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3人

作者: 浅野新

「明日は雪みたいね」


 窓から夜景を眺める僕に、さくらさんは聖司君、はい、と紅茶の入ったマグカップを差し出した。

「少しだけど。温まると思うわ」

 ありがとう、と一口飲む。体を巡る液体と、触れた肩と肩から伝わる彼女の体温が、僕をじんわりと温めてゆく。

ゆっくり紅茶を飲みながら、彼女といた今日と言う日の、余韻を全身で感じ取る。決して忘れる事がないように。


 しばらくして僕はダウンジャケットを羽織った。


「じゃあ、また」

「うん」

 さくらさんが微笑む。

僕は玄関を出て、彼女に笑い返した。ゆっくりと閉じられるドアを見ながら、明日も彼女が、今日と同じように笑っていて欲しい、と思う。

いつでも。

誰と過ごしている時でも。


例えそれが、別の恋人であろうと。


明日は(よう)がここを訪れるだろう。


さくらさんには恋人が二人いる。

僕と、曜が。





「一人を愛せないってどういう意味」

 俺は果物ナイフで林檎の皮を剥きながら、さくらに尋ねた。背後にある台所では彼女が戸棚を開け閉めする音や、お湯の沸騰する音がしている。彼女はこれから紅茶を入れるに違いない。


 さくらの、ふふ、と言う笑い声がした。

「曜はいつもまっすぐね。・・・あ、やっぱり雪になっちゃったわね」


 雪、と言う言葉につられて正面の大きな窓を見ると、いつの間にか粉雪が舞い始めていた。どうりで冷える筈だ。


「意味は前言った通りよ」


 すぐ背後で声がしたので振り向くと、さくらが皿をこちらに差し出して立っていた。俺は皿を受け取り、切った林檎を並べてテーブルに置いた。

「それがよく分からないんだよな」

 何度聞いても。


 並べたばかりの林檎を一つ取ってかじる。ひやりとした感触。

「・・・分からない方がいいかもしれないわ」

 さくらの話し方が珍しく強かったので、心配になって彼女を見上げた。俺の顔を見て、彼女はいつも通りのゆったりとした笑顔になる。

「紅茶が入ったわ。ここのクッキー美味しいのよ。そっちに運んでくれる? 」

 俺は立ち上がり、台所からティーカップやポットや紙ナプキンを、元いた居間のテーブルまで運んだ。全て運び終えると、振り返って台所で立ち働くさくらを見つめた。


 端整な横顔。華奢な腕。折れそうな腰。さらさらの長い黒髪。


何もかもが華奢でやせぎすなくらいなのに、うっとりするほど色気がある。力はどう見たってこちらの方が上なのに、彼女の色気と瞳には全く敵わない。

力なんて、なんにもならない、と初めて分かった。その目で見つめられると、俺は従順な犬になる。


とび色の、強い光を放つ瞳。


「どこを見ているの」

 クッキーをこちらへ運びながらさくらが問う。低く、ゆったりとした甘い声。それだけで幸福な気持ちになる。


「さくら」


 俺は即答した。もちろん、と言うように胸を張って。

「さくらの顔とか髪とか体とか。さくらの全部」

 彼女は、ふ、と微笑んだ。


 その笑顔があまりに綺麗で優しかったので、言った本人であるこちらが何故だか耳まで赤くなった。

「何だよ、本当だよ」


さくらは再び微笑み、隣にそっと座ると俺の髪を撫で、わかってるわ、と言った。


ちらついていた粉雪は、いつの間にか降り止んで、残骸が屋根にうっすら白く残っていた。


「俺、変わった? 変わったよな、絶対」


曜はそう言うと、両手を上に引っ張って伸びをした。

長い手足をもてあましているかのように。切れ長の瞳が僕を見る。時に攻撃的な、黒く、強い光を放つ瞳が。

彼が首を回すと、ぽきぽきっといい音がした。漆黒の短い髪が揺れる。


二月の朝は冷たくて、いつもどんよりと薄暗い。月曜日は尚更そう感じる。少し日に焼けた曜の精悍な顔も、今日は元気がないように見える。


僕達は通学路を並んで歩いていた。


 曜は僕の幼馴染で、同じ高校に通っている。お互いに趣味も性格も、全てが違うのに何故か気が合って、昔から一緒に行動している。違いが多すぎる事が却って安心するのかもしれない。何が、なのかは僕は分からないけれど、きっと彼もそうだろう。

 

これは偶然だったが、アルバイト先も僕達は同じカフェで働いている。


 さくらさんはそのカフェの常連だった。

彼女を初めて見た時、現実感のない人だと思った。線が細く、華奢な彼女はふわりふわりと歩いてきて、席はたくさん空いていたが迷う事なくまっすぐひとつの席に座った。


オーダーは曜が取り、僕が食事を運んだ。アッサムティーの入ったポットとカップにミルク、スコーンののった皿を置くと、彼女はゆっくりと顔を上げて僕をまっすぐに見つめた。

「ありがとう」


 そうして僕と曜は、さくらさんに恋をした。



 ついこの間の事のようだ。確かに、まだ去年の事だから。あの時は梅雨で、色も空気も日常もオブラートに包まれていた。


 また。あのときの事も。

さくらさんは何て言ったか。


 僕は今でもはっきり覚えている。


「一人だけを愛し続ける事はできないの」


 さくらさんは静かにそう告げた。


付き合ってください、と僕が彼女に告白したのは去年の九月、まだ残暑が厳しい午後の事だった。


カフェの裏手は日陰になっていて少しだけ涼しい風が吹いていた。陰になった彼女の顔色がかすかに青白く見える。


どう言う意味ですか、と尋ねる前に彼女が再び口を開いた。

「だから、私は一人とは付き合えない。あなたも、あの人もとてもいい人だけれど・・・、どちらかは選べないの」


 ひとりじゃ駄目なのよ。


 後半のさくらさんの声は聞き取れないくらい弱々しくなった。


 一人では駄目。


 僕はゆっくり頭の中を整理した。


整理して、僕は自分が驚くほど早くその意味を理解した。


「・・・曜にもそう言ったんですか」

 曜は昨日さくらさんに告白していた筈だ。負けないからな、と言った彼の強気な笑顔を思い出す。緊張した後ろ姿も。その後の事は何も聞いていなかった。


 さくらさんは微かに頷いた。

「理解できないって言われちゃったわ。・・・そうでしょうね。そうだと思う。だけど私はずっとこうしてきたから。こういう方法じゃないと駄目だから。・・・でもあなた達は若いから、ちゃんとした恋愛をした方がいいわ」


