従妹
強烈な光で一瞬にして視界を奪われたオレは、次第に目眩を覚えはじめていた。
超高層建築物をエレベーターで一気に頂上から下るような不快感がオレを襲う。
あまりの状況に叫び声すら出ない。そんな最悪な状況がどれくらい続いたのだろうか。
遠くから聞こえる悲鳴と怒号で我に返る。
オレはその場に尻もちをついたまま少しだけ気を失っていたようだ。
いつの間にか別の場所にたどり着いていることに気付いた。
目の前が霞んでいるうえに薄暗くてよく見えない。
少しずつ目が慣れてくると次第にそこがアパートの部屋でも二階廊下でもないことに気付く。
そこは大きめの時代を感じさせる洋室だ。それも決して安っぽい部屋ではない。
はっきりと見えるようになるまで数分は掛かっただろうか。
混乱する頭の中を整理するように部屋の中をゆっくりと見渡す。
やはりまったく見覚えのない部屋だ。
重厚な作りの大きな机と椅子、その背後には壁一面の本棚に本がところ狭しと並んでいる。
どこかの書斎だろうか。まさかここがヤマダの話していたお屋敷なのか。
だとすればTシャツにジーンズ姿のまま何ひとつ持たずに来てしまった。
まだ足元が少しふらつくオレは、手探りで近くにあった長椅子までたどり着きそのまま身を預けた。
わずかに開いた扉の隙間からときどき怒号や物音が漏れ聞こえる。
ここはいったいどこだ。
ヤマダの姿もない。やはり詐欺だったのだろうか。
そのとき扉の外を何者かが近付く気配を感じる。
『!?』音もなく開いた扉の陰から骨に皮が張りついただけの異様な手が見える。
ヤマダではない。こげ茶色のボロボロのローブを身に纏い、フードを頭からすっぽりと被ったそれが部屋の戸口に立つ。
生きているのかが定かでないほど窶れ、骸骨を彷彿とさせる骨としなびた皮だけの顔。
眼球が位置する深い窪みには紅色の瞳だけが爛々《らんらん》と輝いている。
オバケ。真っ先に頭に浮かんだ形容はまさにそれだ。
こげ茶色のローブを纏ったオバケがゆっくりと部屋の中を見渡す。
長椅子の陰にいたオレは無駄な抵抗と知りながらも脊髄反射的に身を隠す。
見付かっただろうか。それとも気付かずに行ってしまったのだろうか。
オバケの位置を知りたいが激しく鳴る心音が邪魔で気配がわからない。
オレは丸まったまま長椅子の陰に身を潜めた。
なかなか襲い掛かってこない。
ホラー映画では様子を覗った途端にオバケが目の前に現れて絶叫するのが定石だ。
オレはそんなドジでも勇敢でもない。ひたすら長椅子の陰に隠れ続ける。
しばらくすると何者かが近付く気配を感じる。
「ダン様、ダン様、いらっしゃいますか?」声を潜めてオレを呼ぶ。
「ヤマダさん!?」
「おお。ダン様ご無事でございましたか」
ホッとした表情を浮かべたヤマダがそこに立っていた。
「ヤマダさん、ここはどこですか?」
「ダン様がご相続されたロックランドのお屋敷でございます」
ロックランド。ヨーロッパだろうか。どうやってこの短時間でヨーロッパまで。
それともオレは自分が思っていた以上に長いこと気でも失っていたのだろうか。
『そんなことよりダン様────』とヤマダはそれが大したことでもないように話を続ける。
「大変でございます。何者かが侵入し屋敷内を荒らし周っているようでございます。危険でございます。すぐにこれを身につけてください」
ヤマダはそう言って艶のある黒緑色の太い首輪のようなものを差し出した。
革のようなしなやかさと鉱物を思わせる硬さの部分が同時に使われている不思議な品物だ。
内側にはびっしりと複雑な文様が描かれ、その中央には見覚えのある紋章があしらわれている。
「これって?」
「その紋章部分が脊髄に位置するように首に巻いてください」
キョトン顔のオレの問い掛けをやんわりと却下するようにヤマダはそれを首に巻くように促す。
