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1話 ミヤコワスレ


 アパートのベランダに出て、煙草に火をつける午前二時。

 昔は電子煙草なんて生意気に吸っていたけれど、今指に挟まっているのは、祖父が吸っていたのをダセェと馬鹿にしていた希望という名の嗜好品。これも最後だ。

 スエットのポケットの中には、小銭がバラバラと入っている。それしかない。あと一度、希望を買ったらお終いだ。

 赤い火を揺らしながら、何を見るでもなく瞳を彷徨わせる。

 いい加減、仕事につかなければと何度も思っている。でも、それもできなかった。

 ハローワークの人混みが皮膚に障る。薄っぺらい求人広告に反吐が出る。『明るく楽しい職場です』? ああそうですか。それが何か? そんな言葉を飲み込んで、電話をかけてみても、電話の向こうの明るい声を聞けば怖気づく。そこから先に動けない。

 こんなんじゃなかったのに。こんなはずじゃなかったのに。


 ふと暗がりにポツンと明かりが見えた。

 何時からいたのだろうか。黒い軽のワンボックスカーがタバコの自動販売機の脇にとまっていた。

 怪しいと思いながら煙草を吹かす。

 煙草の火が指につくまで吸い尽くしても、その車は動かない。

 俺は不審に思って、自動販売機への買い物ついでに見に行くことにした。


 近づいてみれば、それは花の移動販売車だった。ワンボックスのトランクを開けた中に、色とりどりの花が積まれている。

 珍しいもんがいるもんだ、そう思う。

 今の俺には花なんてこじゃれたものを買う余裕はないし、そもそも花なんか生きていくには無用の長物だ。金持ちで気持ちに余裕がある選ばれた人間だけのものだ。

 なんでこんなところで、こんな時間に花を売ってるのかまったく意味が分からない。

 店員らしき人物は俺を見るでもなく、車へ何かを貼り付けていた。商売っ気はないらしい。

 

 自動販売機で選ぶふりをしてソイツを盗み見る。

 白髪の混じったショートカットの黒い髪。160センチくらいだろうか、細身の体。男女どちらにも見える。黒い瞳に白いシャツ。黒いエプロンと黒いスラックスで、まるでギャルソンのようだ。

 黒いワンボックスには白い文字で、『移動販売車 花や かおる』と書いてある。

 自動販売機で最後の希望を買って、家に戻ることにする。ガコンと音がして、深夜の街角に響いた。

 その音に驚いたのか、店員がこちらを見た。

 目が合った。

 その瞬間、ソイツは花がほころぶように笑って、小さく頭を下げた。


 カッと顔が熱くなる。

 俺は髭も伸びたままだし、染めてない髪はシマリスのようになっているし、寝ぐせすら何日も直していない。スエットの上下はよれよれで、足元はスーパーで買ったようなおじさんサンダル。夜中だというのにマスクまでつけて。

 どう考えたって、不審者で怪しいものだ。知ってるんだ、分かってる。

 自分の気持ち悪さに久々に気が付かされて恥ずかしい。人前になんか出るんじゃなかった。後悔ばかりが胸に押し寄せる。

 俺は背中を丸めて、頭すら下げられずに、逃げるように踵を返した。

 最後に覗き見るように振り向いた瞬間、車に貼り付いた白い紙に目を奪われた。

 来た時は気が付かなかったが、その紙には『運転手募集中』と書いてあった。

 思わず足を止める。うんてんしゅ、口の中で呟いてみた。

 その瞬間。


「あなた、車の免許持ってるの?」


 ハスキーだが柔らかな声が響いた。

 思わず反射で頷いた。


「興味あるならやって見ない?」

「あっ、おっ、お」


 人と話すのは何日ぶりだろう。そもそも声を出すのが何日ぶりか、というほどだ。

 とっさに出た言葉が、すでに人間ではないそれで羞恥が一気に膨らんだ。


「忙しい?」


 続けて問われて、無言で頭を振る。


「お、お、オレなんかで大丈夫……ですか……」


 だんだん小さくなる声に、その人は笑った。


「日給六千円でよければ」


 俺は小さく頷いた。



 そうやって俺と『花や かおる』との生活は始まった。



・・・



 夜七時、初めて会った自動販売機前に『花や かおる』の移動販売車が迎えに来る。

 服装は自由。マスクも許可。仕事中は禁煙。給与は日払い制で、仕事が終わったら現金で支払われる。履歴書の提出もなく、職歴も家族構成も、名前すら聞かれなかった。俺は『あなた』と呼ばれている。二人っきりの車の中では、それで事足りた。

 そんなわけで、俺も店主のフルネームは聞いていない。ただ、常連客が『かおるさん』と呼ぶので、俺もそれにならっている。


 俺と運転を交代して、仕事が始まる。まずは店じまいをしている花屋へ行き、花を仕入れる。それから、ぶらぶらと車を回して、午前二時くらいから常連の飲み屋を周り、翌日分の花を飾る。