 正しい恋愛を、と彼女は付け足した。何となく、寂しそうに。


 僕は少し考えて、言った。遠くで蝉の鳴く声がする。

「二人なら・・・僕と曜なら、いいんですよね」


 さくらさんは疑わしげに僕を見上げた。

「曜に聞いてみます。彼がいいのなら問題ないんですよね。__僕は構わないから」



 何故だか僕は理解したのだ。


 一人と付き合えないと言う事は、さくらさんは一人以上となら問題はないと言う事を。


 そんな事僕は今まで経験した事がなかったし、考えてみた事もなかった。

それでも不思議と抵抗感はなかった。僕以外に彼女と付き合う人が赤の他人だったなら、あったかもしれないけれど。


でも、相手が曜なら。僕のよく知っている彼なら。


 それに、

「ほんとうに、いいの」


 何度も同じ台詞を繰り返す、彼女の、さくらさんの悲しそうな顔を、これ以上は見たくなかったのだ。 

「俺、変わった? 」

「変わったよな、絶対」

 俺は隣を歩く幼馴染を見た。


聖司は、どこが?何が?と言う感じで首を傾げる。張本人のくせに。


ため息をつきつつ、空に向かってうんと伸びをする。寒いと体も、心も縮こまってしまう気がして。


一週間は長い。特に月曜日は。昨日さくらに会ったばかりなのに、もう次の日曜日が待ち遠しくなっている。できることなら、毎日毎日会っていたい。せめて休日は土曜も日曜もずっと一緒にいたい。


普通の恋人同士のように。


ふつうの。

右を歩く聖司の気配を感じる。


変わった、よな。


 自分がこんな恋愛に納得するなんて思いもよらなかったけど。

否、今も納得はしていないのだろうけれど。


 ぽつりとつぶやく。


「自分が何番目の彼氏かなんて分からないけど」

仕方ないよな。


 好きになっちゃったんだから。


 これでさくらを繋ぎ止める事ができるのなら。

 情けないけれど。


恋をして人は成長すると言うけれど。

恋をしている時の方が人間は情けなくなる。

そう思う。


 それに、どうして彼女を責められるだろう。

さくらは誠実なのだ。誰に対しても。だから一人を深く愛せないのだ。


最初は分からなかった。分かるわけがないと思った。実際、付き合い始めて五ヶ月たった今も納得はできていない。

けれど、だんだんと彼女の気持ちを、彼女自身を理解してあげたいと思い始めている。


聖司は分かっていたと言うのだろうか。


だからこいつはすぐに了承したのだろうか。


こんな恋愛の形を。


 再び黙々と歩く聖司を見た。


彼は何もかもが薄い。

髪の色も瞳の色も肌の色も。人形のように端整で目立つ外見なのに、何故か存在感も薄いのだ。そうしてそれを一向に気にもしていない。


雰囲気が同じだ。


__彼女と。


 思わずぽかりと彼の頭をなぐった。

聖司は、な、何、ときょとんとこちらを見ている。

「お前のどこがいいんだろうな。雰囲気が華奢なだけじゃないか」


 何となく腹立たしくなって、何か言いかけた彼を無視して校舎へと急いだ。吐く息が白い。白い空気。


 空気が、似ているんだ。二人とも。



 さくらさんが住んでいるマンションは、僕や曜が住んでいる所から自転車で十五分の所にある。


僕はけだるい空の下、車庫に自転車を止めた。体は自転車をこいできた直後で熱いくらいなのに、肌は痛いほど冷たかった。


「ポトスに水、やっていい? 」


 さくらさんの部屋に入るなり、僕は如雨露に水をくみ、ポトスに水をちょろちょろとやった。部屋に五つほどあるポトスやライムの水やりは彼女の部屋で最初にする、僕の欠かせない儀式になっている。

青々とした葉をそっとなでてみる。柔らかく、つるりとした感触。頑丈なつる。観葉植物は彼女の部屋と相性が良いらしく、どれもすくすくと育っている。


「聖司君、水やり上手いのね」僕の様子を傍で見ていたさくらさんが言う。

「そう? 」

 水やりに上手いも下手もあるの、と笑って聞き返すと、さくらさんは全然違う、と真剣な顔で言った。

「聖司君がやった後はよく育つのよ。本当に」


 しゅわしゅわ、と台所からやかんの沸騰した音がした。立ち上がろうとすると、さくらさんは、いいわ、水やりやっててちょうだい、と台所へ歩いて行く。僕は水やりを続けながら、ふと思い出した。


「あ。一つ教えてもらおうと思ってたんだ」

 何、と台所からさくらさんの声が返ってくる。


「前、曜が変な事言ってた」


 言われた事をさくらさんに話すと、彼女は楽しそうに笑った。

「曜も上手い事言うのね」

「雰囲気が華奢って、どういう意味」

「そのままの意味よ」

 僕は首をひねった。さくらさんはまだくすくす笑っている。

「ぴったりよ、聖司君。言われた事ない? 」

「さあ。ずっと男子校だし」

「それは関係ないんじゃない」


 しばらく笑っていたさくらさんは、ふと何かを思い出したかのように真顔になった。


曜、曜にね、と彼女は続ける。

「やっぱり分からないと言われたわ」


 僕はポトスから目を離し、彼女を見た。

曜の問いの意味は、聞かなくても分かった。

 さくらさんの言葉が思い出される。


 一人を深く愛する事ができない人。


「曜の気持ちはよく分かるの。聖司君達の歳の頃は・・・信じていたと思うから」


永遠の愛と言う物を。


さくらさんは台所のテーブルに軽く身をもたれかけた。視線は僕を通り越して、どこか、遠くを見つめている。

「いつ頃だったかな、二十歳を過ぎた辺りからかしら。考えが変わったのって。それまではね、一対一の付き合いをしていたの。でも、ある日当時の恋人に、他にも彼女がいるって分かったのよ。その時、何故か嫉妬心は全く起こらなかった。裏切られたって悲しみもなくって」

「逆にすごくね、」


彼女はここで少し沈黙した。


「・・・すごく安心したのよ。ああ、この人は、私だけを見ていないって。私に何かあっても、生きていかれるって。・・・それがきっかけ」

 

