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「おい君たち、いったい何をしてるんだ。生きた人間が侵入してきたと大騒ぎになっているぞ。じきに戦闘態勢を整えたスズメバチ軍団がやってくる」
息せき切って飛んできたのは一匹のかぶと虫であった。人間ではないので表情は窺えないが、言葉から十分に危険が伝わってくる。どうやら義樹が死を躊躇っている間に、たぶん警護の役割なのであろうスズメバチに気づかれたらしい。
「どうする。まだ死んだわけではないから戻ることは可能だ」
右側のクヌギがやんわり言った。左側のクヌギも続く。
「虫に生まれ変わるか、蜂に殺されるか、選択肢は二つに一つだ。さあ選べ!」
虫になるのは一向に構わない。しかし、まさか人間の生命が消滅するとは思わなかった。
「どうしても死ななくてはならないのか。試練を乗り越えても人間には戻れないのか」
「迷うなら逃げろ。そうしないと試練も経験できず殺され損になる。わしらが樹液をかけない限り、転生は不可能なのだ」
なおも義樹が躊躇していると、遠くの方から凄まじい羽音が呻りを上げて近づいてくるのが感じられた。まるで戦闘機のような爆音だ。義樹は焦った。が、焦れば焦るほど結論は出ない。
「おい、出て行くなら早く出て行くんだ。そうしないと、ほんとうに殺されてしまうぞ」
知らせにきてくれたかぶと虫が、せっつくようにが言うが、呻る羽音に義樹は逆にその場から動けなくなってしまった。平和な時代のサラリーマン、命を賭けて行動する機会など皆無であったから当然かもしれない。
「来たぞ、クヌギ爺さんたち」
かぶと虫の緊迫した叫びに、クヌギらは義樹を無視して決断する。
「え~い仕方がない、彼に例の樹液をかけよう!」
「む、いいのじゃな。あい分かった」
二本のクヌギはたがいを見合って頷くと、葉を揺らし、全身に力を込めだした。そして義樹へ向かい、甘苦い樹液を大量に飛ばした。その瞬間、目の前の小さなかぶと虫と同様、虫にされたような気がした。
目線が地を這っていたし、腕と足が細い木の枝みたいなグロテスクな手足に変化していたのだ。それまで着ていた服は、樹液によって溶かされてしまったようだ。足元の草がやけに高くて何も見えない。子供の頃に迷い込んだ、とうもろこし畑の中にいるみたいで、薄らぼんやりとした夜空しか見えなかった。
「あわわ……」
もう人間には戻れないのか。愛する妻に会えなくなってしまったのか。
そこへ間一髪、羽音とともに数百匹のスズメ蜂軍団が姿を見せた。義樹は虫になったことも忘れて背すじに震えを覚えた。
「そこらじゅうに人間の匂いがするぞ。おい門番、ここへ人間が侵入してきたと通報があった。若い男だ。お前らは見なかったか」
ぶんぶん威嚇するように飛び回り、大将らしき蜂が二本のクヌギへ言った。
「生身の人間がここへ現れたことはない。わしらが通すのは地獄からの転生者だけだ」
すると大将スズメ蜂が、葉の中にいる義樹を見つけ威嚇すると、いきなり身体を海老反りにさせて毒針を向けてきた。
見透かされた? そう感じ、義樹は反射的に身体を硬直させ小便を漏らしてしまった。何たる不覚だ。だが、そのときそれまで顔を覗かせたことのない強い感情が溢れ出た。無謀にも殺人スズメ蜂の大群に突っかかろうとしたのである。
察したクヌギらが枝を近づけ、葉に義樹を掬い上げた。胡散臭そうに義樹を見ていたスズメバチは、そんな義樹の気持ちを知る由もなく、怖気づいて小便を漏らしたことだけを記憶にとどめたのだろう。「この臆病者め!」と吐きすて、殺気だった毒針をたたんだ。唾をペッと吐き「よし、引き上げるぞ」と言って去っていった。
数百匹の蜂軍団が一糸乱れぬ隊列を組み飛んでいく。義樹は葉の上で、やりきれない屈辱とともに大きく息を吸い直した。そこへ、かぶと虫が笑いながら話しかけてきた。
「何にせよ、助かってよかったよ。お漏らしくん」
その剽軽な言葉に、クヌギらも声を上げて笑った。義樹は情けなさにどうしていいかわからなかった。けれど、かつて感じられなかった激しい感性が顕れた気もする。それが好ましいのかどうかは別としてなぜか懐かしさが募る。
「さあ生命拾いもしたことだし、あらためて自己紹介でもしようか。僕は人間を失格したヨウゾウだ」
軽やかに同じ葉の上へ着地すると、かぶと虫が言った。
「私の名前は皆川義樹……」
そう告げたとたん、妻の顔がぼんやりと目に浮かぶ。もう二度と逢えないのか? 突如突きつけられた現実に、一転めそめそと子供みたいに涙した。小さなときから無感動で、泣いた記憶もないのに妙な感情だった。
「泣いても問題は解決しない。受け入れるんだ、運命だと思って」
ヨウゾウが顔を覗き込んで嗜めてくる。クヌギらは義樹のの心情を察しているのかじっと黙っている。
「おいおい、君のせいで何か暗い雰囲気になってるぞ。まっ、いきなり虫に変わってしまったのだからしょうがないか。けど、あきらめるしかないよ」
「そうとも。ここで学ぶことは多い」
クヌギらの賛同にヨウゾウも頷き、義樹の覚悟は決まった。どうせ元に戻らないのなら今を精一杯生きるしか道は残されていない。おかしなもので開き直るとと、それまで泣いていたのが嘘のように前向きになった。
この先、待ち受ける苦難を乗り越えていけば何か得るものがある。そう感じられるようになっていった。悪戯な運命を無意味と思わずに受けとめよう。そんなふうに変わったのだ。それでも皆川義樹という人間が死んでしまった空しさは決して消えることはない。
「じゃあ、僕が森を案内しようか」
ヨウゾウの好意に甘え、義樹は門番であるクヌギらに別れを告げて、森の奥へと進んでいく。クヌギらは「頑張るんだぞ、挫けるんじゃないぞ」と言って義樹を励まし、名残り惜しそうにいつまでも木の枝を手の代わりにして振っていた。こうして義樹の虫になった生活が始まっていく。
でもヨウゾウも自殺者なのか、いったい誰なのだろう?




