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5

 朝村は目に手を当てながら「何だ、何が起きたのだ」と、いきなり現れた新手の敵に、事態を把握できぬまま当惑する。でもそれが、かぶと虫だと知ってさらに困惑を深めたようだった。

「たかが虫の分際で、貴様ら、どういう了見なのだ!」

 喚きちらすと、不快感を滲ませた。

 義樹は逆に、窮地に期せずして現れたムサシに驚きを隠せなかった。

       

「どうしてここに?」

 胸を熱くしてムサシを見上げる。

「遅ればせながら弁慶が、この命に代えてもご家族をお守り致す!」

 ムサシは無言だったが、義樹にはそう言っているように聞こえた。だがそのムサシの姿も、愛する妻の姿も、しだいに霞んでいく。

       

 ムサシは果敢に戦っていた。狂ったように包丁を振りまわす朝村の攻撃を、持ち前の身体能力で幾度も躱し、目に狙いを定めてダメージを与えた。けれど所詮虫と人間、パワーが違う。朝村の闇雲に振った平手がムサシの角を捉えると、ムサシの身体は独楽のように勢いよく回転しながら壁にぶち当たった。

 義樹の耳に悶絶の声が響き、ぐしゃっと身体のひしゃげた音が跳ね返ってきた。神経をとぎすませて窺うと、角を折られたムサシが壁に押し潰されていた。リビングは一瞬にして静寂に包まれた。

       

 義樹とムサシがともに動けなくなったのを見とどけると、朝村は妻へ近づく。

「言うことを聞かないと、子供を殺す」

 低い声でつぶやき、包丁を喉もとに当てる。妻の身体が硬直した。

 よせ! 義樹はもがく。


 気づいた朝村は、腹立ち紛れに義樹を蹴飛ばした。すでに痛いという感覚がないままテーブルの端まで弾かれた。

 そのとき、それまでじっと戦況を見つめるだけだったフジモンが、虫かごから飛びだし義樹の元へ駈けよってきた。何やら必死に叫んでいる。

 しかし不思議だ。窓が開いているのだし、外へ逃げだそうと思えばいつでも逃げられたはずなのに、逃げずに義樹へ駆け寄ってきた。

       

「殺されるのが目に見えているのに、お前といい弁慶といい、なぜ戦う」

 フジモンは理解できないと憤慨していた。もしかしたら――望みがあるかもしれない。義樹は最後の決断をした。

「泰衡、頼みがある。そこの卓上ライターで、私の身体を燃やして欲しいのだ」

「何だって! そんなことできるもんか。だいいち、お前はもう動けないはずだ。それに火をつけてどうする」

「天井にある火災報知器のセンサー、あれにしがみつきたい。私の身体が燃えて熱を感知すれば、きっと非常ベルが鳴る。そうすれば事態を収拾できる」

       

 フジモンは返事をしない。当然だろう。飛ぶことすらできない義樹が、どうやって天井のセンサーにしがみつくことができるのだ。絵空事だ。

 だがフジモンの心は大きく揺れ動いている。以前のような口先だけの男ではなくなっているような気がする。少しでも力になってあげたい。そんな気持ちが伝わってきた。

       

「某がその役目、代わりに勤める。見事無事にベルを鳴らし、悪鬼を退散させて見せよう」

 ムサシの声が聞こえた。

 気がつくと、義樹のすぐ後ろにムサシがいた。言葉に胸を抉られ、深く心を動かされる。つくづく気丈な男だ。

「武蔵坊、頼めるか」

 義樹は妻の運命をムサシに託した。ムサシは快く応じると、唐突に「油はござらぬか」と尋ねてきた。

「油――」

 一瞬怪訝に思ったが、すぐにムサシの真意を知り、義樹は絶句した。ムサシは自らの身体を油に浸し、センサーにしがみつく気でいるのだ。どこまで雄々しい男なのだ。

       

 隣室に目をやると、薄らぼんやりしてよく見えないが、妻が畳に押し倒され苦悶していた。朝村の精神は狂人と化しているように思われる。鬱屈した思いが、ここにきて一気に爆発したのだろう。

 ムサシはその光景を横目で流し、フライパンに溜まる天ぷら油に悠然と身を浸す。フジモンに火をつけさせ、燃えながらセンサーに飛び移った。

 義樹はムサシの勇敢な行為を見つめながら、命がつきるのを知った。

       

「義経、お前――死んでしまったのか」

 フジモンが泣きじゃくる。もう何が何だかわからなくなっていた。燃えながらセンサーにしがみつくムサシと、勝てもしない敵と戦い、命が尽きるその瞬間まで何とかしようと抗った義樹。彼らを見て己の性根を恥じていた。

「早くベルが鳴ってくれ」

 心からそう思っていた。だがベルは鳴ろうともしない。そのうちムサシの身体を包む炎が弱まり、センサーに引っ掛けていた足がぐらつくのが見えた。

 ムサシの意識はもうないのだ。けれど何がそうさせるのか、必死にしがみついている。フジモンは葛藤した。今すべきこと――それはムサシのように油に身を浸し、センサーに飛びつくことだ。わかっていた。けれど怖ろしい。

       

「おそらく人間のときにもこうだったに違いない。いや、あの卑劣な朝村のような人間だったかもしれない」

 フジモンはこのままではいけないと思った。そう思った瞬間、目が覚めた。

 無我夢中でキッチンへ行き身体を油まみれにすると、燃えながら踏ん張るムサシの上からセンサーにしがみついた。弱まりかけていた炎は、新たにフジモンの身を焦がし激しく燃える。

       

「まだか!早く鳴れ!」

 必死だった。自分で自分が呆れるほど必死だった。身体中が炎になり熱くて意識も遠のく。それでも絶対にベルが鳴るまでは、たとえ手足が焼け落ちてもセンサーから離れる気などなかった。

 ムサシの身体は焼け崩れ、原型はとどめていない。死んでしまっていた。ずしりとフジモンの腹に重みが加わる。限界だ、手がしびれて力が入らない。だが、それでも死に物狂いで踏ん張った。


 そのとき、突如けたたましくベルが鳴った。

「どうだ義経。これで俺のことも、少しは男として認めてくれるか――」

 フジモンは満足そうな笑みを浮かべ、ムサシとともに落下した。

 

 

 混濁していた意識が覚醒されると、義樹は列車を待ちながら反対側のホームを眺めていた。

 紫陽花の下には白い上着を羽織った座敷童が立っている。こちらへ向かってほっこり笑み、姿をたゆませる。

 はっとした。

 赤い上着を羽織っていたはずなのに――もしや、すべて夢だったのか。

 そう思い、俯くと、足もとに焼け焦げた二匹のかぶと虫が死んでいるのを見つけた。

「これは――?」

 夢だと思った切ない記憶が溢れてくる。義樹は無我夢中で、二匹のかぶと虫を掌にのせた。

 なまり色の空の一角に陽光が射し、やわらかな風が頬を撫でるようにして通りすぎていった。

 

 

           了


どうしようもない物語に目をとめていただき、心から感謝します。

ありがとうございました。

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