「聖司君も、変だと思ってるでしょ」

 さくらさんは呟いた。


彼女は今三十一歳だと聞いた。

曜が教えてくれた。「絶対怒ると思ったけど」聞いてみたらあっさり教えてくれたそうだ。

元々年齢にはこだわっていないのかもしれない。他人に対しても、自分に対しても。


 さくらさんは静かに続ける。

「・・・でもね、一人に夢中になるのが怖くて。自分が無くなっちゃうのが。恋に夢中になるなんて、その人がいなくなったらどうするのかしら。でも、相手が一人じゃなかったら、そう夢中にもならないでしょう。安心できるの。安心。今までの人もね、恋人は自分だけじゃないって聞いたら、逆に安心してたわ。私はとても幸せだと思う。一人を見ていける人も、それはそれで幸せだと思う。私には当てはまらないけれど・・・変よね、やっぱり」

そう言い終わると、彼女は深呼吸した。全身をまっさらにするかのように。宣告を待つ人のように。


僕は少し考えて、言った。


「そうは思わないけど」


 彼女は珍しく目を丸くした。元々喜怒哀楽の表現は激しくない。


「そんな事言う人初めてだわ。皆言うのよ。そんなの恋じゃないって」

「それも恋だと思う。人それぞれだから」


 さくらさんはしばらく僕の顔を見つめると、

ありがとう、と静かに言った。


身を起こし、紅茶を入れ始める彼女を何となく眺める。


情熱的な恋は苦手だ。早急に相手を求める分、冷める事も早いような気がして。 


ゆっくり、ゆっくり恋をしていきたいと思う。

そうすれば、その分その恋が長続きしそうに思えて。

どうせいつかこの思いが消えるなら、少しでもここに留めておきたいと思う。

破滅までのその日を、長引かせておきたいと思う。


ただ、それだけの事だ。

僕にとって恋愛は。


自分が無くなる事が怖いなんて、考えた事もなかったけど。


それほど恋に夢中になった事実も、僕にはない事に気付く。


恋は、人それぞれだから。



「どこを見ているの」

 気が付くと、さくらさんがティーポットを持って傍らに立っていた。


 僕はさくらさんを見ているようで、実は見ていなかった。


彼女を通り越して奥にある白い部屋の壁を、窓辺に飾られた可憐な花を、窓からこぼれる木漏れ日を、窓の向こう、彼女の目にも毎日映っているだろう外の世界を、


彼女を取り巻く世界を、見ていた。


「窓を・・・」


 少し考えた。


「・・・窓や、外の世界を・・・見てた」

 空気を。


その時、さくらさんはいつもの整った笑顔ではなく、


初めて心から嬉しそうな顔をして、

「私もよ」

 と言った。


 

さくらと寝る時は、さくらが欲しくて、彼女の全てを独り占めしたくて、俺は焦ってしまうのだと思う。


 彼女にも俺だけを見て欲しくて、そうしていつも後悔する。

さくらはいつも俺を静かに受け入れてくれる。そしてただ、それだけだ。


「シャワー空いたよ」


 俺はベッドに戻ると、そっとさくらに声をかけた。ええ、と彼女は低い声で答えると、ゆるりとベッドを出て行く。彼女の細い裸を見ながら、俺は小さくため息をつく。


 俺はただ、ひとつになりたいだけなのに。


 さくらは、いつもふたつでいる事の違いを確認しているようで。

 自信がなくなるのだ。


 良かったか、なんて陳腐な事は聞けないし、大丈夫か、なんて聞いたら、それはどちらにとっての質問なのか俺は自信がなくなる。


 だから終わってからはいつも、俺はただ黙々とシャワーを浴び、無言でベッドに入って眠る事しかできない。


 さくらはベッドから微笑んで言う。

いつでも。

清潔な笑顔で。


「私は大丈夫よ、大丈夫」


 こんな時の彼女は世界の全てを見透かしているように見え、俺はただ、どうしていいのか分からなくなる。


 いつも冷静なさくらは、男と寝るのは好きではないのではないか、と思うことがある。

ピルをしっかり飲んでいるのも、分かっていても何かあてつけのように見えてしまう。


一度聞いてみた事がある。


「さくら、何で飲むの? 俺ちゃんとつけてるよ」

「責任だからよ」

 事も無げに言う。


 責任。

誰への? 俺への? 自分への?

それとも未だ見ぬ__


「俺の子供、そんなに欲しくない? 」

 冗談で言ったつもりだったのに、何故だか傷ついた気分になった。


 さくらは俺をまじまじと見た。

「俺達の子供、でしょ。__想像できない物は嫌なの。何でもね」


 そう言われて想像してみた。


 少し歳を取った自分と、さくらが並んで歩いている。真ん中には可愛い女の子。俺とさくらの子だもん、絶対可愛い。三人、手をつないで笑顔で横一列に並んでいる。


 何故だろう。

一人一人はしっかり想像できるのに、三人一緒になると、何か、しっくりこない。さくらが母親だなんて。


 ふと視線に気付いて顔を挙げ、彼女に向かって首を横に振って見せた。


 さくらは、

「でしょう」

と何だか勝ち誇ったように微笑んだ。


 気が付くとさくらがシャワーから戻って来ていた。パジャマをしっかり着込み、寒い寒い、と言いながら俺の隣に潜り込む。


「・・・さくら」

「うん? 」

 彼女は瞳を閉じたまま答える。


「・・・俺と寝るの嫌い? 」

 さくらは静かに瞳を開き、もぞもぞと動いて俺の方を見た。

「本当に嫌なら断ってるわよ、最初から」

 彼女は当然と言う顔をした。

「でも、いつも誘うのは俺からだし」

「曜がしたいと思う時に、私も同じ気持ちなだけ。それだけよ」

 そうして彼女は、大丈夫よ、と微笑み、俺は絶望的に悲しくなった。 


 聖司はこんなに打ちのめされているのだろうか。


 大体あいつはさくらと寝たりするのだろうか。

 淡白そうに見えるけれど、実際の所全く想像がつかない。男同士でよくやる、女性経験を話す時もそうだった。


 聖司に聞こうとしても、困ったように笑うだけで、何も要領を得ない。

その時の彼は巨大な壁になる。高くて厚い、まっさらな壁。


 だから聞き出そうとしても無駄だった。

今でもそうだ。


 いつも優しいあいつが壁になった。


 だから余計彼が、


 怖いのだ。

 

