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PHASE.16

(彼氏って…あの?)

 思わず僕は、総毛立った。今、本当に通りすがる一瞬しか見えなかったが、確かに亜里沙くらいの年齢の若い男だ。サマージャケットに黒のスキニーパンツ。Tシャツは無地、黒いしっかりとしたフレームの眼鏡をかけていた。

 その気になって探したら、辺りにいくらでもいそうな夏休みの大学生だ。

「行っちゃいました…?」

 亜里沙は僕の首筋にすがりついている。いい加減にしろと言いたいところだったが、その細い肩の震えから切迫した息遣いが感じられて僕は、言葉に詰まった。

「このまま帰ろう」

 僕は即座に言った。当然ここに来る予定の亜里沙を知っているなら、足を運ばないはずがない。向こうだって人目のあるところで無茶はしないと思うが、とにかく、早めに立ち去るのが無難と言うところだろう。

「いやですよ」

 しかし亜里沙は、(かたく)なだった。

「あたしの携帯、持ってきてるかも知れないんです」

「携帯?」

 亜里沙は、スマホのアプリで会話を録音したのだ、と言う。その上であの男に、自分たちがしたことを問い質したのだ。自分に身の危険が及ぶことを予想して、万が一のためにとっさに採った防衛策だった。

「そんなのとっくに、消されてるかも知れないぞ?」

 僕は、あえて残酷なことを言った。もう自分で忘れているかも知れないが、亜里沙は、命からがら逃げて来たのだ。僕と出会ったときは、そんな感じだった。あんな大雨のさなかで。ビールの空き瓶一本、握りしめて。何があったかは知らないが、すすんでまた同じ目に遭おうとしているのを、僕が止めないわけにはいかない。

「どうしても、だめですか…?」

 僕は言葉を喪った。そこまで言われると、こっちは弱い。考えてみれば自分のプライバシーがみんな入った携帯を喪う、と言うことは、亜里沙がわざわざ危ない橋を渡って手に入れた何かよりも、あとあと確実に身に迫る危険を放置することになる、とも言える。

「…一緒に、様子をうかがってくれるだけでもいいんです」

 亜里沙は思いつめた声で、僕に懇願(こんがん)した。

「分かったよ。でも、暴力沙汰はなしだぞ?」

 こっちは地元だ。いざ警察沙汰になったら、職場に迷惑が掛かる、と言う最悪の事態に陥る羽目になる。

「芦田さんに、ご迷惑はかけません」

 亜里沙は、確信を込めて頷いた。絶対にこいつ今、よく考えないで答えている。

(でも相手だって無茶な真似は、しないだろう)

 何しろ、公共のスペースだ。しかも騒がしいことはとかく目立つ美術館で、滅多なことは起こったりしないはずだ。

 僕は慎重に辺りをうかがった。今の男は一人で、続いてくる奴や誰かが待っている様子もなさそうだ。亜里沙の話が真実なら、人目をはばかりたいのは、むしろ向こうの方だろう。

 とか言ってる間に亜里沙の方はもう、動き出している。さっき満足してほくほく顔で出てきたばかりなのに、出入り口から真剣な顔でUターンしてきたから、学芸員さんびっくりしているだろう。僕はすいません、中に忘れ物をしましたと、言い訳をしながらついていった。まあ、嘘ではない。携帯を忘れてきたことは、事実である。

 亜里沙が言った男は、チケットを買って展示をうろうろしている。学芸員に誘導されて、順路を歩いているものの、落ち着かない様子だった。一応、絵を見るふりはするのだが、上の空と言った感じで、せわしなくフロアを移動している。

 改めてみると、特徴がないのが特徴と言う感じの若い男だ。背は高いが色白でひょろっとしている。なで肩で、顔の皮が薄い。目鼻立ちの印象がまろやかで薄く、中性的と言っていい顔立ちだ。

(レイプされそうになった、か…)

 亜里沙の主張を今は、そのまま信じるしかないが、こんな大人しそうな男が、と言う印象をぬぐえない。もちろんじゃあ、猛々しい風貌の男なら皆、女性に乱暴するのかと言えばそうとは言えない。そう言えばむしろ一見大人しい男の方が、いざと言うときの爆発力は高かったりする。

