PHASE.19
かくて劇的な二日間が終わった。
その後、僕の日常はなんの断りもなく、スムーズなものに立ち戻った。まるで誰かがスイッチを切り替えたみたいだ。自力で前に進むしかなかったこの二日間から打って変わって、『全自動』になった感じで日々はまた、一定のスピードで進みだした。その中でもちろん、今までと違うのは僕のそばに亜里沙がいることだけ。それもたぶん元々あった空席に彼女は、ちゃっかりと座り込んだだけなのだ。
それほどに亜里沙は、なんの違和感もなく僕の日常の中に組み入れられたのだった。そもそもが僕の仕事が、勤務時間が長い、と言うのもある。ホテルのシフトは基本二交代制だが、もちろん変則的だ。
急遽、日勤から夜勤までスルーになるときもあるし、一度この流れに入ったら、中々家に帰ってくる時間が取りにくい。最初は、はっきり言って仕事している間は、亜里沙の存在をそっくり忘れていた。
家に帰ると、思わずびっくりしていたくらいである。
「いやごめん。一人暮らし長いから慣れてなくて」
「はあっ!?意味わかんないですよ!」
最初はきょとんとした顔をしていた亜里沙も、やがては積極的に僕をびっくりさせる方向へ踏み込んでいきやがった。
ある日、家に帰ると真っ暗であり、部屋に一本だけ非常用の懐中電灯が立っていた。不思議に思ってライトを消すと、キッチンの方で不思議な火花が。
「あちっ、あちっ、あれっ、ロウソク点かない…?」
亜里沙が火の出ないチャッカマンと、ロウソクを手に立っていたのである。
「ぬあに、やってんだ…?」
僕は尋ねたが、何となく察しがついた。最初は懐中電灯で脅かそうと思ったのだろうが、途中でロウソクを発見し、計画を変更。しかし肝心のロウソクはチャッカマンのガスが切れていて、点かなかったのだ。
「今のでよくそこまで分かりましたね、芦田さん!」
「そんなに暇なら、何かやりたいこと探せよ!」
これ、家でごろごろしている人が一度はされる説教である。部屋住みニートと化した亜里沙はしばらくぶーぶー文句を言い返してきたが、さすがにじっとしていられなくなったのか、産直スーパーの壁チラシから高原野菜農家の短期アルバイトを見つけてきてその日に働くことを決めたようだ。
またきつそうなのを選んだな、と思ってみていたが、元気が余っている亜里沙にはむしろ、ちょうどいい。
さらに言えば元々この図々しいばかりの適応性と、物怖じしない物言い、と言う才能で世渡りをしているようなやつだ。
はじめは朝五時起きの始業時間の早さに悲鳴を上げていたが、収穫作業から出荷、売り場の陳列に軽い接客まで、ちゃっちゃっ、とやって、たちまち溶け込んでしまった。
「芦田さん!今日はお煮しめとレタスがありますっ!」
すでにおすそ分けのもらい物まで。自由自在である。特に、売り物にならないレタスのお土産は、ほとんど処理に困るほどに毎日、到来した。レタスチャーハンと、バター醤油のパスタは、正直作りすぎて飽きたくらいだ。
「マヨネーズで、サラダ海老と炒め物作りましょうよ。この前、テレビで見たんで!」
「…ちゃんと、作り方メモったんだろうな?」
「イエッサー」
勢いよく敬礼する亜里沙だったが、こいつが細かい手順を憶えているはずがない。結局よく分からない醤油色の炒め物が出てきた。
「あれっ、マヨネーズは?」
「隠れてます。お醤油隠し味にしようと思ったら、どんどん主役になっちゃいました」
食べる前に僕は、念のため匂いを嗅いだ。熱を入れた醤油の香ばしい匂いはするが、まあ、しょっぱくて食えないと言うことはなさそうだ。
「じゃ、とりあえずビールで」
「突っ込みませんね」
「食ってからだよ」
とは言ったものの、特に突っ込むところのない味だ。これでむせるほど醤油使ってるなら別だが、さすがに亜里沙は農家のおばあちゃんが一生懸命作ったレタスをだめにしてまで、僕をいじるやつではない。
「マヨネーズは?」
「探してください。いると信じていれば、必ず会えます」