 俺は布団をかぶり、さくらに背を向けた。背中に感じる彼女の存在が、なんだか遠い気がした。


 一度裸になると心まで弱くなるのか。


 さくらがこんな事で俺と聖司を比べてるとは思えない。

 けれど、ただ、


 俺だけを見て欲しいんだ。



リビングとは別にあるさくらさんの仕事部屋には、机と、資料でいっぱいの高い本棚がある。

本棚の中には人物のポーズ集や花の写真集、美術書等五万と並んでいた。机の上や周りの壁には人物のラフスケッチがいくつも貼ったり置かれたりしている。


さくらさんはイラストレーターなのだ。人物と花を組み合わせて描くのが得意らしい。


彼女の部屋兼仕事場には初めて入った。


いつもと違う雰囲気に少し緊張する。

さくらさんは何でも見てくれていいのよ、と言うが、そう言われて作品に触れるわけにもいかず、僕は手持ち無沙汰に机の上の様々な種類の筆や、色とりどりの色鉛筆を眺めていた。

さくらさんはそんな僕をしばらく楽しそうに見つめ、言った。


「聖司君、モデルになってくれる? 」


 返事をするのにしばらく時間がかかった。


「・・・何をすればいいの」

「大体、体の線がわかったらいいんだけど・・・。大丈夫よ、ヌードじゃないから」

 さくらさんは僕の顔を見てふふふ、と笑う。

「でも、やっぱり上だけ脱いでもらおうかしら。寒くて悪いけど」


「モデルなら、曜の方が様になるよ」と言おうとして思った。

 さくらさんは、彼ならもう描いているだろう。


サッカーで鍛えた、日に焼けた、細身だが筋肉質の体。彼なら綺麗なモデルになるだろうから。


 僕はセーターと、その下に着ていたTシャツを脱いだ。

暖房が効いているとは言え、上半身裸ではさすがに肌寒い。さくらさんが近くにファンヒーターを置いてくれたので、早速それに近寄る。

体が温まると、さくらさんの注文どおり、彼女に背を向けて床に座り、少し体をひねって彼女の方を振り向いた。


「その姿勢でいてね」

 さくらさんは上機嫌で鉛筆をスケッチ帳の上に走らせていく。


「聖司君、綺麗だから、描き甲斐があるわ」


 僕を見る彼女の目が、真剣で強い仕事の眼になっていて、少し驚いた。社会と接点がある事に。


彼女ならいろんな恋人がいて、その中にはきっと裕福な人もいて、何もしなくても悠々と暮らせそうな気がする。そんな感じが似合う。


でも、彼女は許さないのだろう。与えられ続けることに。


社会を、世界を知らない人だと思っていた。


そして、それでいいと思っていた。

世界は、曜や僕や今までの、そしてこれからの恋人達が運んでくる。

彼女は、僕達の次の恋人には、きっと僕達とは違う世界を持った人を選ぶだろうから。


 さくらさんに他にも恋人がいるかなんて分からない。聞いた事もない。


ただ、今は僕と曜だけのような気がする。何となく。


 さくらさんが描く手を休めずに聞いた。

「聖司君は、遊園地って行くの」


「・・・あんまり」

「やっぱりね。曜と行くのよ。久しぶりだわ」

思わず笑ってしまった。さくらさんが尋ねる。

「何、どうしたの」

「曜らしいなって」

 そうね、とさくらさんも笑った。

「確かに彼らしいわよね」


 僕と曜はさくらさんの話はしない。


彼女自身の事や、彼女に関わる全ての事一切話さないし、お互い聞きもしない。


曜が嫌がるのだ。


お互いさくらさんと付き合っているのに、彼はまるでそんな事を全く知らないかのように振舞い、僕は時々混乱する。


さくらさんの事で、曜はいつも僕に対してライバル心をむき出しにするから。

 僕はそれに戸惑ったり、時には羨ましくなったりもする。喜怒哀楽の激しい曜。


 曜はいい奴だ。

 本当にそう思う。

 難しい事は何も言わないのに、頭が悪いとは思えない。曜の言葉は素直に胸に響く。


 だから、さくらさんは幸せだと思う。曜と付き合っていて。


 曜と僕は見る物も好きな物も好きな事も全部が違う。


 曜は遊園地にさくらさんを連れて行く。

さくらさんはきっと、今よりたくさん笑う。たくさんしゃべる。はしゃぎまわるかもしれない。そこには僕の知らないさくらさんがたくさんいる。


 僕は楽しそうな彼女を思い描いて幸せになる。 


 静かな部屋の中で、壁時計の音と、さくらさんの鉛筆を動かす音を聞きながら、僕はとても満ち足りた気分になっていた。



休日前のクラスは好きだ。皆が何となくそわそわしてる。教室内ではこれから休みだと言う楽しい予感に浮き立って、誰もが幸福そうに顔を輝かせている。友達との約束、カラオケの計画、例えバイトの予定であっても。


俺もそんな明るい雰囲気を心から楽しんでいた。


「曜」

 聖司がノートを持ってやって来た。数学の宿題用に貸してやった物だ。俺にノートを手渡しながら彼は笑った。

「嬉しそうだね」

「そうか? 」


 俺はできるだけそっけなく言った。つい笑みがこぼれそうになるのをこらえながら。さくらと初めて一緒に行く遊園地。


「きっと楽しいよ」

 何が、と尋ねた。聖司は完璧すぎる笑顔で答える。


「遊園地に行くんだろ」


 俺は思わず聖司を見上げた。

 聖人君子の微笑み。


 知ってたのか。

 なのに何で。


 笑ってられるんだよ。

 

 聖司はいつもそうだ。

 俺がさくらと、どこでどう過ごそうが嬉しそうな顔をする。良かったね、なんて空気を含ませて。

最初は負け惜しみかと思っていたが。

 

 さくらが俺を呼ぶ時は「曜」で、聖司は「聖司君」だと言う事や、祝日がある時は俺が聖司より先に予定を作ってさくらと一緒に過ごすという事や、その他もろもろのささやかな優越感がこいつの笑顔の前で全て崩れ去ってゆく。


 俺が思わず睨みつけると、聖司は困った顔をした。


「怒るなよ。聞いたんだよ、僕が」


 彼が、ぼくが、の部分をわざとゆっくりと言ったのは俺でも分かった。誰をかばっているのかも。


またこの感覚だ。

頭では分かっているのに、胸の奥がざわり、とする。


聖司は構わず話し続ける。とても楽しそうに。

「で、実は欲しいグッズがあって。買ってきて欲しいんだけど__」


 さくらに頼めよ、と言いかけて俺は口をつぐんだ。

 俺に、遠慮しているのか。


 俺がさくらと出かけるのに。

 お前じゃないのに。


 やっぱり駄目か、と彼は苦笑した。

「曜、わかったよ、もう聞かないから」


 何で笑ってられるんだよ。

 俺は、聖司、

 おまえのこともわからない。


 