優しい表情のままではあるが、ヤマダはたまにやたらと押しが強いときがある。
言われるがままに黒緑色の太い首輪を巻きながら問い掛ける。
「あの、さっき何かすごいのが部屋の前を通り掛かりましたけど、あれっていったい?」
「この部屋へ来たのですか!? ダン様、その者の顔はご覧になられましたか?」
ヤマダが珍しく慌てた様子で問い返した。
あんなオバケのようなものが屋敷をうろついているのだから無理もない。
「すんごい怖かったですよ。何かこげ茶色のボロボロのローブみたいのを着てました。生きてるのが不思議なくらいにガリガリに痩せてて、眼だけが紅色で妙にギラギラしてたんですよ。年甲斐もなくオバケかと思っちゃいましたよ」
「ダン様、それはオバケなどではございません。その者の他にも誰かいませんでしたか?」
「いや、ずっと隠れてたので見えませんでした」
オバケの件は少し冗談めかして言ったつもりだったのだが。
ヤマダは真剣表情な表情のまま話を続ける。
「恐らくそれはリッチです。私はこちらに着いてすぐに屋敷の異変に気付き様子をうかがいに部屋を出たのですが、ダン様は異界の門でかなり消耗されたご様子でしたもので、この場を離れる際に念のために霞の指輪をダン様の指にはめさせていただきました。どうやら指輪の効果が上手く発揮されたようです。しかし、なぜそのような者が屋敷内に……」
ヤマダの視線がオレの左手に向けられている。
よく見ると左手の小指に細い紫色の指輪がされている。
今までまったく気付かなかった。
「あ、これヤマダさんの指輪ですか?」
「いえ。それはダン様のご祖父であられますワイズ様の形見の品でございます。万が一の備えにそのままお着けになられたほうがよろしいでしょう」
「あ、はい。ありがとうございます」
会ったこともない祖父の形見の品。霞の指輪と言ったか。
着けているのを指摘されなければ、不思議なことにオレ自身も気付かなかった。
少し悪趣味な指輪だが祖父の形見であれば悪い気はしない。
ヤマダの言う通りオレはその指輪をはめたままにした。
「ところであのリッチという人が屋敷を荒らしているんですか?」
「その者が荒らしているのは間違いございませんが、おそらく仲間がいるはずです。それにリッチは人ではございません」
その時、カチリッと音を立て、オレはようやく黒緑色の太い首輪を巻き終えた。
着けてみると肌に吸い付くように密着し、それでいてまったく不快感もない。
それにしても今、ヤマダが何かとんでもないことを言ってたような気がしたが。
「ヤマダさん、とりあえず首輪つけ終わりましたけど?」
「それでは早速、起動状態にしていただけますか?」
「え? 何を?」
「声に出す必要はございません。心の中で強く『起動』と念じてみてください」
ヤマダの口調は相変わらず優しいものだったが、有無を言わせぬ圧力があった。
いったい何がしたいのだ。首輪の次は念じるとか。
何やら大変な事になっているようだがさっきから言ってる事は滅茶苦茶だ。
まさかこれは何かのプレーなのか。
「いたぞ! 取り押さえろ!」
「ぐぁぁぁああ!」
突然の部屋の外から聞こえた大きな叫び声にビクリッと背中が跳ねる。
大きな物音と叫び声が聞こえる。まさかさっきのオバケが戻って来たのでは。
「ダン様、早く起動状態に!」ヤマダが訴えかけるように鋭い視線を向ける。
ガチャ。部屋の扉が開く。
鎧を着た兵士が戸口に立つ。
「おお。ロックランドの兵士か」
思わず上げたヤマダの声に返事はない。
たしかに兵士の着る鎧の肩口にはロックランドの紋章が見えるが様子がおかしい。
次の瞬間、兵士が糸の切れた操り人形のようにその場に倒れ込んだ。
これにはオレも明らかに異常事態が迫っているのを感じた。
「そこにいたのか」
その声と同時に姿を現したのはヴェネチアンマスクのような目を覆う銀色の仮面を着けた、ゴスロリ風の衣装を身に着けた小柄な少女だ。