嘘つけ。
「入ってないだろ。ちょっとマヨ取って」
「だめです。隠れてるんですってば」
かくして大の大人が二人、そろいもそろってぱんぱんのマヨネーズのチューブをめぐってリビング中を駆け巡る。我に返ると毎日どっと疲れる気がするが、これが日常だった。
時折、不思議に思うくらいだ。あのたった二日間がまるでなかったかのように、僕たちは残る夏を過ごしている。まるで何年もそうして、同じ夏を越えてきたみたいに。
亜里沙はあの雨の晩、どこからか湧くようにして現れたのに。あのことはまるで夢のようだ。郵便受けの脇に、そっと置いてあるカールスバーグのビンだけが、今ではひっそりといたたまれなさそうに、かつて起こった事実を主張している。
いよいよ、八月も最終週だった。世間一般では、学生の夏休みが終わる。熱さと一緒にいつまでも続くと思えたこの繁忙期も終わりが見えてきて、宿泊業界も、ほっとひと息つきかけている頃だった。
亜里沙は東京へ戻ることは考えてないみたいだった。一度、夏休みの話をしたら、
「ふっ、ふーん、読みが甘いなあ。まー芦田さんはご存じないんでしょうけど、大学生の夏休みは八月三十一日が打ち止めじゃないんですよ?」
と、訳の分からないドヤ顔をされたので、それ以上聞く気にもなれなかったが、一応はことの決着をつけに秋口には東京へ戻る気でいるらしい。
「どうするかはまだ、決めてないですけど、大事なことですしね」
警察沙汰も、絡むことだ。亜里沙は親戚の司法関係の人にまず、相談してからにすると言う。僕が持ってきた佐伯のスマホには盗難届が出ているかと思ったが、どうやら佐伯は訴え出なかったらしく、その後はなんの展開もない。亜里沙のことを想っているならあれで、前非を悔いてくれればとは思うが。
「それより、芦田さんこそ、親友と暴力事件を起こしたばかりじゃないですか」
「ことを大げさにしようとしないでくれるかな」
今西との一件はもちろん、傷害事件にはなっていない。不倫が絡むことだから、こちらもデリケートな問題だが、これも風の噂すら漂ってこない。
(上手くやってるんだろう、あいつなら)
皮肉でも何でもなく、そう思っている。あんな喧嘩別れになってしまったが、本来、今西はどんな人とも、角を立てずに付き合っていくタイプなのだ。
静花のことはもう済んだし、いずれお互いに気持ちが落ち着けば話し直す機会もあるだろう。
僕は深く、考えていなかった。
猛暑を一段落させる雨が上がった、夕方のことだ。亜里沙を連れて僕は、買い出しに出ようと思った。車を出してこようと、寮の駐車場に回ったら、どこかで見たことのある車が停まっている。そこから、今西が降りてきたのだ。
「…連絡もしないで悪い」
なんだいきなり、と僕が言う前に今西は、うめくような声を出した。
「ちょっと出られないか。無理ならいい。…おれと話なんか、もうしたくないのは、分かってるから」
「ちょっと待ってろよ」
みなまで言わせずに僕は引き留めようとした。電話を取り出して、亜里沙に予定の中止を告げようと思った。でも遅かった。
「何してるんですか、芦田さん。…あっ、どうも…」
しびれを切らした亜里沙が、もうこっちへやってくるところだった。誰かは分からないまま今西はぎこちない会釈をしたが、亜里沙の方は顔だけは、知っているのだ。すぐに察したのが、もろに顔に出た。
「(小声)あたし、どうします?」
「部屋で待機」
「了解」
亜里沙は敬礼すると、今西の方には、形にならない社交辞令をむにゃむにゃ言って帰っていった。
「今のは?」
「どうでもいいだろ」
僕は硬い声で応えた。今西も興味はないながら一応聞いたのだろうが、ちょっとつっけんどんな調子になってしまった。冷たい言い方に今西は、ぐっときたみたいだった。僕も、もうそんなつもりじゃない。ちょっと気の毒な気がした。僕は口調を改めて、今西に呼びかけた。
「話したいことあるんだろ。とりあえず、その辺出ないか」