 空は穏やかに晴れ、澄み渡っている。薄いさわやかな水色。

 冷たいけれど清清しい。


 気分が良くなって両手を後ろに組み、思い切り胸を反らす。背中がぎしぎし言っている。


「んー、気持ちいい」

 そのままの姿勢で首だけ後ろに回す。

「俺、晴れ男なんだ」

 少し後ろを歩いていたさくらがにっこりと微笑む。

「私もよ」


 俺はそれだけで、世界一の幸せ者になった気持ちになる。

「さくら、行こう」

 彼女の手を握り、少し強めに引っ張った。彼女の華奢で少し冷たい手の感触を右手にとらえながら、遊園地のゲートをくぐった。


 開園早々だと言うのに、園内には大勢の人で賑わっている。

 既に人垣が出来ているぬいぐるみのキャラクター達の横を、ふいと通り過ぎる。俺はもちろん、さくらも特に興味はないのだ。


 さくらは建物や大道芸人達やアトラクションをきょろきょろ見回している。

「さくら、ここ初めてだったっけ」

「他には行った事あるの」

彼女は形の良い眉を寄せて、少し考えた。

「・・・あるけど。かなり前に行ったきり。十年以上前は前かしら」

「へえ」

 と言いつつ、やっぱり、と思った。

 

 彼女と遊園地はどことなく雰囲気が違う。


例えば彼女の雰囲気は、雨、図書館、平日のカフェ、画材道具でいっぱいの仕事場。


 それに、

 と思いかけて頭を振る。振っても一旦思ったイメージは、脳裏に断片となってぐさりと残る。

 

 それに、彼女を連れ出す男達は、俺と聖司を除いて、


 もっと年上で金持ちで、

 遊園地な雰囲気の奴じゃないだろう。


「面白いわね、遊園地」


 さくらの言葉でふと我に返る。右手は彼女の手を硬く握り締めたままで。

 何で、と聞くと、彼女は本当に楽しそうに答えた。

「私が行かない所だもの」

 俺は笑って、行こう、と手を引っ張った。


 二月の遊園地は程よく空いていて快適だった。


俺達はどんどん歩いた。どんどん観た。どんどん乗った。一緒に驚いて、興奮して、笑い合った。

「さくら! さくら、さくら!! 」

 俺はさくらの手を強く引っ張った。

「ほら、あそこ開いたよ、急がないと」


 彼女の名前を何度も呼ぶ。

さくらがそこにいる事を確かめるように。

呼ぶと彼女が俺の方を向く事を、どこにいても、何をしていても俺の方を向く事を確かめる為に。

彼女が困ったように笑う。

「曜といると目立つわ」


 確かに元々目立つ方、だと思う。


例えば雑踏の中で女性とすれ違う時、時々俺を見る女性の視線を感じていたし、電車の中で偶然目が合った女子中、高生が黄色い声で騒ぐのも気が付いていた。


 前はそういう視線を気にしていた。

でも今は、そんな事どうでもいい。ただ、さくらだけが俺を見てくれていたらいい。


 彼女が俺といる時は、俺だけを見て欲しくて、オーバーリアクション気味になってしまう。

俺はいつもよりよくしゃべって、よく笑って、よくおどけて、よく走る(ここは遊園地だ)。

そうしてさくらが笑うと、俺は体が溶ける様な安心を覚える。そうして、安心、する筈なのに、もう安堵は次の瞬間不安に押しつぶされそうになる。


 聖司といる時も、彼女はこんなに笑っているのだろうか。

こんな表情を見せるのだろうか。


 ふう、と俺はため息をついた。

 せっかくさくらといるのに。


「曜、ちょっと待って、さすが若いわね、こっちは辛いわ」


 さくらが軽く息を弾ませて俺を引っ張ったので、俺は駆け出しそうになった足を止めた。

「ちょっと休もうか」

 

 すぐ傍にあったワゴンでアイスティーを二つ買い、空いていたチェアーに座った。目の前の通りを人々が楽しそうに歩いて行く。ほとんどがカップルだ。


「・・・さくら」

「うん? 」

「遊園地で良かったかな。楽しい? 」

 俺といて。

「もちろんよ。久しぶりだから、はしゃぎすぎてちょっとばててるけど」

 

 笑顔で息を切らせている彼女を、俺はぼんやりと見つめた。


 何故だろう。

 会えば会うほどさくらを好きになる。

 そして、会えば会うほど苦しくなってゆく。


 二人でいても、いつももう一つの影が見え隠れする。

 二人でいる時は聖司の話は絶対しない。


偶然彼の話が出ても無視するか、すぐ話題を変える。俺は意図的に、さくらはきっと俺に気を使って。


さくらの部屋には恋人の写真や誰かにもらったプレゼントらしき物も置いていないから、俺が行く時はいつも他に恋人がいた痕跡は見つからない。なのに、そこかしこに俺は幽霊のように聖司の気配を感じている。


 全く痕跡はないのに。

俺が行く時は、この部屋は俺だけを迎えてくれている事がわかっているのに、ソファに座るとここに聖司が座っているのか気になり、紅茶を飲むと聖司も同じ紅茶を飲んだか気になるのだ。


さくらと話す時も、彼は笑うのだろうか。いつも俺に見せるような清潔な彼の笑顔を。


駄目だ。

 二人でいるのに、いつも俺達は三人でいる。


三人の気配がある。


 園内は陽気な音楽が流れ続けていた。



「聖司君、はい、遊園地のお土産」


 僕がポトスに水をやっていると、さくらさんがプラスチック製の可愛い箱を手渡した。見ると、中にポップコーンが入っている。


「キャラメルポップコーンって言ってね、美味しいのよ、食べてみて」

ありがとう、と僕は如雨露を脇に置き、ピンク色の箱を開けた。中からふわりと甘い香りが広がる。こげ茶色のポップコーンを一つ取って、口に入れた。ぽりぽりとしばらくかじる。