 あの夜。

 亜里沙は、ほとんど命からがら飛び出したのだろう。雨の中だ。僕は、びしょびしょに濡れたあのカールスバーグの空き瓶のことを思い出す。

「…どうやら、一人みたいですね」

 亜里沙が戻ってきて、(ささや)くように言う。どうやら駐車場の方まで見て回って来たらしい。何しろあの真っ赤なフェラーリは目立つ。

「あのとき、誰か他にいたのか?」

 無言で亜里沙は肯いた。彼氏と話をするうち、なんと亜里沙は応援を呼ばれたと言うのだ。あの日、事件に係わっていた連中も薄々感づいていて、近くに待機していたのだそうな。本格的な身の危険を察して亜里沙は、脱出を図った。それでビール瓶を持ってあの土砂降りの中、出てきたわけが分かった。

「手分けしてたぶん、捜しているんですよ。さしで話をするなら、今しかないです」

 亜里沙は意を決したように、言った。いや、それはちょっと、走りすぎてないか。

「一人のふりをして話しかけてみます。何かあったら、出てきてください」

「おいっ…」

 こうなると亜里沙は聞かない。変に度胸があるから困る。

(警察に行けばいいのに…)

 僕は内心舌打ちしたが、亜里沙を止められるものでもない。もともと存在自体が危なっかしいやつなのだ。念のため僕は辺りをうかがってから後についた。肝心の相手は展示の合間の休憩スペースに入って、せわしなげにケントのメンソールの箱から煙草を取り出したところだった。

(物陰に隠れるんだったな)

 身を潜めたのは階段わきの、観葉植物の鉢があるスペースだ。

佐伯(さえき)くん」

 亜里沙は、硬い声で男の名前を呼んだ。佐伯と呼ばれた男は、明らかに血相を変えた。

「亜里沙」

「こっちへ来ない!」

 駆け寄らんばかりだった相手を、亜里沙は留めた。亜里沙の声は震えてはいなかったが、内心怖くてたまらなかったと思う。

「持ってるでしょ。…まず、あたしの携帯を返して」

「…分かった」

 佐伯は悲しそうに顔を歪めたが、難色を示すことはせず、ただいたましげな表情で首を振った。

「悪かったって。本当に謝る。…ずっと、心配してたんだよ」

「余計な話は、もうしない。あたしはただ、持ってるものを返して欲しいだけ」

 亜里沙は、にべもなかった。佐伯は、打ちのめされたような表情になった。

「他に誰かいる?」

佐伯はあわててかぶりを振った。

「来てない。…亜里沙は勘違いしたんだと思うけど、あいつらこっちに来てたわけじゃないんだ」

「でも、あたしが何を言い出したのか教えろ、って言われたんでしょ?」

 佐伯は言葉もなかった。

「許してもらえるとは思ってない。実際、あんなことになって…そうなるなんて思わなかったけど、手を貸したのは事実だから…でも、おれの話も少し…ほんの少しだけでいいから、聞いて欲しいんだ」

「千奈を直接、傷つけたわけじゃない、って言う話のことでしょ?」

 突き刺すように亜里沙は言った。確かに起こってしまったことを考えれば、主犯であろうと従犯であろうと、罪は同じだ。

「警察に行って、ちゃんと話すよ。だから、もう一度、一緒にうちに帰って」

「携帯を返して」

 遮るように、亜里沙が言った。体温を持たないその眼差しと口調をみて、佐伯も、諦めたようだ。分かった、とごく小さな声で言ってから、亜里沙のものらしきスマホを取り出した。だが往生際が悪い。

「なあ、頼むから」

「うるさいな」

 携帯を引っ手繰った亜里沙の手首を、男が掴もうとした時だ。さりげなく僕は、隠れていた場所から出てきた。通りすがりだと思ったか、佐伯はあわてて手を引っ込めかけた。亜里沙はその手を追っ払うと、さっさと僕の後ろに隠れた。おい。

「誰だよ、そいつ…」

 僕が関係者だと分かってから、その男の声色が変わった。巻き込まれた。

「誰でもいいだろ」

 もうしょうがない。僕は強気に出ることにした。

「話は聞いてるし、今、盗んだと認めた携帯を返したろ。ずっと見てたからな。このまま警察呼んでもいいんだぞ」

 警察、と言う単語に、佐伯はびくりと反応した。

「大人しく帰れよ」

 僕は低い声を出して言った。

「お前が今、本当に亜里沙に許してもらいたい、と思ってるなら」




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