「バラン、ここにおったのか。探したぞ」仮面を着けた少女がゆっくりと近付く。
「そ、その声は、リリイ殿でございますか!? なぜそのような仮面を?」
ヤマダが知る人物なのだろう。
リリイと呼ばれた少女はヤマダの問い掛けには答えずにゆっくりと近付く。
「まさか、この事態はリリイ様が────」ヤマダの声がうわずる。
「お前のその左目があれば答えるまでもなかろう」
リリイの仮面の下の表情は見えないが、その声から張り詰めたものを感じる。
可愛らしい少女の風貌とは相反するかのような堂々とした立ち振る舞いと、その体格には不釣り合いなほどに伸びた黒髪がどことなく異様さを漂わせている。
「その者が従兄殿か?」
リリイが手にした杖でオレを指した。
ヤマダはその問い掛けには答えずに左目の眼帯を外す。
『上位鑑定魔法────絶対識別』
ヤマダの言葉と同時にバランの足元に黄緑色の魔法陣が出現した。
その左目には紫色の輝きが宿る。
「バランさん、その目!?」
「ダン様、お気を付けください。どうやらあのリッチを召喚したのはリリイ様のようです」
異様な色に輝く眼。リッチを召喚した。
いったい何がどうなってるんだ。頭の中の整理がつかない。
「……リリイ様は、ダン様のお父上の妹君のご息女様。つまりダン様の従妹にあたるお方でございます。ですが、どうやらクーデターを起こされたようです」
「はぁ!? クーデター? そんな、なぜそんなことを?」
いくら父が所有した建物とは言え、オレはもともと外部の人間だ。
そんなことなどしなくてもこの屋敷が欲しいのならばそう言ってくれれば。
「なぜかと申したか従兄殿よ。お主の胸に聞いてみるが良い!」
『身体操作魔法────毛髪操作』
その言葉と同時にリリイの足元に赤色の魔法陣が出現した。
「ダン様、リリイ様の髪の毛にお気を────くっ!」
言い終える前に、突然ヤマダの体がリリイの方へ引きずり込まれ逆さまに宙吊りになった。
薄暗い部屋の中で何かが起った。だが、いったい何が。
「ダン様! 起動状態に!」ヤマダが宙吊りにされたまま必死に声を絞り出す。
「黙れバラン、お主とて邪魔をすれば容赦はせぬぞ」リリイが低い声で釘を刺す。
よくわからないがこの状況はマズイ。リリイはオレに敵意を抱いている。
このままではオレもヤバイが宙吊りにされたヤマダもただでは済まない。
意味はよくわからないが、あれほどの状況に陥ってもなおヤマダは必死に訴えかけていた。
『起動』
その直後、背中に強烈な違和感を覚える。
首輪の脊椎部にはチクチクと静電気のような傷みが走った。
そして次の瞬間に、首輪の黒緑色がオレの全身を侵蝕するかのように広がる。
「う、うわぁぁあ! ヤ、ヤマダさん! 何ですか、これは!?」
まるで自分の皮膚のように体の隅々まで広がった黒緑色は部分的に硬化し始めた。
指先とつま先には野生動物を思わせる鋭い爪が模られ、首周りから背中を通じ腰回りに褐色の毛が伸びる。頭部には山羊を思わせる角が伸び、尾てい骨の辺りから細長い尻尾が生える。黒緑色はそれだけに留まらずオレの口の中へも入り込み漆黒の牙を模る。
「何をした!? それは何だ!?」リリイが敵意をむき出しにした声で言い放つ。
オレも聞きたい。同じ質問を誰かに投げかけたい。
そのときオレの視界に文字が浮かび上がった。
『初期設定ヲ実行シマス』
『設定方法ヲ選ンデクダサイ』
「ヤマダさんどうしたらいいんですか!? 何か変な文字が出てきましたけど!?」
「ダン様、それは後程ごゆっくりと────」
「バラン、妙な真似を!」リリイが声を荒げる。
それと同時にヤマダが壁際に放り投げられ生々しい音が響いた。
異様な長さに伸びたリリイの髪の毛が生物のようにウネウネと動く。