「・・・すごい。ポップコーンが甘い」

「でしょう? 私も最初びっくりしたわ。でもこれが、慣れると結構美味しいのよ。止まらなくなっちゃうの」

「こんなの売ってるんだ」

「そうなの。最近の遊園地って楽しいのね、いろんな珍しい食べ物を売ってたり、乗り物も楽しかったし、あんなに面白いとは思わなかったわ」

 楽しそうに話すさくらさんを見て、僕もにっこりと微笑んだ。こちらも幸福な気持ちに満たされながら。

「曜は、はしゃいでた? あいつ遊園地に行くとテンション高くなるから」


 そう聞いた瞬間、何か不思議な間があった。さくらさんは、え、曜? と不思議な顔をした、気がした。

まるで、今まで曜の事を忘れていたような。


どう不思議なのかはよく分からないけれど、その奇妙な感覚は僕の中に残った。


 でもそれもほんの一瞬の事で、さくらさんはすぐいつもの穏やかな笑顔に戻った。


「ええ、とても。楽しかったわよ。でも、彼は目立つから、周りの女の子達の視線がちょっと痛かったわ」

 だろうね、と僕もあいずちを打った。

「曜はもてるから」

 やっぱりね、と今度はさくらさんがもっともらしく頷いた。

 その顔があまりに真剣だったので、僕は笑いながら、

「さくらさんも、もてるよね」

 と言った。

「そうなの? 」


 彼女は先程よりも益々真剣に考え込んだ。

世間の‘もてる’と言われる標準と、自分の場合がどうなのか考えているに違いない。


でも、きっと分からない。もともと‘世間’を気にしない人だから。

案の定、彼女は考え込んでいる。僕は言った。


「結婚したらいいのに」


 彼女は驚いた顔をし、僕を見つめた。

「大切にしてくれるよ、すごく」

「・・・そんな事恋人に言われるのって初めてね」


 そうかな、と僕はポトスの水遣りを再開しながら答えた。


 そんなものかな。

 でも。

 絶対幸せにしてくれるだろう。僕は確信している。


 自分になびかない、いい女なんて。

 結婚したら情熱的に愛してくれるに違いない。

__女が自分を愛するようになるまで。


 ほとんどの男はそんな生き物だから。


そう言うと、さくらさんは、なるほどね、と笑った。

「でも聖司君はそんな人じゃないでしょう。そういうタイプには見えないけど」


 僕は思わず苦笑した。

 確かにそんな冷めるまでの情熱は持っていないけれど__。


 信じてもいない。


 永遠の愛なんて。


 だから、曜が羨ましいと思う。

 何度恋に破れようと、信じ続けられる曜が。


恋なんて一時の錯覚だと思う。

自分が相手を愛していると言う事も、相手が自分を愛してると言う事も、全てひと時の錯覚。

日常と言う現実の中で、時に錯覚を見られるから、人生は楽しいのだと思う。しかし錯覚だから永遠に見る事はできない。


 それでも、曜は錯覚を見続けられる事ができる稀有な人間なのだ。

 時々思う。


 さくらさんと僕が家族だったら良かった。


親子でも、兄弟でもいい。家族と言うだけで、産まれた時から愛を獲得している。一緒にいても同じ物を見て同じ事を感じてもそれが全て許される愛。永遠の絆がある事が許される愛。

僕もそんな愛が欲しかった。


 そうしたら、恋をする羽目にならなくてすんだのに。


 恋をする事は簡単だ。二人いたらできる。一人でもできる。


恋を続ける事が難しいのだ。


 ふと気付くと、さくらさんがじっとこちらを見ていた。


 何、と思わずどきりとする。

「聖司君、悪いけどまたモデルになってくれない? 以前描いたのは気に入らないのよ、何となく」

 いいよ、それぐらい、と僕はほっとしながら笑い返した。

 


 さくらさんのアパートを出てから、僕はようやく先程の彼女の表情が不思議に見えた訳を悟った。


 何故そう見えたのかは分からない。

ただ、あの時の彼女は、自分が相手に話していた重要な事を断ち切られたような、


傷ついた顔に見えたんだ。


 今日は部屋でお茶をしましょう、とさくらが言うので、俺は彼女が紅茶を用意してくれている間、彼女の仕事場で小さな丸テーブルをセットしていた。


 準備が済んで暇になると、何を見てもいいと言っていたから、本棚から彼女のスケッチ帳を何冊か取り出した。


ページを開くと鮮やかな花が描かれている。花、花、花、町の野良猫。行き来する通行人。ページを繰る内に、途中で手が止まった。


・・・聖司。


上半身裸で、こちらを振り向く聖司を皮切りに、五,六枚彼のスケッチがあった。


初めてここで、さくらの部屋で、聖司の存在を感じた。彼女の世界で。

心がざわめきたつ。


ふとさくらが背後に立っているのに気付き、何故だか俺は慌てた。慌てながらも、必死に平静を装う。

「・・・聖司、描いたんだ」

ええ、と言って、さくらは探るように俺を見る。

「曜は、駄目だって言ったでしょう」

「・・・まあ、そうだけど」

 

 まあ、そうだけど。


 ひたすらじっとしているなんて俺には信じられない。何の目的もなく。話しながらならまだできそうだと思ったが、彼女はそれも駄目だと言うのだ。


「聖司向きだよな」

 いつまでもぼーっとしていても平気な、あいつ向きの。

 一枚、二枚、と絵をめくった。

 横を向いている聖司、上を向いている聖司。後ろ。こちらを向いている聖司。


 整った顔。長い手足。

 これはモデル向きだよな、見た目も体質的にも。

 そう自分で思ってむっとする。

 外見だったら俺だって負けてないんだ。ただ、違いだよな、個性の。


 だけど本当にあいつらしい、呆けた表情だな。こんな顔じゃ見た目が良くてもすぐモデル廃業だ。


 そう俺は少し笑ったが__心のざわめきはどうしても静まってくれない。それに、他にも何かが引っかかった。


「やけに多いんだな」


 何が、と後ろから覗いていたさくらが言う。

「聖司の絵」

「ええ、仕事で使おうと思って。高校生の男の子なんか、そうそう描けるものじゃないもの」

「でも、記録は残さないんだろ」

さくらは、ええ、仕事が終わったら処分するわ、とさらりと答えた。


 彼女は誰と付き合う時でも記録に残る事を嫌う。写真はもちろん、手紙やメールでさえもこまめに消す。


 だから彼女の部屋には見事に男の痕跡がない。

部屋にある物から彼女のアクセサリーや服まで男にもらった的な趣味の物は一切ない。

 昔、又は今の恋人を知られたくないから、と言う事ではなく、彼女が恋愛に関しては‘残る事’を信じていないから、らしい。


「どうせ、いずれは終わってしまうのにね」


 以前、そう言った彼女に、俺は絶望的に悲しくなりながら反論した。

「何だってそうだろう」

 彼女は、儚げに笑い、

「恋愛が一番早いのよ」

 と言った。


 何故だろう。

 俺を信じて、と言いたくなる。

 今までの男が言ったのかもしれない。そしてそいつは去って行ったのかもしれないけれど。

 俺を信じて、と。


 

