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PHASE.17

「亜里沙…?」

 その瞬間、佐伯の僕を見る目つきが変わった。まるで何かのスイッチが入ったみたいだ。

「なんだよ、どう言うことだよ!…亜里沙、なんて名前呼びしやがって。お前いったい、何様だよ!?」

 まぎれもなく掴みかかってきた佐伯を、僕は壁に押しつけた。左の前襟を握りしめて、拳を下あごにねじこんだ。一応、殴ってはいない。

「落ち着けよ。…おれは、行きがかり上の他人だ」

「うそっ…嘘つけ!…裏切ったな、亜里沙ッ」

 大声を出せないようにしたが代わりに佐伯は、亜里沙を食い殺しそうな目で睨みつけている。

「おい、そんな目をして余計なこと考える前に、考えることがあるだろ。全部聞いてるぞ。お前がやったことは、そのまま警察を呼ばれても仕方ないことだ。分かってるよな?」

 佐伯は同じ目で、僕を見た。が、物事を考えだして身体から力が抜けていったのが、よく分かった。この男は亜里沙に執着するが、その実、亜里沙を大切に思っているわけではないのだろう。

「亜里沙の携帯電話を持ってるか?」

「車に…」

 佐伯は言葉を濁して逃げようとしたが、亜里沙はそんな言い訳はきかない。問答無用で身体をまさぐると、ジャケットの内側のポケットから簡単に、自分のスマホを取り出した。

「おいっ…」

 取り返そうとする佐伯を、僕は力づくで制した。まったく分かりやすいやつだ。

「大切なものは、いつも肌身離さず持ってるタイプなんで」

 亜里沙は情のない声で言うと、手早く中身を確認する。

「大丈夫なのか?」

「…大丈夫ですよ。盗られる前、パスワード絶対分かんないやつに変えたんで」

 だったら話は終わりだ。僕は、佐伯を掴んでいた手を、注意深く離した。

「亜里沙に、何か言うことがあるんじゃないのか?」

 襲い掛かってくれば、ぶん殴る覚悟で僕は尋ねた。佐伯は僕と亜里沙の間で視線を泳がせたが、何も話さない。

「別に謝ってほしいとは、思ってませんって」

 亜里沙は冷たく言ったが、それからため息をついてうつむくと泣きそうな声で言った。

「…でももし、あのとき、ちゃんと謝ってくれたら…佐伯くんのことだけは許せたかもしれない」

 すると落胆していた佐伯の顔が、みるみる明るくなった。

「亜里沙っ、その、今からでもおれはっ」

 と、その気になって乗ってきた、佐伯の顔に、亜里沙は思いっきり、ビンタを食らわせた。

「今のでよく分かった。…あんたのそう言うとこが、一番嫌いだったんだ」


 亜里沙が佐伯を殴った音は、よく聞こえたと思う。

 誰も騒ぎはしなかったが、容易ならぬ気まずさは、(ぬぐ)いようもない。

 様子を見に来る人間が現れる前に、僕たちは一目散に展示室を出た。亜里沙は、一度も後ろを振り返らなかった。フロアを出るとき、僕だけは一回、そこを振り返った。佐伯は殴られたそのまま、立ち尽くしているばかりだった。

 駐車場に出るとセミの鳴き声がやかましいのに、ようやく気付いた。思えばこの蒸し暑いのに、身体が冷える汗を全身ぐっしょりと掻いている。

「そろそろ帰ろう」

 僕は車のロックを解除した。エアコンを全開にすると、助手席に亜里沙を押し込める。

「あ、悪い。…ちょっと待ってて」

 亜里沙はこっちを見返した。まるで見捨てられたような顔だった。

「忘れ物」

 少し悪い気がしたが、それ以上の話をしている暇はない。僕は急いで戻った。

 佐伯はまだ、トイレの隅の待合室にいた。やっぱりどこかへ通話していた。放心状態からは、とっくに回復していたようだ。そう言えばこの男は殴られたのに、誰も呼ばなかった。気になって戻ってみたが、つくづく、不実なやつだ。

