらすら話すことができた。
と言うもの、圭一はいつも話す前まで異常に緊張はするのだが、話し出すとすらすら話せるのだ。
圭一は研究者でもあるので学会などで発表することももちろんある。その度に緊張しているが、自分がしっかり話せているとはいまだに自覚していないのだ。
詰まることなく無事に終了。
「発表は以上になります。それでは引き続き質疑応答に行かせていただきます。質問などがある方は挙手を願います」
司会者がそう言うと早速記者たちが手を挙げた。
質問にももちろん圭一が答える。ただ、これは学会ではない。素人レベルの質問だらけで圭一は難なく答えることができた。
「そろそろ時間なので、最後一つだけ質問を受け付けて終わりにしますが、如何でしょうか?」
司会者がそういうと、一番後に座っていた男性記者が手を挙げた。
「じゃーそこの男性にマイクをお願いします」
「私はフリーでサイエンス関連の記事を書いています鳥羽と申します。ちょっと変な質問かもしれません。FAPIGシステムについてなんですが、無限容量のデータが生み出すエネルギーで空間に穴を開けると言うことはないのでしょうか?」
SF映画の見過ぎなのだろうか、場内で失笑が起きる。
圭一は返答に困った。何を言っているのか分からない。
データが空間に穴を開ける?
そんなバカな。
でも不思議とこの質問に引っかかる何かを感じた。
「えっ、まー、データそのものはエネルギーを持ってないので、そのようなことは起きないとは思います」
とりあえず、当たり障りのない返答を返した。
司会者が「それでは、少し休憩を挟み、その後システムのデモをお見せいたします」と言っている。
圭一の頭の中ではさっきの質問が反芻する。
無事に式典は終了したが、その反芻は後味悪く残っていた。