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PHASE.15

 客はほとんど、僕たち二人だけだ。外の雨の音すらしない。コツコツ、と僕たちの靴音が大理石の床に響く音が遠くまでしている。はるか奥の学芸員が、こちらを振り向くほどだ。空いている美術館に来るたび思うが、余計なものがない、ってこんなに日常と違うものか。

 ホテルのロビーとも、ショールームとも違う。

 まず壁は打ちっぱなしのコンクリートで、天井は階層があれば二階まで吹き抜けほどの高さになっている。白地に黒の大判で、展示会のテーマが語られており、英文の原文の横でさっきの頑固おやじが睨みつけていた。ペンキの缶のようなものに、刷毛(はけ)を突っ込んだまま、訝る眼差しで何かを見ている。口元に火のついた煙草。

 さっきはぎょっとしたが、このポロックと言う男は怒りで目を剥いているわけではなく、要は何かを見極めようと、やぶにらみをしている風貌なのだ。

「世界大恐慌の一九三〇年代、アメリカに生まれたポロックは放浪者の息子だった」

 解説文には、そのように書かれている。中西部のワイオミング州に生まれ、夢見がちな父親に付き合わされるようにして西部を放浪した。定住生活に馴染めないポロックは、体育教師を馬鹿にして放校され、ロサンゼルスのマニュアル・アーツ・ハイスクールに通い、画家を志す。

 しかしその絵は、実の兄によると、

「あいつはテニス選手か配管工になるべきだ」

 と言われるほどに、ひどかったと言う。よくそんな人が、アメリカ現代美術を代表する人物にまでなったものだ、と感心していると、

「なーに、真剣に読んじゃってるんですか?」

 亜里沙が脇で小あくびをしながら、混ぜっ返してくる。いや、お前も読めよ、美大生。

「アートですよ、アート。世界史のテストとは違います。何と一緒かと問われれば、カンフーと同じなんですよ。考えるな、感じるんです!」

「ずっと気になってるんだけどお前、本当に二十代なの?」

「どこから見てもそうでしょう!?」

 亜里沙は僕から離れると、黙ってハイキックの形をとってみせた。うん、足とかすっごく上がるの分かるけど、それとこれとは関係ないよね。

「空いてて良かったですねえ。こう言うのはやっぱり、静かに見るのが一番ですよ!」

 どの口が言うんだ、と思ったが、僕は言い返さずにいた。亜里沙のうるさいのに構っていると、余計に集中できないからだ。

(ふーん)

 元々、デートに連れて来させられてもアートにはからっきし興味が出なかったけど、このポロックと言う不思議な人物の風変わりな人生にだけは、まあ面白いとは思う。

 画家に見えない、不器用に過ぎる男。そんな男がなぜ、画家になったのだ、と問われれば最初は、食べるためだったに過ぎない。大恐慌の最中、ニューディール政策が実施されていた当時のアメリカでは、画家にもWPA(雇用促進局)から定時の仕事と、一定のサラリーが与えられたからだった。

 しかしポロックは、それを拒否する。アメリカの雇用促進局は確かに、芸術家に日々の生計(たつき)を与えたが、有り様は彼らを時間労働者の枠に収めることしか、考えていなかったからだ。定時出社とノルマを義務づけられた芸術家たちは、代わりに創造的表現力を奪われた。何より堪えがたかったのは、出来上がった作品にサインを入れることを禁止されたことだ。

 ポロックはWPAの仕事を拒否し、自然への回帰を(うた)って辺境で自給自足の生活を始める。それは彼が少年時代に父親に連れ回された西部で触れたネイティヴ・アメリカンの文化への傾倒であったり、解放された自我の追究であったそうな。


『自らの表現の不自然さに疑問を持ったポロックは苦悩し、彷徨(さすらい)ます。過激な行動を取ったり、アルコールに溺れたりする中で、ポロックが発見したのは『無意識』に働きかけること。それが後期、数々の代表作につながる『アクション・ペインティング』と言われたポロックの特異な創作姿勢に発展していきます』


 何かと思ったら、館内放送だ。ちょうどそこの薄暗いブースで、記録映画を上映している。ポロックの制作風景が解説付きでここで、上映されているらしい。

 暗がりの中はがらんとしていて、一見誰もいないように見えた。

 僕は入ってみて、声を漏らしそうになった。そこに亜里沙がぽつん、と立っていたからだ。僕には気がついていないらしい。かすかに瞳の白目の部分が潤んでいる。僕は何も声をかけずに後ろの席に座ることにした。元々は彼女が見たいと言うから、ここへ来たのだ。

 それにしても、あの亜里沙があんなに真剣になるなんて。

 そう考えてみると、このポロックと言う画家、ある意味では偉大なのかも知れない。


『ポロックの制作技法は、ドリッピングと言われる特殊なものでした』


 それはカンバスに直接絵の具を滴らせて行う、まさに前代未聞の描き方だった。何が前代未聞と言って、ポロックは絵を『描かなかった』のだから素人の僕でもびっくりする。

 コーヒーのドリップ、と言う言葉からも分かるが、たっぷりと絵具バケツにつけた刷毛の筆先から、ポロックは絵の具をだらだら垂らして、作品を制作したのである。そのためになんと土足で、作品の上をずかずかと歩き回ったと言う。

