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  歪みは完全に消えた。義樹は落ち着きを取り戻し、駅構内へ入って電車を待った。都心へ向かうホームは人に溢れているが、反して下りホームは嘘のように閑散としていた。

 その反対側の線路沿いに、梅雨の水分をたっぷりと沁み込ませた紫陽花が咲きほこっている。うす紫とピンクにも見える白い花が、ホーム上の乗客一人一人を癒すようにして咲いている。目を凝らすと花弁一つ一つに小さな光が浮かんでいて、光の下に赤いちゃんちゃんこを着た少女が影絵のように身を霞ませながら立っていた。


 また錯覚? もしかして、これも先ほどの現象の続きなのか。

 そうだとしても、なぜか義樹は胸を締めつけられる。少女の義樹を見つめる目が別れを想像させて切なかったからである。心を反対側のホームから抉りとられた気にもさせられた。

 周りの人たちは誰一人として気づいていないようだ。気忙しく電車の進入を待っている。無性に並んでいる列を飛び出し、ふっと下り電車に飛び乗りたい気持ちになった。少女も光も他の乗客たちには見えていないのではと思わされたからだった。義樹だけが見えている。いや義樹だけに見せている。そんな気がした。


 なら行けば、直接心に訴えかけてくる言葉が聞こえる。しかしながら電車が滑り込んでくると、惰性という巨大な力は、義樹の思いを阻んで大きく膨らむと否応なしに車内へ吸い込んでいく。一介のサラリーマンでしかない義樹は抗うこともへつらうこともできず、くるくると頭の中を洗濯機の渦のように同じ方向へ回されて、無理やり一つの塊とされ個性を消されてしまった。

 だがもう、うんざりだった。妻との仲たがいから続く謎めいた暗示。義樹はそれを探ってみたいと考えていたからだ。意を決して、ドアが閉まる直前に飛び出すと、階段を駆け上がり停車していた下り列車に飛び乗った。その瞬間、誰かに思いきり頭を殴られたような強い衝撃を感じた気がして、くらっと眩暈を覚えた。

       

 勤め人として職場を放棄する愚かな行為。もしかしたらすべてを失ってしまうかもしれないという不安を乗せて、電車は動き出した。滑るようにして走っていく。が、何か妙だと気づくのにさほど時間はかからなかった。乗客が、義樹のほかに誰一人としていないのである。

 違和感は無人の乗客だけにとどまらない。今思えば、僻地のローカル線でもないのに車輌が一両しかなかったし、停車駅を次々と飛ばして走り抜けていくのだ。


 まさか……?

 そのうち車内が冷え冷えしてくると、通過駅に乗降客の姿さえもなかったことに気づいた。見知った駅であるはずなのに何かが違う。駅名を確認するのも怖くなった。しかも朝だというのに空が暗い。追い打ちをかけるよう、車窓に奇妙な水滴が張りついた。

 もしかして、この電車は義樹の知っている世界の乗り物ではなくて、たとえば黄泉の国の交通手段で行き先は地獄なのかと疑ったりした。なら、昨夜の夢は予知夢だったのか。


 冗談じゃない。義樹は乗降口のドアを強引に抉じ開けようとした。

「無理だ。開くわけがない」運転手が操縦室の扉を開けた。「この電車を、あんたの住む世界では運命とも試練とも呼んでいる。要は、それを乗り超えない限り戻れないのだ。終点の、閉ざされた森で永遠に生きることになるであろう」

 とつぜん現れた運転手の言葉に思考が飛ばされた。否定しようにも、嘘と思えないほど瞳に澄んだ光があった。

 ――閉ざされた森? そんな場所は聞いたこともない。のみならず、この電車が運命とも試練とも言うだって?

 何がどうなっている。あまりに唐突で考えるこもできなかった。


 と電車が減速し、これまで人の姿を確認できなかったプラットホームにぼんやり人影を発見した。義樹は目を凝らした。この運転手の話を聞く限り、異次元。だったら人影というのは錯覚で、民話の世界でしか知らないおどろおどろしい妖怪の可能性だってあるからだ。あの映画でもそうだった。

 どぎまぎさせながら、さらに凝視した。プラットホームは白い蒸気のようなガス状の霧が立ち込めていた。そこに立つ人影は四人。しかし危惧していた物の怪のたぐいではなく、まぎれもない人間である。だが電車が近づくにつれ、その四人から不可思議な輪郭が浮かび上がってきた。揺ら揺らと生気なく、幽鬼みたいに立っていることもそうだったが、気になったのは服装と眼差しだ。


 一人は武士なのだろう。水干袴に侍烏帽子、金刺繍をほどこした太刀の柄に手をかけ、義樹を怨嗟のこもった目で睨みつけていた。もう一人はたぶんに修験者、有に二メートルを超すと思われる巨体を山伏の衣で隠している。本で読んだことがあるが、きっと鈴掛という法衣だ。感じられるのは修験者に共通する慈悲や物の哀れではなくて、殺伐とした憎悪。目を合わせられないくらいの重々しい殺気を放っていた。

 あとの二人は女性だ。そのうちの一人は連れの男たちと似通った衣装を着ている。立烏帽子に緋色の袴、腰には白鞘巻きの太刀を佩いていた。二人の男と違って殺気はない。義樹を見ずに視線を足もとに落としていた。

 最後の一人は、乗務員の制服を着た妖艶な女性。三人を引率しているのか、車内に運転手の姿を確認すると手を挙げた。


「彼らを乗せていく」

 運転手が言った。すると操縦しているわけでもないのに電車が停まった。

「乗せる?」

 裏を返せばドアが開け放たれる。なら、そこがたとえ奇妙な空間であろうと降りたほうがいいに決まっている。願ってもないことだった。義樹はきっぱりと言った。「私はここで降りる。元の所へ戻る」

「まだ分かっていないようだ」

 運転手が肩をすくめた。「三次元の世界には、時間を含めてあらゆるものが混在している。あんたは、すでに別の世界へ完全に足を踏み入れてしまった。無駄な足掻きでしかない」

「なぜ言いきれる」

「意味もなく彼らと出会ったと思うのか。そうだとしたら、あんたのことを知らないのは、あんた自身としか思えんな。彼らを導いたのは、ほかでもない、あんただからだ」

「そんなことがあるはずない。私は、このわけの分からない世界に紛れ込んであたふたしている。どうやったら見ず知らずの他人を導くことができるのだ」


 義樹の思いをよそに、四人がゆっくりこちらへ歩いてくる。その様子をにんまり眺めながら、運転手は答えた。

「自らの本質を探ることだ。漫然と哲学書を読んだだけでは、理屈を知るだけで自分を知ることもできない」

 運転手は諭すように義樹を見つめてきた。「奥さんと仲たがいしたようだが、果たして、その原因となる不倫が事実だったのか。むしろ奥さんの言葉を信じないで、伝聞を信じたと言えなくもない。彼らに対しても同じことが言えるのではないか」

「どういう意味だ。妻のことはともかく、それだと私が彼らを知っていることになる」

「つくづく鈍い男だ」

 運転手は吐きすてると義樹から目を切った。扉が開いて四人が入ってきたのだ。

 その時点で思考がもつれた糸みたく絡まり、もう義樹の頭から外へ飛びだすという気持ちは失せていた。これが運命であるのなら、不本意だが従うしかないのだろう。目線を車内に入り込んできた四人へ当てた。

 


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