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僕らは夫婦で魔王になります。  作者: 九里 睦美
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5話:帳簿の一番上

 男の拳は、一瞬で消えたように見えた。いや見えなかった。


 いつの間にか僕の腹にあって、いつの間にか僕は宙を舞っていた。


 呑気な空が素晴らしく、冷酷なほどに青い。腹が痛い。多分、中身が破れた。


 ぐしゃりと、僕の身体が地に落ちた。土の匂いが香る。

 あぁ、確かに土の匂いがするよ、エリー。僕もこの匂いが好きだな。


 そう思った瞬間に、鉄の匂いへと変わってしまった。茶色い土が、赤く染まる。

 あぁ、やっぱり破れていたのか。

 僕の口から赤い汁が漏れていた。


「ちょっと、何、してるの?」

 エリーの声だ。パサリと、軽い物が落ちる音もした。

「あぁ?なんか文句あんのか!?」

 下卑た男の声が耳にぶちあたる。不快だ。最後くらい、エリーの声を聞いていたい。


「君がやったの?」

「だとしたらどうしたって言うんだ?」

 昨日、彼女に頭を下げられた男はすっかり調子に乗っている。

 エリー、そんな奴無視していいから。早く次の街に行きなよ。


「……絶対に許さない」

 え?

 聞いたこともない、低い声。

 その声が波動になったかのように、辺りに風の波が。


「なんだよそれは!お前、髪が黒く!?」


 そんなまさか、エリー、本当の姿に?

 力を振り絞って、首を動かす。


 そこには座った目をした黒髪のエリーがいた。


 僕が目を見開くと同時、僕のいるところだけを避けて、強烈な風が彼女を中心に吹き荒れた。


 なんで、エリーは怒ってるの?


 彼女の背中から、黒い、刃の先が幾つも連なってできたような羽が飛び出す。紅玉のような目が淡い光を放つ。


「君は私の大事な人を傷つけた。絶対に許さない」


 そんなまさか。エリーの口から、大事な人、という単語が出てくるなんて。こんな状況でなければ、たとえ面と向かって言われても別の人のことだと思っただろう。

 目から熱い涙が溢れる。


 エリーがそんな風に、こんな僕を……。

 死んでもいい、そう思った。僕はもう、安らかに死ねる。


 また一段と濃い魔力の波動が男に向かって放たれた。彼女の瘴気だ。怒りの感情が限界まで高まった時に出るって教えてもらった瘴気だ。


「ひ、ひぃあぁぁぁぁ!!」

 その瘴気を浴び、身体の一部が腐食した男はどすどすと不愉快な音を立てて一目散に逃げ出した。

 彼が離れていくと同時に、僕の意識もこの世を離れようとしていた。


「まだ生きてるよね!?まだ大丈夫だよね!?」


 身体を離れそうな意識が、エリーの声に引き止められる。もうちょっとだけ、聞いていたい。

 手を、少しだけ動かす。


「よかった!まだ生きてる!」

 僕はもう助からないだろうけど、よかった。最後にエリーの声を聞きなが死ねるなんて、こんなに幸せなことは想像できなかったよ……。


 ゆっくりと目を瞑る。

「待って!まだいかないで!」

 んぐっ!と何かを飲む音が聞こえた。

 直後、

「んふっ」

 僕の口に柔らかい物が触れ、そこから液体が口内に注がれた。

 チカラの残っていない僕は、それを口に溜めるだけ。


 すると、柔らかいものから、さらに柔らかいものがやってきて、僕の喉の方へ、液体を流し込んだ。


 ごくん。


 その液体が胃に流れ……。


「んんっ!!」


 ドクン!と熱い鼓動を打つように腹部が震える。その熱さに耐え切れず、バッと起き上が……れた。

 真紅の口紅をあしらったエリーの目がキラリと潤む。


「よかった!よかった!よかったよ〜〜!!」


 ぎゅー!!っと痛いくらい、エリーに抱き締められる。背中の羽は引っ込んでいて、そこだけ肌色が露出していた。

 僕はそれを見て、寒そうだと思うくらいにしか、まだ、何が起きたのかよくわかっていない。


「エリー?」

「……ひぐっ、なに?」


 僕を見つめるのは、涙でびしょびしょになっているエリーの紅玉。綺麗だ。あまりに綺麗なそれは、僕の言葉を塗り替える。


「綺麗だ……」

「何言ってるの?私、本当に心配したんだよ?死んじゃったらどうしようって。ぐすつ、死んじゃってたら、いくらエリクサーがあっても仕方ないから」


 彼女は横に落ちている角張った空き瓶に目を向ける。僕もその視線を追う。

 あれは……香水?エリクサー?