 ポロックの制作現場は、まるで塗装屋の仕事現場を見るみたいだった。事実、ポロック自身も画家らしい画材すらも用いなかったらしい。バケツに入っているのは絵の具ではなく、エナメル塗料や工業用のペンキのこともあった。それどころかときに筆や刷毛ではなく、ボタンやマッチ、釘などが制作に用いられることもあったそうな。

「これは果たして絵画なのか…?」

 出来上がった作品は当然、疑惑と困惑の目をもって迎えられる。恐ろしいのはポロック自身もこれを絵画だとは、断言できないと言うことだった。

 しかし美術と言うのは恐ろしい。それでも価値が出てしまえば、ギャラリーに飾るべきアートなのだ。画家に向かない、と周囲の人から言われて育ち、やむなく美術館の守衛をして細々絵を描いていた男が、三十八歳のときにはMOMA(NY近代美術館)から買い取りが来るほどの人気画家になったのだ。


『ポロックの斬新な制作姿勢が打ち立てたのは、象徴表現主義しょうちょうひょうげんしゅぎとされ、アメリカ固有の美術として、隠れもない個性を打ち立てることとなったのです』


 画面上のポロックは、せわしなく動き回っている。これがアクション・ペインティングと言うやつだろう。

 立ったまま床に突っ伏すような形をとったポロックは、口に煙草を加えながら、手にした刷毛から絵の具を滴らせて回っていた。確かにその姿は僕が知る一般的な絵を描く人間の姿からかけ離れていた。まるで植木に水やりをする庭師だ。バケツに浸した刷毛を象の鼻のようにぶらぶらさせたポロックは、キャンバスにそれを置こうともしない。

 やがてそこに見る見るうちに、絵の具が溜まっていく。だらだらとこぼれ、ほとばしった絵の具の溜まりは当然ながらキャンバスをはみ出して床を汚し、惨状を呈していく。

(こんなもの絵じゃない)

 観るほどに反感が、僕の中に浮かび上がってくるのが分かる。しかしその終わりに、完成した作品を観て、僕は唖然としてしまった。『絵画』ではないが、そこには確かに、何かが存在する。亜里沙が言った支離滅裂の表現が、あながち間違いではないと言うのが、おぼろげながら分かった。ポロックが滴らせた『炸裂』は、今の僕の内側にも、必ず『在る』何者かだ。


 例えば『秋の韻律(リズム)』。ニューヨークはメトロポリタン美術館に所蔵されている。縦が約二メートル六七センチ、横が約五メートル二十六センチ、まさに見上げるような巨大さの大作だ。

 画面いっぱいに広がる茶と黒、そしてその中間色の色の波は、くすんだ晩秋の藪を思わせる。頽廃色(たいはいしょく)氾濫(はんらん)は、そこはかとないタナトスの気配を含んでいる。ポジティブな感情とは、言い難い。しかしうちに籠もらず、冷えて死にもせず、これらの感情は、出口を探し求めて僕の中を暴れ傷つけるものだ。


 そう思うとこの作品が、実に巨大なものである理由が分かる気がする。なぜならこの気持ちはたぶん、僕の身体一個では本当は小さすぎて収まりきらないもののように感じるからだ。

 思わず僕は、拳に残る引き()りと痛みを確かめた。理由はどうあれ、僕は親友を殴ったのだ。後悔しているわけじゃないが、他に解決方法があったなら、誰かに教えて欲しいと今でも思う。もしあのとき湧き上がった感情を理解し、分類して、納得して、理性のうちに留めることが出来たなら。今僕は、こんな気持ちのただ中にさいなまれていないだろう。

(どうしたら良かったんだ)

 静花が言ったことに、僕は納得したわけでもない。いざ静花と会ってみて、自分の生の感情をぶつける相手を間違えたんだ、と悟っただけだった。ただただ、虚しくなって帰ってきただけなのだ。

 だから僕たちの間に何かとてもスマートな解決方法があったとして、僕はあのとき、誰の言うことも聞かなかったろう。そんなものは、求められていない。あったとしてもそれはずっと後にすべきことだ。

 なぜならどんな強固な理屈も、この圧倒的な負の感情の情報量を前にしたら、無意味だ。僕の中にあるそれは、ただそれと名付ける間も、理解する間もなく、ただただ、表へ炸裂することを求めていた。

 もちろんどうあれ僕は暴力をふるった。僕は、そんな自分自身を正当化するつもりはない。だが分かって欲しかった。どこか、世界の片隅で、見知らぬ誰かにでも。たぶんこの作品もそうやって描かれたのかも知れない。