「あ…もしもし、悪い。すぐこっちに来てくれよ。亜里沙が」

 僕はその手から、スマホを取り上げた。戻ってくると思わなかった佐伯は、今度こそ、あっけにとられた顔になった。

「亜里沙に言わなきゃいけないことを言わない、ってことは、反省してないってことだからな」

 通話口からは若い男の声が漏れていた。番号はもちろん、警察じゃない。応援を呼ぼうとしていたのだ。

「亜里沙の携帯にはたぶん、証拠になるようなものは入ってないだろ。だからあっさり返したんだ」

「知るかそんなこと」

 佐伯は大きく目を剥いた。表情が乏しいように見えて、分かりやすいやつだ。

「罪を重ねる気か?」

「…だからっ、おれは何もしてないんだって」

 佐伯は嗚咽(おえつ)するような声で言った。

「巻き込まれたんだよ。…手を出すわけないだろ。おれはあの子が、亜里沙の友達だったって知ってる。男だけで集まるからって言われて行ったら…あんなことになってるなんて、思わなかったんだ」

「状況は分かったよ。後悔はしてるってことも」

 僕が理解を示したので、佐伯は目を輝かせた。

「でも、その後は、どうした?なし崩しにもみ消す側の味方か。後悔してるんじゃなかったのか?…どこかで勇気をもってちゃんと言い出せば、こんなことにならなかったんじゃないのかよ。そんなお前のせいで、その子ばかりじゃなくて、亜里沙まで同じ目に遭わせるところだったの分かってるだろ?」

 佐伯は、歯向かってこなかった。

「う…う…ううう…うう!」

 言葉はなかった。佐伯は唇をわななかせて嗚咽していた。噛み締めた歯の間から漏れる息苦しい悲鳴には、反省とも悲しみとも怒りとも、つかない無残な気持ちの色がにじんでいた。誰にも伝わらない。伝えようがない。そんな言葉にならない感情が佐伯の中を荒れ狂って駆け巡っていったのだ。

 自業自得だ。どこかで覚悟を決めて、真正面から受け止めなかったから。でも、逃げられないのだ。身勝手な理屈でごまかそうと、事実をもみ消そうと、誰あろう、自分自身からは。勇気のない自分や、心の弱さに負けてしまう自分、やけくそになって道を踏み外し、それでも無慈悲な現実に真っ向から向き合えない、みじめな自分からは。

「今度はちゃんと展示を見て来いよ。たぶん、今のお前にぴったりだ」

 僕はあごをしゃくった。恐らくポロックなら、この男の中を荒れ狂う嵐の姿を、表現してくれるだろう。崩れ落ちそうな佐伯に、僕はそっと耳打ちした。

「亜里沙もあの中で、泣いてたぞ」


 外へ出るとまた、しとしと雨が降り出していた。キーを差していったのに、エンジンは掛かっていない。エアコンもついてない蒸し暑い車内に、亜里沙は一人待っていた。

「暑いだろ。どうせなら、冷やしといてくれよ」

 冷たいコーヒーを買っていって正解だ。一気に全開になった冷風に前髪をあおられて、亜里沙はおずおずとコーヒーを飲みだした。

「忘れ物…なんだったんですか?」

 僕はポストカードの束を取り出した。美術館のお土産の定番だ。展示のポロックの作品がはがきサイズで楽しめる。

「記念だよ。お前には(しゃく)だけど、実際、良かったしさ」

「…ポロック、気に入ってくれたんですか?」

 僕はババ抜きみたいにポストカードを扇形にして拡げた。そのうち、気に入ったのを一枚だけ取って亜里沙に残りを渡した。亜里沙はそれを胸に抱きしめるようにした。

「いいんですか」

 僕は何も答えず、頷いた。

「行きたかったのは、亜里沙の方じゃなかったっけ?」

 と、言うと亜里沙は小さく頷いた。

「記念ですね」

「そう、記念。お前といると、色んなことありすぎだ」

 僕はエンジンをかけて、バックにギアを入れた。周りに誰もいなかった。がらがらの駐車場を大回りでターンして、一般道に飛び出る。


 佐伯から奪ってきたスマホの話は、しなかった。今のこいつには、出来ない。なんとなく、そんな気がした。珍しく無言の亜里沙を見ていると、この件で何を言っても、余計傷つけてしまう気がした。

 晴れ間がまだ、見えているにも関わらずフロントガラスを打つ雨は短い期間で激しくなっていった。まるで急速に時間が立ち戻っていくようだ。あの夜も雨は、一気に土砂降りになった。出し抜けの真夏の山の嵐が亜里沙を、無造作に僕の運命の中へ放り込んだのだった。