 駄目だ。


何かがすっきりしない。体の中を毒が巡るように、精神がとげとげしくなっていく。

どうしたの、と言うさくらの落ち着いた言葉に、俺は思わずかっとなった。


「でも__、聖司を描くくらいだったら!! 」


 後が続かなかった。

 聖司を、描くくらいなら。


 俺を。


 彼女は、寂しそうな顔をして静かに告げた。

「別に、隠していたわけじゃないわ。聞かれなかったから、答えなかっただけ」


 そう。俺は聞きたくなかったのだ。さくらの口から、聖司の事なんて__。


だから彼女といる時は聖司の話はした事がない。さくらからも彼の話をした事はない。


 彼女はいつも潔い。聖司がいた痕跡を隠しはしない。ただ自ら話さないだけなのだ。


 さくらはいつも正しい。


 正しくないのは__


「ごめん」

 俺は傍にいるさくらを抱き寄せた。


「ごめん」

華奢な体を強く、強く抱きしめてゆく。彼女の頭に自分の顔を押し付けて。彼女の柔らかな細い髪は甘い匂いがした。


 曜、ちょっと痛いわ。さくらがつぶやく。俺は力を緩めないまま、


「俺・・・」

 つい言いかけて、辞めた。


これは言ってはいけないのだ。言えばこの関係は破綻する。


 さくらは腕の中でもぞもぞと動いた。探るように俺の顔を見上げる。彼女に分からないようにそっとため息をついた。


「俺、・・・好きなんだ」

うん、とさくらが腕の中で頷く気配がした。

「好きなんだ」

 うん、私もよ。さくらが優しく言うので、俺は危うく涙が出そうになった。


 違う。

 きっと、さくらと俺の‘好き’は違う。


 でも。例えそうだとしても。

 この思いが、


さくらの、俺の、二人の、思いが錯覚だとしても。


 先程言いかけた言葉を改めて飲み込む。


 俺を見ていて。頼むから。

俺といる時は聖司の事は考えないで。

俺だけを見ていて欲しいんだ。


 何で、何でこんなに寂しいのだろう。二人でいるのに。

ここには二人しかいないのに。

何故寂しいのだろう。


 しばらくして、ようやく俺はさくらから身を離した。

「ごめん」

 いいのよ、とさくらは微笑む。


 沈黙と気まずさから抜け出す為、俺はぎこちなく、開いたままのスケッチ帳をめくった。

そして俺はその時、ようやくその絵の違和感に気付いた。


聖司は。彼の視線は。


どのスケッチも、全くさくらの方を見てはいなかった。


もし俺がさくらにスケッチしてもらったら、絶対彼女の方を見る。

嬉しくて。真剣に自分を見る彼女の視線を捕らえたくて。


どこを、見ていたのだろう。あいつは。

思わず笑みがこぼれた。


「さくら、これ見た?聖司、ぼけた顔して、どこ見てるんだろうな」


すると、彼女はたった今それに気が付いたかのように、食い入るようにスケッチを眺めた。真剣な顔でページをめくり、やがてぽつりと


「・・・そうね」

 とつぶやいた。



 

「また、描いてもいいかしら」

「・・・うん」

 最近さくらさんは僕をスケッチばかりしている。


 休日はおろか、たまに平日、学校帰りに寄った時も彼女は僕を描くようになった。どうしても描いた絵が気に入らないらしい。


彼女の部屋にいる間ずっと、僕はモデルになり、彼女は描いた。一時間も、二時間も。何枚も、何枚も。


その間。スケッチをしている間に見せる彼女の真剣な瞳を僕はどうしていいかわからない。


描いている間、彼女はほとんど僕を見ていた。スケッチとはそういう物なのかもしれないが、ほとんどスケッチ帳を見ずに、手を動かしている様は何だか不思議に思えた。


 僕を見ている。

 真剣な表情で、僕を見ている。


 時々視線を合わせると、その狂おしいくらいの瞳の強さに、僕は思わず目を伏せた。


 僕の全身に、びりびりするほど彼女の視線を感じる。


 さくらさんはこんな風に僕を見なかった。


 僕達は、僕達の恋は。

お互いを見るのではなく。

 同じ方向を見ていたのに。


 ある予感がした。


「さくらさん」


 僕は、黙々と鉛筆を走らせる彼女に声をかけた。

「何? 」

 彼女の手は動いたままだ。

「曜は描かないの」

「聞いてみたけど、やっぱり動かない事は苦手らしいわ」

「曜は綺麗だよ」

 しゃっ、しゃっと言う鉛筆の音。

「知ってるよね」

 スケッチを走る、彼女の手の無駄のない動き。


「曜を、描いてほしい」


 彼女の手が止まった。


 さくらさんはゆるゆると顔を上げて僕を見た。


「さくらさんがどう描くか、見てみたいな」

「・・・難しいわね」


 どちらが難しいのか答えないまま、さくらさんは、ありがとう、遅くなっちゃったわね、今日はこれで、とスケッチ帳を閉じた。

 

 彼女のアパートを出る時に、

「聖司君、これ」

 さくらさんは小さな包みを差し出した。淡いピンク色のふわふわした紙で綺麗にラッピングされている。

「ありがとう」

 今日はバレンタインデーだった。

「曜も喜ぶと思う。意外に甘いの好きだから」


「曜の分はないわ」

 

 一瞬沈黙した。

「何で」

 さくらさんは視線を逸らして答える。

「・・・バレンタインデーに会うのは聖司君だったから。遅くなってからだったら曜もがっかりすると思って」

「曜はそこまで神経質じゃないよ。いいよ、じゃあ僕の半分あげるから」

 さくらさんが何か言いかけるのを、僕は遮った。

「・・・曜も彼氏だよね」


 何だろう。僕は今、とても残酷な気分になっている。

 