 なぜならそれは、誰もが持ちえるもののはずだから。

 望むと望まれるのに係わらず、誰かの中に必ず存在し、自然と生まれ出てくる感情。


 気がつくと、すすり泣く気配がした。スクリーンのほの明かりの中で、亜里沙の肩が震えているのだ。彼女にも『在る』。まだ、外の世界へ出ようともがいている、名付けようのない感情が。

 僕は後ろからそっとその肩を抱いた。亜里沙は、はっと息を呑んだ。

「やっ…」

 急で怖かったのか強く身を固くしたが、その後それから突然乱暴に、その身体を任せてきた。

「芦田さん…」

 震え続ける吐息の深さを、僕は聞いた。誰もいない薄闇の中だったからだろう。陽の当たる外の世界には決して出て来れない、亜里沙がそこにいた。その亜里沙は名前のないまま、どこへも出て行けずにこの薄闇の中をさまよっていたのだろう。そしてそこで、ようやく僕を見つけた。この強く主張してくる身体の重みは、今それを訴えているのだろう。

(大丈夫だ)

 僕は彼女の望むまま、しばらくじっとしていようと想った。それは迷い子のような彼女の華奢な身体がいつまでも震えていたから。胸の下辺りを湿らす吐息がずっと、熱かったから。お互い、やっと見つかったのだ。

 僕たちの間ではもう、その感情の形に名前を付ける必要なんてない。


「チカンかと思ったじゃないですか!?蹴りますよ、大事な部分を」

 明るい陽の下へ戻ると、亜里沙はまた元の亜里沙になっていた。泣いたらすっきりしたのか、うっとうしいことこの上ない。

「教養もいいけど、品性も大事にしろよ」

「暗がりで若い女にいきなり抱きつく、芦田さんに言われたくないですねえ」

「いや、それはお前が」

 と、言ってから僕は言葉に詰まった。売り言葉に買い言葉で口に出してみたものの、言わなかった方がいいんじゃないかと思ってしまったからだ。案の定そこに、不自然な沈黙が出来て、僕と亜里沙は顔を見合わせた。

「なんですか?」

「…何でもないよ。て言うかお前、人の目があるんだから、あんまり大っぴらに変なこと言うなよな」

「はあい」

 こいつにしては聞き分けよく言うと、また腕を取ろうと身体を寄せてくる。

「なんだよ、もういいだろ」

「良かあないですよ。デートにカウントしてるって言ったじゃないですか。だから、許してあげるわけです。チカンじゃなく、彼氏としてならさっきの行動は容認できます」

「あっそ」

「芦田さんもやっと、デートしてる気になってきたでしょ?」

「へいへい」

 それこそ、勝手にすりゃあいい。何か思い出して泣いてた癖に。ちょっと気を許すとこいつはなんで、小憎らしい方へ走るんだろう。

「じゃあ、あとはテラスでコーヒー飲みましょうか!デートと言えば、甘いものですよねえ!それでここは、しめましょうか」

 しめるって、何だか飲み会みたいな話になってきた。

「まずはケーキセットが良さそうです。違う種類のとって半分こしましょうよ」

「まずはってなんだよ、まずは、って。僕はコーヒーだけでいいよ」

「じゃあ、芦田さんのケーキあたし食べますから。それに、プリンアラモード追加で手を打ちましょう!」

「さっきカレー食べただろ。食べられるか、重たいもん」

「食べられますってば!甘いもん食べないデートなんてデートじゃないです」

「焼肉食べるカップルもいるぞ?」

「それは、精力つけたいときだからですよ。大体あるでしょ、焼肉屋にも甘いもの…」

 僕たちがそんなムード満点の会話を楽しみつつ、ロビー近くにあるカフェテラスに差し掛かったときだ。亜里沙が右回れしたかと思うと、ふいに抱きついてきたのだ。

「おっ、おいっ…」

 冗談とは思えない強い力だった。僕が、ちょっとよろけそうになるくらいだ。亜里沙の真意が分からず、僕は戸惑うばかりだった。

「そのまま壁の方に」

「なんだよ…」

 亜里沙は有無を言わせなかった。ずりずりと寄り切られる形で僕は、後ずさった。そのまま吹き抜けの階段下の人目につかない場所へ移動させられたのだ。

「…顔を、隠してください。あたしの顔」

「分かったよ」

 まるでスパイ映画だ。言われるままに僕は腕を回してその頭を抱えると、亜里沙は僕の胸に顔を埋めた。一体なんだってんだ。

「通りますよ。絶対、見つからないように」

「は?」

 確かに誰かがロビーから入って来る。昼下がりに珍しい、独りの客だ。たぶん、男だと思う。こつこつと、どこかせわしない靴音が通り過ぎていくのが、背中越しに分かった。

「今のは…?」

 条件反射で振り返ろうとした僕を、亜里沙は首に抱きついて押し留めた。

「彼氏です」

 短く押し殺した声で、僕に耳打ちしたのはそのときだった。








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