「あれ、香水の瓶じゃなかったの?」

「そんなわけないじゃん。香水がプラチナコイン二枚もするわけないでしょ?」

「するものもあるよ。ていうか、エリクサーこそプラチナコイン二枚じゃ買えないよ?」


 エリクサーなんか、普通に買おうと思ったらプラチナコインが何枚消えるのか、見たことがない僕にはわからない。


「ぐずっ。ふふーん、コネだよ、コネ」

 そう言って親指と人差し指を合わせ、輪っかを作るエリー。なんだか、やましいことがあるみたい。

「なるほどね」

 深くは追求しない。


「って、私たち注目されちゃってるね」

「え?」


 周りを見渡すと、数人の魔族たちが目を瞬かせ、こちらを見ていた。


 あれ、女帝エレシュキガルじゃない!?

 ほんとだ!めちゃくちゃ綺麗じゃん!

 でも、奴隷と抱き合ってない?

 えー!?なにあれ!?

 などと、エリーが話の種にされている。


「見世物じゃないんだけどね……。じゃあ行こっか!」

「あ、うん!」


 エリーはいつもみたいな笑顔を咲かせ、僕の手を掴んだ。そして僕は、その手に引かれるまま、ルクシオンが引く馬車に乗る。


 ととんっと、木の床に飛び乗った僕らの足音が響く。

 ふわりと舞ったエリーの黒髪を目で追っていると、「ルク!この街を出て!」と目の前の従魔に命令する声が響いた。


 ルクは仕方ねぇな!とでもいうような鳴き声を、がう!と出した後、雷のように駆け出す。きゃあ!とか、うわ!とか驚く人たちの間を縫うように、高速で。

 頬にあたる風が、気持ちいい。


 ひゅんひゅんと横切る建物、人、看板。ルクシオンは速さも優秀すぎる従魔だが、その精密さも優秀すぎる。

 事故もなくあっという間に街を駆け抜け、僕らは草原の中にいた。


 そして、馬車は草原の真ん中で止まる。


「ありがとう、ルク。ごめんね、アイちゃん。捕まるのしんどかったよね」

 馬車から降りて、従魔と神獣を労うエリー。僕も、その後ろに付いて行く。エリーは二匹を撫で終わった後、僕の方を振り返った。


「これ、返すね」

 帳簿だ。

「ありがとう、エリー」

 受け取って、開いてみると、クセがついていたのか、一番最初のページが真っ先に開いた。


 一番上には、黒く塗り潰された欄がある。


「どうしても消したかったの、それ」

「……なんで?」


 僕の目からは、止めどなく涙がこぼれ落ちる。これじゃあ、エリーがよく見えないよ。


「ねぇ、あなたにお願いがあるの」

 幻のようにもやもやとしたエリーが、僕の手を握る。


 幻じゃないと教えてくれる温もりと、エリーのお願い、という言葉が僕に沁み入ってくる。


 彼女が僕にお願いをしたことなんて、今まで一度もない。

「何?なんでも聞くよ」

 だからこそ、なんでも聞いてあげたかった。出逢った時と同じように、どんなことでも。

「私の奴隷じゃなくて、家族になって?」

「え?」


 僕の中で、時が止まったかのように脳が活動を停止する。かぞく?カゾク?なに?

