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鬱蒼とした小径の中、気味悪い木々が行く手を遮るかに何本も生えていた。闇も一段と濃くなっているだけに身がすくむ思いがする。その闇の中に、おそらく木の幹からだろう……無数の目が義樹を射すくめるような光を放っていた。
最初は梟かなと思ったが、光は枝からではなかったし、梟特有のくぐもった鳴き声も聞こえない。それに色も毒々しく赤い。さらに飛び立つふうでもなく、じっと息を殺して様子を窺っている。そして近づくと、威嚇に感じられていたのに痛々しいほどの哀燐が伝わってきた。
「サイモン。この目は、いやこの木自体が、もしかして亡霊なのか」
「ああ、そのもしかしてだ」
「森から逃亡した者の成れの果てよ。意味なく逃亡すると、動けなくなったあげく、ああやって木になってしまうの。きっと懲りないのね。何百年も同じように木になっていたのに」
サイモンが答えると、引率の女性が付け足した。
「逃亡? なら森の中は、刑務所みたいに厳しく監視されているのか」
「逆よ。むしろ森の中は自由かもしれない。そのため逃げる者がいる」
引率の女性が足をとめた。義樹ばかりか三人の目を見つめて言った。「というのも、ここには人間世界へ通じる抜け道が隠されている。だからってむやみに逃げると、獰猛な戦士に刺されて動けなくなるから注意することね」
「興味ない」
山伏が素っ気なく答えると、武士が反論した。
「人間界だぞ。貴様はそれでも興味ないのか」
「その通り。人間ほど醜い生きものはないからな。そなたのように」
「何だと!」
武士がいきり立って刀を抜くと、山伏が待ちかまえていたかのように錫杖で武士の胸を突いた。武士は、よろよろふらつき木の枝に接触した。
「貴様、もう勘弁ならぬ」
武士が腹いせに木を蹴とばして、起き上がると上段に構えた。
「痛い! どうして蹴るんだ。それと危ないから、やり合うならよそでやってくれ」
叫び声を上げたのは亡霊の木であった。
「そうとも。森の中で存分にするがよい」
サイモンが間に入って諌める。引率の女性も続く。
「痛がるはずだわ。小枝が折れているもの。たぶんこれは彼の指ね」
義樹は木を凝視した。確かに、顔らしいものが幹に刻まれて枝が両腕のように見える。そして折れたところから樹液が流れていた。血なのだろう。全身の毛が逆立った。
ずいぶん前に、ダンテの神曲を読んだことを思いだした。地獄には上層と下層、最下層の底があると書かれていた。ならば……この木の姿をした人間たちは下層の自殺者たちだ。義樹が暮らす世界では、信じ難いものはオカルトといって頭ごなしに排除されるが、でも死という扉の向こう側に厳然と現存している世界があることを否応なく再確認させられた。
サイモンが皆に目配せして歩き出す。武士も山伏も無言で続く。怯える亡霊を憐れんでいた義樹も、引率の女性から促されて歩いた。その横を、あの女性が並ぶようにして続いた。
それにしても思う。次元と時間、サイモンと引率の女性の話を全面的に信じたとして、森で試練を受けるのであれば、果たして彼らを導いたのは、ほんとうに義樹なのだろうかと。仮に百歩譲って義樹が導いたとしても、その義樹をここに導いたのは誰なのだ。単に因果の法則でしかないのか。どちらにせよ受け入れるしかすべはない。
「あれが目的地、閉ざされた森です」
サイモンが斜面の先に広がる一角を指さした。
四方をなだらかな斜面に囲まれた窪地。まさに死者の国さながらに塗り込められた夕闇の中、ぽつんと生命力溢れる森が浮かんでいた。汚濁した風景で、そこだけが妙に脈動している。なのにサイモンと引率の女性を含めた五人が、身体を硬直させ、為すすべもなく立ちつくしている。義樹にはそれが不思議でならなかった。
「サイモン、どうしてあなたたちまで身を硬くしているのだ」
疑念を口にした。
答を待ったが、返答してこない。だとすれば考えられることは一つしかない。「サイモン、引率の女性もだが――あなたたちは過去世で自殺をしたな」
その推測に、サイモンが目をぎょっとさせた。
「驚いた。鈍いとばかり思っていたが、そうでもなかったらしい」
「べつに根拠はなかった。強いて言うなら、あなたたちから、先ほどの亡霊たちへの同情が流れ込んできた」
横で引率の女性が、にやっと笑う。だが武士が目を吊り上げてなじった。
「違う。この男の無知と身勝手さは変わらない。こいつは、平気で人の世話になり、苦悩を押しつける」
「だったら、あなたも相当身勝手ね。穏やかさが取り柄だったはずなのに、嫉妬から一変したわ」
「すべては領土を守るためだった。こいつほど身勝手でも無知でもない」
武士は引率の女性を一蹴すると、同意を求めるかに山伏を見た。が、山伏は素っ気なく視線を跳ね返す。冷淡に言いすてた。
「私とそなたでは、恨みの質が違う。そなたの根底には、実父に対する嫉妬が見え見えだ」
「違うぞ、そうではないのだ。俺は父の横暴ぶりも、こいつの無知ぶりも憎んでいた。だいたいからして、お前らはしょせん風来坊ではないか。たまたま父の野心をくすぐっただけで、そこに暮らす民のことなど何も考えなかった。俺はそれが赦せなかったのだ」
「同じことだ。土壇場で裏切り、望みが叶わぬと知ると自身が殺される直前に自害した。卑怯者の典型だ」
「だ、黙れ! その父の野心を利用して、我ら一族を窮地に貶めたのは誰だ。そもそもきさまだって、守るに値しない人間のため、無抵抗のまま矢を受け死んだではないか。あきらかに悔いの残る自殺であろう。その白拍子もそうだ。情欲に狂って沼へ身を投げた――」
「ひどい、ひどすぎます。私には……野心も情欲もありませんでした。生まれたばかりの愛しい息子を海に投げすてられ、また最愛の人をあなたの裏切りによって殺されました。かけがえのない支えを失って、私にどう生きろと言いたかったのですか。それ以上生き続ける意味が、どこにあったのでしょうか……」
武士の罵倒じみた毒づきに、あの女性が唇を噛んで両膝を落とした。小さな肩を小刻みに震わせている。
「よせ!」居た堪れなかった。
義樹は腹の底から怒りが込み上げた。二人の間に割って入ると武士を突き飛ばした。「あなたが憎いのは、この私なのだな……」
記憶を手繰っても曖昧で、胸から溢れでた言葉に確信はない。しかし、自分の中にいるもう一人の自分が叫んだ。