理尊主義に学ぶ、世界の理
人という生き物は、つくづく不便だと思うことがある。
いや、この場合は、人間社会と称した方がいいのか。
まぁとにもかくにも、人というものは厄介だ。
なぜ厄介なのかといえば、それは人が一人ではないからだ。
もし、人が一人しかいなければ、こんなにも多くの思想は生まれなかっただろう。
こんなにも多くの考えが浮かぶことはなかっただろう。
人が多くいる世の中だからこそ、こんなにも食い違う思想や考えが存在しているのだ。
本当に、人間社会というのは厄介極まりない。
だがしかし。
果たして、人が一人しかいなかった場合、人間は生きてこれただろうか?
いいや、人が一人で生きていけただろうか?
考え方によれば、そりゃ、ずっと一人なんだから、それなりの知恵や技術は生まれるだろう。
だが、所詮それだけだ。
後世に遺すこともなければ、その人生が終わった瞬間にでも、その種は絶滅してしまうだろう。
でも、そうと決まっていたならば、残す意味も価値もない。
たぶん、すぐに死ぬことにしただろう。
なぜかって?
そりゃ、なにもすることがないし、暇だし、宗教なんて開いても意味無いし、他の動物と混じっても、いずれは群れも追放されるだろう。
行く場所なんて、端から存在しないとわかりきってしまっているのだから。
そこで、真理を求めた最初の人というものは、最終的に自分を複製することができるようになったわけだ。
自分を複製、と言えば、少し語弊のあるように聞こえるかもしれないが、現代人からしてみれば、そういう表現の方が似合っているのだろう。
紀元前の文献を漁ってみれば、多分この星が過去に一回くらい消滅したことがわかるはずだ。
なぜかって?
そりゃ、そうしないと何もかも説明がつかないからね。
今の説は、単なる仮説にすぎないが、私の理尊主義の観点からしてみれば、人の妄想というものは大概、どこかで的の中心を射ているものなのだよ。
この世界は広い。
広いがために、全ての可能性が含まれている。
私が言うところの、可能性の重なった次元という言葉がそれにあたる。
その考えの中では、0というのは、無という考え方をしない。
この世の中にある全てのものは、0か1しか存在しないものと考えている。
小学校で算数の授業をしたとき、ふと不思議に思ったことはないかな?
これに気づくのは大層なものだとはその頃は思っていたけど、この地球には小数とかいう概念があるだろう?
ほら、0.1とか0.2とか。
あれさ、どこまで行けば、1になるんだろうね?
あ、今君変な顔してるだろ?
そうだろうそうだろう?
不思議だよねぇ。
だって、0.1になるためには、0.01が十個必要なんだもの。もっと言えば、0.01は0.001が十個必要なんだ。
となると、どうすれば0が1になるのさ?って話。
これは、極限という考え方が関係しているんだけど、思うに、この考え方は少しずれているんじゃないか?
いやね?
無能が何言ってるんだ?ってこと言われるかもしれないよ?
正直、こういうこと書くのちょっと怖かったりする。
けど、疑問で疑問でいられない。
昔、それも紀元前くらい昔の数学には、小数なんて考え方は存在しなかったはずなんだ。
たしか、分数という考え方があったはず。
これなら、小数なんかより理に敵った考え方をしていると思うんだよね。
例えば三分の二。
これは、少数に直すと、永遠に小数点が続いていく。
所謂無理数とか言う奴だ。
それが、可能性の重なった次元とどう関係があるのかって?
やだなぁ~?
本当はもうわかってるんでしょ?
答えを認めたくないから、君は答えを先延ばしにしている。
要するに人の考えたことは全て、どこかで起こりうるということだ。
それがどこで起きているかは、当人しか知らないことだけれどもね。
……かなり脱線したな。
よし、本題に戻ろう。
この問題の本質は、なぜ我々人類が存在する必要があるのか、だ。
世の中には、人が暮らすこの世界は、魂の修行の場である、と説く人がいる。
じゃあ、なぜそれが必要なのだろうか?
別に、魂なんて、作る必要なかったんじゃないかな。
どこかの偉い人は、あらゆることに意味があるって言うけれど、私は個人的には、あらゆるものには意味などなく、ただドミノ倒しの先端を押した様なものだ、っていう考えを推したいところだ。
だってそうでしょう?
これは少し飛躍しすぎと思われるかもしれないけど、宇宙って別に無くても困らないよね?
この世界なんて、別に無くても困らないよね?
だって、無いなら無いで、困るということすら考えないんだから。
そこでやって来るのが、すべての可能性が重なった次元だ。
最初に言ったとおり、0というものは無ではなく、どちらかと言えば無限という考え方の方が近い。
これは、すべてのものが循環している様を示しているものだ。
つまり、理尊主義の世界では、0=無限なのである。
え?理解できない?
なら、もう少し簡単に説明しようか。
昔、空気というものには名前がありませんでした。
さて皆さんに質問です。今お手持ちの携帯端末もしくはパソコンと、自分の目の間には何がありますか?
この時代の言葉で説明してください。
……ほらね?
理解できた?
え、まだわからない?
ならもう少しヒントあげようか。
昔、空気には名前がなかった。
そこには何もないと思われていたから、空気の存在を知らない人ばかりだった。
つまり、風というものが何なのかわからないので、夜風に揺れる木々やその木葉は、木が勝手に動いているような感覚だった。
実はそこに、空気という気体がぶつかって、そのエネルギーで揺れているとも知らずに。
そろそろわかったかな?
無というのは無ではなく無限なのだよ。
あらゆるものには二つの性質が必ず存在する。
それは、有限であるか無限であるか。
その二面性は常に重なりあっていて、いつもどちらかを選択している。
さて、選択しているのは何でしょうか?
答えは簡単。
あなたの認識です。
そう、君の認識なんだ。
普段、君は目の前にある大気を気にするだろうか?
魚だって、普段泳いでいる水を、それほど意識したりしないだろう。
人が地に足をついて歩いているのと同じくらいに。
同じことだよ。
全て認識が存在の有無を決めている。
もしかしたら、君が認識していないだけで、君のとなりに妖精がいるのかもしれないし、背後に死神がいるかもしれない。
霊感のある人が幽霊を視ることができて、ない人には見えないのと同じ考えだね。
無いと認識しているから見えない。触れられない。
つまり、認識のしかた次第で、無の世界から有の世界に引っ張り出すことが可能なんだってことさ。
私はこれを、光の裏説って呼んでいる。
命名の理由は、光の本当の裏側は闇なのではないだろうかって考えたことからだね。
本当に光のない世界なら、闇すら見えないのだろうとは思うのだけど。
おっと、また話が逸れた。
どうやら私は無駄話が好きらしい。
脱線しやすい性格の理由もたぶんそれだな、うん。
それで、なんの話だっけ?
……あぁ、そうそう。
人がこの世に存在する理由だったね。
それでは、これまでの話を総合的に考えて結論を出しましょうか。
それでは、答え合わせ。
私自身が思うに、この世界も、人類の存在する理由も、君の存在する理由も、答えはいたって簡単だ。
そう、答えは成り行きでこうなった。ってことだね。
……あれ、なんかしっくり来ない?
残念だったね。
でも、これが現実。
なんでもかんでも、あるいはすべてにおいて、成り行きでこうなっている。
もし君がこの長ったらしい文章を読んでから、ファンタジーな異世界に行くことがあったら、思い出してほしい。
その世界は、この世界が辿るはずだった、もうひとつの世界であるということを。