 さくらさんは静かに答えた。

「・・・そうね」


 僕はいつも全ての事に何となく流されてきた。

 なのに、恋に関しては何故こんなに強気になれるのだろう。

 受け取ってしまえばさくらさんを安心できるのに。


 彼女を幸せにしてあげられるのに。

 それでも心の声が僕に警告する。


 駄目だ。ここで受け取ったら。


 愛しているのなら。


 さくらさんの事を、本当に愛しているのなら。


 受け取っては。


 そうね、そうよね、とさくらさんは髪をかきあげ、努めて明るい顔で言った。笑顔がゆがんでいる。

「じゃあこれ、曜に渡すわ。後から曜にもらって」


 その瞬間、僕はさくらさんが曜にも渡さないだろう事が分かった、きっと、誰にも。


 ああ、音が聞こえる、からからと。


 分かっていたけれど、いつかは、と。

 だから僕はゆっくりと歩んできたのに。


 あなたも同じ種類の人間だと思っていたのに。

 どうして、さくらさん。


 音が聞こえる。


 破滅の音が。



 それからずっと、仕事を理由に僕も曜もさくらさんには会えなかった。

 そうしてカレンダーが三月に変わった頃、僕の携帯に彼女から連絡が入った。



 久々に入った彼女の部屋は相変わらずこざっぱりしていて清潔だった。さくらさんは、昨日まとまった仕事を片付けたの、さっぱりしたわ、と微笑んだ。


 柔らかな陽射しの中、僕と彼女はリビングでレモンティーを飲んだ。ぽつりぽつりと近況を話し合いながら。


 紅茶を飲み終わった頃、さくらさんが静かに告げた。


「やめに、しましょうか」


 何の事かすぐに分かった。


「曜とは、駄目なの」

「・・・・」

 それが答えだと、僕は理解した。

「じゃあ、やめ、なんだね」 

 さくらさんは僕を見つめて言った。穏やかな眼差しで。


「好き、じゃないんでしょう」

 私の事を。


少し考えた。


「好き・・・なんだと思う。さくらさんの事も」


 言ってから後悔した。  

 さくらさんはふんわりと笑った。


 儚げに。今にも消えてしまいそうに。


 正直な人間になれ、なんて嘘っぱちだ。僕は正直な事で周りをどんどん傷つけてゆく。

     

 さくらさんが口を開いた。

「やっぱり。私だけじゃないのね」


 私ね、と彼女はゆったりと話し始めた。低い、美しい声で。伏せ目がちに。

「私だけを見ない人を探していたの。永遠の愛なんて信じられない。一人だけを愛し続けるなんて。愛なんて、いつか終わりが来るでしょう。そっちの方がよっぽど純粋で正直だと思う。・・・だから、やっと夢が叶ったと思っていたのに。・・・しょうがないわよね」


 私だけを見ない人を好きになっちゃったんだから。


「ぜいたくすぎるわよね」


 実際好きになったら、私だけを見て欲しいなんて。


 そうして彼女は珍しくしまった、と言う顔をした。


「ごめん。・・・気にしないで」


 私はそんな事言える立場じゃないのに。

 そうして、儚げに微笑んで、言った。


「ありがとう」


 玄関を出ると、


「じゃあ」


と、至極あっさりとさくらさんは別れの言葉を口にした。


 僕もうん、と頷く。

 

 何故か悲しい気持ちは起きなかった。


 仕方がない、と思う。


 僕はさくらさんだけが好きではないのだ。


 三人のさくらさんが好きなのだ。


 さくらさんが。

 曜と付き合うさくらさんが。

 僕と一緒にいるさくらさんが。


僕はさくらさん自身が好きなのではなくて。


さくらさんを取り巻く世界を、空気を愛したのだ。


 アパートの扉が閉ざされる時、僕は一度だけ振り向いた。

 そこにはまださくらさんが立っていて、僕と目が合うと、

 

 彼女は笑った。


僕が今まで見た中で、一番幸せそうな笑顔だった。

 


 それから三日ほどたってから、曜が放課後に僕を近くの河原へと誘った。途中でハンバーガーを買い、二十分ほど歩いて、夕暮れの河原に辿り着いた。犬の散歩やジョギングしている人を避け、人気のない所に腰を下ろす。


曜は最初はいつもと変わらなかった。とりとめのない事を話し、よく食べ、よく笑った。


夕暮れも深まった頃、彼はぽつりと、聖司も聞いたよな、とつぶやいた。


「・・・さくらから別れてくれって言われた」

 僕は黙って頷いた。

「好きな奴ができたんだって」


 今度は頷かなかった。


 曜は静かに、何かに耐えるかのようにしゃべり続ける。


「申し訳ないから、これ以上は付き合えないって」

「俺はそれでも構わないって言ったんだ。でも・・・」

「今までだってそうだったじゃないか、何が駄目なんだよ、何が違うんだよ。お前はこれでいいのかよ」


 僕は、と少し詰まった。

「僕は・・・、彼女の好きなようにすれば、それで」


 俺は構わないのに、と曜は顔を伏せた。両肩が小さく震えている。


 僕は彼の肩を抱く事も、あいずちを打つ事も、何もできなくてただ隣に座っていた。

 時々、強い風がごう、と鳴る。

春がもう近くまでやって来ている。


 しばらくして曜がつぶやいた。


「好きな奴って知ってるか」


 僕は最初で最後の嘘をついた。



あれから一ヶ月がたった。


 曜は三月中ずっと、この世の終わりが来たかのように沈んでいたが、日増しに少しずつ元気になっていった。 四月になり、花見をしようか、と誘うと文句を言いながらもついてきた。


二人で桜並木を見ながらぶらぶらと歩く。休日はどこも花見客でいっぱいだ。


桜吹雪の中を歩く曜を横目で見る。彼は眼を細めて嬉しそうに桜を見ている。温かな陽射しの中で輝く曜。


 本当に曜が羨ましい。彼ならこれからどんな失恋をしても、又恋ができるだろう。


 錯覚を見続けられる曜。


 僕はこの陽だまりの中で何を思っているのだろう。

彼女の記憶はゆっくりと過ぎ去りつつも消える事はない。

見る事はないと思っていた僕も錯覚を見ているのだろうか。

未だ錯覚の中にいるのだろうか。


 曜がふと口を開いた。


「意外だと思って」


 僕は首を傾げた。

「お前も知らないなんてな。さくらの好きな奴」


 ああ、うん、と僕は頷いた。


 まあそんなもんかもな、と曜はのびをした。


「・・・よっぽど俺よりいい男なんだろうな」


 僕は苦笑した。


 前からセミロングの髪の女性が歩いて来た。風になびく柔らかなストレート。

 彼女が通り過ぎた時、僕と曜は何となく黙ってしまった。


 どうしているだろうか。


 きっと知らない場所でも彼女らしく、ふわりふわりと生活していそうな気がする。


 確かめたりなんかしていないけれど、不思議と確信していた。


 彼女はもうあのマンションにはいない。


 きっとどこか、別の地で絵を描いている事だろう。


 桜吹雪がざざ、と音を立てて飛び散る。


飛び散る桜の花びらを見ながら、曜が静かに言った。

「もう終わりだな」

「うん」


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