 移動販売車を回すルートは決まっている場所と、そうでもない場所があるらしい。ちなみに、出会った自動販売機は偶々止まった場所だったそうだ。


 こんな自由な移動販売車、しかも夜に花なんて買う人は少ないから、もちろん客足は遠い。来る客は、なんだか不思議な人間が多い。



「かおるちゃぁぁん」


 酔っぱらったスーツの男が甘えた声ですり寄ってくる。かおるさんは、営業用の笑顔でそれを受け入れて話を聞く。


「かーちゃんにぃ、おこられっからぁ、ほら、あれ、いつものぉ」

「ええ、一番綺麗なお花を用意しましょう」

「そう、いちばんきれぃなぁ、はな、おはな」


 酔っ払いはご機嫌で笑っている。かおるさんは笑いながら花を包む。


「カスミソウとトルコ桔梗です。花言葉は感謝」

「花ことばは感謝、感謝ねぇ……うん、そうねぇ」


 酔っ払いは千円札を置いて帰っていく。こんな客が案外多い。

 俺はそれを車の影から眺めている。本当に運転しかしていないのだ。


 次に見えた客に、ぎょっとした。

 真っ白なワンピース。夜なのに白い日傘。白い手袋をはめ、頭には大きなレースのリボンをつけて、しずしずと歩く老婆。

 かおるさんは当然のように出迎える。俺は見てはいけないものを見てしまった気がして、そっと車の影の奥に隠れて様子を伺った。



「少し早いけどミヤコワスレ、あるかしら」

「ございます」

「このお花が好きなのよ」

「ええ、可憐です」

「明日も来てね?」

「明日ですか?」

「ええ、明日も明後日も」


 かおるさんはそっと束ねて老婆へ渡す。老婆は満足げに笑って、お金を置いていってしまう。その先は、大きな木の茂った杜で、闇に吸い込まれていくようだ。

 俺は老婆が遠のいてから、慌ててかおるさんに近寄った。


「あの人……」

「本当は毎月十七日って決まってたんだけどね。今日はどうしたんだろう? 三日も早い」


 かおるさんは白い背中を見送りながら答えた。少し寂しそうな顔をしていた。


「常連さんですか?」

「うん、常連さんだよ」


 そう聞いてホッとする。何だかあまりにも浮世離れしすぎていて、人間ではないように一瞬思ってしまったのだ。

 今どきそんなはずがないのに、バカバカしい。

 しかし、『花や かおる』にはそんなことがあってもおかしくない雰囲気があるのだ。


 翌日も翌々日も俺とかおるさんは、ミヤコワスレの客に会った。やっぱり、真っ白なワンピースに、白い日傘。白手袋、大きなリボン。常連客ではなかったら、狂気を感じる出で立ちだ。


「明日、いくことにしたの。丁度、六月十七日だし」


 白いワンピースの老婆がかおるさんに言った。


「今日のお昼にね、迎えが来てね」

「そうですか」

「だから、明日で最後なのよ」

「明日もここに来ます」

「かおるさんに会えなくなるのは寂しいわね」

「私もです」


 老婆はいつものように支払いをして、大きな杜に吸い込まれていった。


「明日で最後、なんですね」

「そうみたいだね」

「どこかに行くんでしょうか? 海外とか?」

「遠くに行くんじゃないかな」

「長いお付き合いだったんですか?」

「そうだね、私には短かったけど、あの人には長かったと思うよ」


 かおるさんはそう言うと、ワンボックスのドアを閉めた。




 次の日もかおるさんとそこでミヤコワスレの客を待った。

 車の中はクチナシの花が香っていて、息苦しいくらいだ。今日はなぜだか、いつもより多めにミヤコワスレが仕入れてあった。


 いつものように酔っ払いが冷やかすように覗いていく。

 派手な女に薔薇を買い与える客もいる。どんな客にも同じように、かおるさんは笑う。


 白ワンピースの女性がこちらに向かって歩いてくる。日傘をさして、手袋をして、大きなリボンが揺れている。でも、老婆ではない。


「こんばんは」


 ワンピースの女性が笑いかける。

 かおるさんも笑いかける。


「ミヤコワスレですね」


 かおるさんが言えば、にっこりと女性は笑った。

 かおるさんは、ミヤコワスレをいつもより多く束ねた。カスミソウを入れて、青いリボンを巻く。まるでウエディングブーケのようだ。

 女性は瞳を大きく見開いた。


「なんて……、綺麗。でも、私……」


 女性は戸惑ったように口ごもる。


「ご愛顧いただきましてありがとうございました。こちらはサービスです」


 かおるさんはそう言って、その女性の髪にクチナシの花を挿した。


「いい香り」

「花ことばは、『とてもしあわせです』」

「まぁ、ピッタリね」


 女性はそう笑った。


「待たせたかな?」

 

 男の声が唐突にして、そちらを見れば、白いワンピースの女性の後ろに、軍服を着た男が立っていた。

 

「ずいぶん待ったわ、貴方、迎えに来るの遅いのよ。いっつも遅刻ばっかりで」

「いや悪かった、だってキミ、みんなに愛されていたからね」

「ええ、幸せだったわ。でもそろそろあなたと幸せになってもいいでしょう?」

「ずっと幸せだったさ。君と子供たちを見ていたよ」


 女性は顔を赤らめて、かおるさんに頭を下げた。


「いくんですね」

「ええ」

「お幸せに」

「ありがとう」


 白いワンピースの女性の腰に、軍服の男が手を添えた。

 白いワンピースの女性は、ふと気が付いたように日傘を閉じた。


「これ、貰ってくださらない?」

「ありがとうございます」


 かおるさんが柔らかく微笑むと、満足げにうなずいて背を向けた。

 二人は暗い杜の中へ消えていった。



「かおるさん、あの人」

「ミヤコワスレのお客様だよ。ちょっと一緒に来てくれない?」


 かおるさんに言われて、暗闇の中をついていく。初めて入る大きな杜のその奥には、大きな石の石碑があった。そこにはミヤコワスレの花束がいくつか供えられている。『花や かおる』で束ねたものだ。


 かおるさんはその石碑の前で手を合わせた。

 俺も習って手を合わせる。


「軍服の人は誰だったんですか?」

「ミヤコワスレのお客様の旦那様。若い頃に亡くなられてね、月命日にはミヤコワスレをお供えに来てたんだ。旦那様が好きな花だったらしい」


 そして今夜、二人は逝ったのだ。

 

 暗闇の中なのに、うっすらと光って見える石碑。

 その石には、六月十七日が命日だと刻まれていた。





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