「酒、まだあったよな」

 気まずさを打破しようと、僕はラジオをつけた。ノイズがひどい。

「この雨で、コンビニ停まるなんてごめんだからな」

 大粒の雨の音は今や蝉時雨(せみしぐれ)よりもやかましくなった。軽井沢がどおんどん遠ざかっていく。恐らく通り雨のはずのこの雨雲から何とかして逃れたかったが、雨足の方はますます、ひどくなるばかりだ。

 ラジオからはチューニングノイズしか聞こえない。タイヤが飛沫を上げる音だけが、断続的に響いてきていた。ふとみると対向車も後続も、一台もない。こうして信号にも停められずに走っていると、何かの呪いでどこか現実離れした場所に閉じ込められた錯覚に陥る。

 意識していなかったが、そろそろ、亜里沙を拾った直線道路だ。

(そう言えば、災害ニュースをつけたんだっけ)

 あのときは、こんな災害に出会うなんて想像もしなかった。

「すいません」

 亜里沙が言い出したのは、そのときだ。

「あのっ停めて…ここで、停めてもらっていいですか」

 何かに()えかねたような、切羽詰まった口調だった。何が起きたか考える間もなく僕は、路肩に車を停めた。その瞬間、何を思ったのか、亜里沙は衝動的にドアを開けて外へ飛び出そうとしたのだ。僕はそれに抱き着いて、引き留めた。

「馬鹿、お前っ、トイレ行きたいならそう言えばっ」

「トイレなわけないでしょ!…あたしはっ」

「なかったことにする気か?」

 亜里沙は、はっ、として息を呑んだ。

「やっぱり、出会わなかったことに?」

 言ってから僕は、自分でも何を言っているんだと思った。知らず知らずのうちに、過敏になっていた。不思議な気分だが、亜里沙の今の気持ちが手に取るように分かるような気がした。

「だってすっごい迷惑、かけちゃいましたから。…まさかあんな、あんな形で芦田さんと出会いたくなかった。そう思ったら…つくづく自分…いやになって」

 亜里沙は、真顔になっていた。双つの瞳から、澄んだ色の涙がひとつ、ふたつ、こぼれ落ちた。

「いやになったからって、やらかしたことからは逃げられないだろ」

 だって、出会ってしまった。同じ雨の中を通ったって、あのときと同じ道で降りたって時間は元には戻りはしない。

「僕だって、お前のお陰で自分と向き合えたんだ。まあ、やらかしたけど。やったことはやったことで、向き合わなきゃしょうがないだろ」

 泣きながら、亜里沙は何度も頷いた。

「…あたし、まずいこといっぱいしましたよね?」

「したねえ」

 そこはさすがに否定できない。

「でも別に、迷惑だなんて思っちゃいないよ。そりゃ、たまにうざいなあ、とか、ほっといてくんないかなあ、とか思ったりしたときはあるけど、それも含めて、亜里沙なんだろ」

 すると亜里沙の肩からようやく力が抜けた。僕が身体を離したので、亜里沙は、そっとドアにかけた手を離したのだ。そのとき、ラジオが復活したのか、急にソフトなスムースジャズがかすかな音量で流れ出してきた。

「行くなよ」

 僕は、ストレートに言った。これだけ素直になって、自分の気持ちだけを口にしたのは、久しぶりだった。

「もう出会ったんだから。…一緒にいるのが嫌になったんじゃなかったら、それでいいんだから」

「嫌なわけないですよ。逆です。あたし…芦田さんがいなかったら、もう、本当にだめになってます…」

 亜里沙ももう、混ぜっ返したりなんかしなかった。自分の気持ちに素直になるのに、僕たちは恐ろしく周り道をした。でももう、一緒にこの帰り道を急いでもいいはずだ。


 夏の雨に閉じ込められて。

 僕たちはようやく、埋もれていた言葉を発見できた。それはやっぱり、偶然でもなく、奇跡でもない。完全に一致した、一つの言葉だった。二人で過ごしているうちに何げなく、でも抗いようもなく、僕たちは離れがたい関係になってしまった。だがもう、それを妨げるものなんか何もない。だったら僕たちはとっくにこの言葉を、捧げ合ってもいいはずだった。平気なふりをしているなんて、これ以上、堪えられようもない。

 あなたがいなければ。





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