ヤマダを宙吊りにして投げ飛ばしたのはあの髪の毛か。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。何でそんなに怒ってるんですか!?」
「黙れ! お主の好きにはさせぬぞ!」
その言葉を合図に、リリイの異様に伸びた黒髪が波のようにオレへと押し寄せる。
まるで何匹もの腹を空かせた蛇が一気に獲物に襲い掛かるようにも見える。
「うわぁぁあ! ちょっと待ってよ!」
あれ、何か今、間違えて『自動設定』ってのを選択したような。
気のせいだろうか。それにしても設定画面がいつの間にか消えているのが気になる。
腰が引けたオレは逃げることもままならず足がもつれてその場に倒れ込んだ。
いずれにしろ今はそれどころではない。リリイはそんなオレの声にはまったく聞く耳を持たない。
すぐに足首にロープのように幾重にも重なり合った髪の毛が絡みつき引きずり込まれる。
逆さまで宙吊りにされたままリリイの目の前まで運ばれる。
銀色の仮面の向こうにリリイの青色の瞳が見えた気がした。
掴み掛かろうとするが手も足も髪の毛で縛られていて自由が効かない。
マズイ。このまま振り回されて床に叩きつけられでもしたらただでは済まない。
「お、お前……何をしたぁ!? うぐぅぅうっ!」
その時、突然リリイが苦しそうな声を上げる。
次第に髪の毛にも力がなくなり、宙吊りだったオレはそのまま床に落下した。
痛ってぇぇえ……あれ、そうでもない。というかぜんぜん痛くない。
気が付くとリリイもその場に倒れていた。
「あ、そうだ。ヤマダさん、大丈夫ですか!?」
「はい。ダン様。私は大丈夫でござます。それよりもリリイ様のご様子が……いったいどうされたのでしょうか?」
ヤマダは起き上がるとリリイの様子の変化を指摘する。
あれだけ怒り心頭に発していたのに急に倒れ込んだまま苦しそうにしている。
さっきまで襲われていたとは言え、目の前で苦しむ少女をほっておくわけにもいかない。
とりあえずヤマダと二人でリリイを長椅子まで運ぶことにした。
「ヤマダさん、ちょっと手を貸してください。彼女を長椅子に乗せましょう」
「わかりました」
二人掛かりで持ち上げた拍子にスカートの裾が乱れる。
しまった。うっかりしていた。オレが足側を持っていれば今頃……。
長椅子に運び終えるとヤマダが『失礼いたします』と言って、そっとリリイの仮面を外した。
色白を通り越して青白い肌。整った目鼻立ちに長いまつ毛。
まるで二次元の世界から飛び出したような三次元の美少女が目の前に横たわる。
『絶対識別』
その言葉と同時にバランの足元に魔法陣が出現し左目が再び紫色に輝く。
これはさっきも見た。気のせいかと思ったが今度はたしかに『魔法』と言った。
「い、いつのまにこのような!?」ヤマダが驚きを露わにしオレを見る。
「え? どうしたんですか?」
まさか何か命に関わるような重大な病気だとか。
いくら敵意むき出しだったとは言え従妹、しかも美少女。
一刻も早く助けてやらねば。
「リリイ様に『超魅了』という魔法が掛けられております」神妙な表情でヤマダが言う。
超魅了。何だそれは。しかも今サラッとまた『魔法』と。
「『超魅了』とは『魅了系魔法』の上位種でございます。相手の意思に関係なく虜にしてしまうという魔法でございます」オレの表情を察したヤマダが説明する。
何と。そんな素晴らしい、いや、けしからん魔法がリリイに。
この部屋にはオレとヤマダとリリイの三人しかいなかったはず。
しかもオレもヤマダもリリイにやられていた。いったい誰が。
「いったい誰が?」
「あの、申し上げてよろしいのでしょうか?」
思わず呟いたオレの疑問にヤマダが答えにくそうに口を開く。
「え? どういう意味ですか?」
「……その、『超魅了』をリリイ様に掛けたのはダン様でございます」
な、何ですと!?
読んでいただきありがとうございます。