PHASE.18
ただただ、無言の求めあいだった。
誰にも邪魔されずに、気のおもむくまま。キスで相手と求めあうなんて、どれくらい、していないだろう。もしかしたら、初めてのことかも知れない。こんなに丹念に、深く、激しく、静かに。ただ一人の女の子のことを大事に思うなんて、今までなかったのかも知れない。
気づけば、驚くほど長い時間、僕たちは夏の雨に閉じ込められていた気がした。路面から舞い上がった砂埃を洗い流して、雨音が遠ざかっていく。気まぐれな通り雨だった。やがてフロントガラスに、気が付いたようにまぶしい夕陽が射してきた。
「止みましたね」
長い沈黙を破ったのは、亜里沙だった。少し物憂そうに、目線を上げたが声色は、もとの通りに戻っていた。
「うち、帰るか」
「そうですね、帰りますか」
亜里沙はずり落ちた身体を起こして、シートベルトを締めなおした。
「やっぱりちょっと、このまま…ってわけにいかないですよね、そうですね」
「何が?」
反射的に聞いてから、亜里沙と目が合ってすっかり気まずかった。察してしまった。途端にそんな目しやがって。このまま、何しろって言うんだよ。
「一応、天下の往来だからな、そこはわきまえような」
「ですよねえ。それはまずいのくらいは知ってます。…って芦田さん、何考えてるんですか!?」
と、亜里沙は初めて聞いたみたいな、ぎょっとした顔をした。なんだよ、気まずいのこっちだからな。
「…まさか、ここでアレを、とか考えてません!?」
「考えてるわけないだろ」
言わないで済ませようと思ったのに。そりゃ、気持ちが高まったけど、まさかまさか。車、外から丸見えなのだ。
「考えてましたよ、その目は!えろいなあ芦田さん!信じらんない!さっきまで、なんの話してたと思ってるんですか!?」
「考えてない、って言ってるだろ!?大体、お前だろ!?『このまま…』とか言い出したの!」
簡単に雰囲気をぶち壊すやつだ。
でも、実際今、もとの通りに戻って良かった。
なぜならキスを求めあったあのとき。
僕は確かに、亜里沙と二人だけの時間の中にいたから。こういう言い方はしたくないけど、周りなんてみている余裕はなかった。さっき亜里沙が、そこから先があるんじゃないか、そう思った気持ち、よく分かる。あったって不思議じゃなかった。進んでいたら、留めるものなんて何もなかった。
(焦ることなんてないさ)
身体を合わせなくても、証を求めあわなくても。僕たちは分かちがたく、結びついてしまった。これ以上、耐えられない。そう、思ってしまった。お互いが、お互いのいない世界に居続けるのは。
もはや僕たちに、特別な言葉は要らなかった。
そこから始まるのは、なんの意味もない日常だ。亜里沙がいて、僕がいる。ただ、それだけのことだ。
その先のことは思ったらどこまでだって、想像できる。
見飽きた清里の林道をすっ飛ばして。
僕たちは、二人であの小さな社員寮に戻る。二人で黙々と部屋に明かりを点し、冷蔵庫の中で置き去られたビールを飲むだろう。そしてそこでなされるのは、何にするでもない儀礼的な乾杯だ。でもそれが何より、大切なことなのだ。
たぶんそのときに口にするビールは、アルミ缶容器と同じ、金属的なまでの冷たさのはずだ。僕たちは顔を見合わせて、笑うだろう。どうしてこんなに胃がしくしくするものを呑みたくて、息せき切って帰ってきたんだろう。
それでもたぶんそれは、今までの人生で口にした中で最高のビールだ。人生の清算を終えて、何もかもが吐き出した空きっ腹には、何物にも代えがたい報酬のはずだ。
そして頃合いに、僕たちは昨日のステーキ肉を焼く。フライパンで一枚ずつ、スライスしたニンニクに、スパイスを添えて。ビールはとっくに二本目になっていて、お腹もそれほど空いてないけど、今日はどうしてもこれを食べてしまわないと落ち着かないはずだ。
その頃ビールはウイスキーの水割りに、代わっている。キッチンで話し込んでいた僕たちはお皿を載せたトレイを持って、ソファに移動し、ゆっくりと焼いた肉を噛み締める。肉汁がうっすら赤らんだ肉は、いい加減な焼き具合でもやっぱり美味しくて、ウイスキー二杯ですぐに平らげてしまう。お腹はそれで一杯だ。後はお酒しか、お腹に入る余地はないだろう。
テレビでもつけようと思った僕の手を、亜里沙が制する。お酒だけになると、手持無沙汰になると思ったのに、亜里沙は手っ取り早い共通の話題を拒んだ。そこで薄くラジオをかける。宵の口のパーソナリティは在米のジャズピアニストで、そこでは新しめのクールジャズが、邪魔にならない程度でオンエアされている。
僕たちは、何気ない会話を再開した。さっきまで続けていた他愛ない小競り合いの続きだ。それから今日一日食べたものや、ふと見かけたものについて話し、とめどなく水割りを口に含んだ。少しずつ予感がしていたことだが、僕たちの間には、共有しあえる情報が少ない。それはつい最近の、このたった二日間についてのことだけだった。
やがて会話はぷつん、と途切れる。からからとウイスキーグラスの中の氷片をもてあそんでいた亜里沙は、つまらなそうにグラスを置いた。夕方ひとり、公園で遊び続けている子供みたいな表情だった。
次の瞬間には、僕はかすかに毛先が揺れる亜里沙の短く切った髪の生え際を、撫で続けていた。亜里沙の顔は、見えない。近づきすぎているから。氷片を含んだ唇の中で、冷たい舌が踊り続けていた。いつまでもそれは、続くように感じられた。どこでやめていいのか、それも分からなかった。
ラジオは素知らぬ顔で、ジャズを垂れ流している。ディナーの最中のような他人行儀な曲が終わると、日暮れの森の木漏れ日を思わせる切迫したピアノのイントロと、ソプラノサックスのソロが割って入ってきた。僕はふと、目を閉じた。
さっきちょうど、夏の雨に閉じ込められた時間を思い出したから。恐らくあのときから、僕たちの『普通』は、『普通』ではなくなった。亜里沙は僕の特別になり、この部屋では昨日だったら、考えられないことが起きている。
でももちろん、嫌ではない。来るべくして、来たものだ。僕たちはここへ、たどり着くべくして来たんだと思う。それで十分だ。
いつの間にか、ラジオは消えていた。部屋の照明を落とすとき、僕が消したのか、亜里沙が消したのか分からない。気がつくと辺りは静まり返り、僕たち以外には誰もいない世界のようだった。僕の腕の中で、亜里沙はひそやかな寝息を立てている。シャワーを浴びた潤いがまだ残っている髪からは、甘ったるいシャンプーの香りがした。普段、日向の匂いがする亜里沙からは、あまりしないものだ。
煙草を吸おうと思ったが、そのまま目を閉じることにした。短い間に恐ろしく色んなことがあった。
僕の休日が終わる。