 今、エリーはなんて言った?僕の聞き間違いじゃないのか?耳が壊れてたり。いや、エリクサーを飲んだ後だからそれは絶対にない。いやでも––––。


「やっぱりだめ?」

 悲しそうに、上目遣いで僕を見つめてくるエリー。そんな目で見つめられたら、僕じゃなくとも返事は一択に絞られるよ。

 カゾク––––かぞく––––家族か……。

「……ダメなわけないよ」

「ほんと?」

「本当。僕も、僕でいいなら、エリーと家族になりたい」

「嬉しい。じゃあ、ほら」


 そう言って彼女は目を瞑り、僕に顔を寄せてきた。二匹の前だけど、そんなことを気にしている場合じゃなかった。

 僕も目を瞑り、彼女に顔を寄せる。


 ふわっと幸せな感触が、唇から身体中に広がる。


「はい、あなたと私は家族になりました!」

 エリーは今まで見たことがなかった、輝きを超えた笑顔を、僕の傍で見せてくれた。


「エリー、本当に僕でよかったの?」

「あなたじゃないとダメだよ」

 一点の曇りもない紅玉が僕の心にそう言ってくれる。でも、バカな僕からは、不安が消えない。


「役立たずの僕でも?」

「こら」

 コツン、と頭を小突かれる。

「いてっ」

「役立たずじゃないよ。私を幸せにすることは、あなたとご飯しかできないんだから。私を幸せにするっていう、大事な大事な仕事を担っているあなたは、役立たずなんかじゃないよ、絶対」


 エリーの中でご飯と僕が同率なのは少し気になったけど、逆に言えばそれほどまでに僕を大きな存在に思ってくれていたんだ……。と心が震えた。


「ありがとう、ありがとう」

 エリーに、僕の心を押し当てて、文字通り心から感謝を伝える。

「うん」

 柔らかなエリーに包まれた僕の心は、人生の氷河期を、終えた。


 どれくらいそうしていただろうか。

 ルクシオンの大袈裟な咳払いが草原にこだました。


 名残惜しいけど、エリーとゆっくり離れる。


「そんな顔しないの。またいつでも抱いてあげるよ?」

 穏やかに微笑みながら、嬉しいことを言って貰えて、心臓が身体中を飛び回るのを感じた。バックバックと頭の先からつま先まで鼓動が響くけど、全然嫌じゃない。僕は今、一生分の幸せを消費しているのかもしれない。

「ありがとう、でもまた後でお願い」


 ルクシオンの視線が痛いんだ。


「うん。いつでも。あ、そうだ、他に欲しいものある?」

 馬車に乗り込みながら、エリーは僕にそう言った。


「何か、くれるの?」

「当たり前でしょ?あなたはもう奴隷じゃなくて私の夫なんだから」

 私の夫、その言葉の響きに、心がキュッとなったのは、エリーには内緒だ。嬉しいけど、まだ恥ずかしい。

「そ、そうだね。じゃあ、名前が欲しいな」


 奴隷生まれ奴隷育ちの僕には、名前がなかった。今、エリーと家族になって、一番欲しいと思ったのは呼ばれる名前。僕を、エリーが付けた名前で呼んで欲しかった。


「名前か、そっか」

「ダメ?」

「ダメじゃないよ。実はね、心の中で呼んでた名前があるんだよね」

「え?」


 エリーが僕のことを心の中で呼んでいてくれたことがすでに嬉しい。もうすでに、僕が受容できる喜びの限界値を超えていて、僕はあまりに短い返事をしてしまう。頭が考えることを放棄した結果だ。


「『ユキ』っていうのはどう?雪みたいに白くて、雪みたいに消えちゃいそうで、傍にいると、雪の日みたいに楽しくなっちゃう。って、これは私があなたを好きになった理由なんだけどね」

「……嬉しい、嬉しいよ」


 喜びのキャパシティを振り切ってしまった僕はもう、栓の抜けたボトルのように、涙を流すことしかできなかった。


「え?そんなに泣くほどなの!?」

「だって、ひぐっ、今日はエリーがこんなに僕を幸せにするから……ひぐっ」

「そっか、なら私も同じくらい幸せにしてね?」

「うん……!」


 僕はルクシオンに怒られたばかりだけど、エリーにぎゅっと、抱き着いた。お互いの心音が、溶け合うように心地よくて、いつまでもいつまでもこうしていたくなる。


「––––ねぇ、二人で魔王になろっか。でね、幸せになろ?」

 エリーは眠る前の声のように、小さな声で囁いた。

「魔王って、どうして?」

 驚いたけど、僕も同じボリュームで返す。

「今日、改めて思ったの。あなた––––ユーくんみたいな人間が、堂々と街を歩くためには、二人で魔王になって、世界を変える必要があるって」


 僕のために、そんな、大きなことを。

 でも、エリーなら不可能じゃない。


「わかったよ。僕に、エリーを手助けする力はないかもしれないけど、エリーを幸せにするためなら、頑張る」

「うん、ありがと」


 その後僕らは、何の意味もない、愛だけが込められれたキスを交わした。


 その日の草原に、ルクシオンの咆哮がこだましたことは、言うまでもない。

読んで下さり、ありがとうございました。

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