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 ムサシが静かに息を吸い、力を溜めている。先ほどまでとは異質の気迫を感じる。おそらく一気に勝負をつけようとしているのかもしれなかった。

 なら、これまでのようにまともにぶつかっていたのでは弾き飛ばされてしまう。危険を察知し、義樹の全身に電流が走る。同時に眠っていた潜在意識が呼び起こされた。


 ムサシの巨体とぶつかる瞬間、無意識に義樹は空を飛んでいた。だからといって翼を広げたわけではない、この格闘大会において羽を翔ばたかすのは逃げであり禁じ手なのである。体操選手が床で演技をするように、突進するムサシの頭上を羽を閉じたままくるっと旋回し着地したのだった。かつて京の五条大橋で弁慶と戦ったときのように空を舞い、ムサシの攻撃をいなしていた。


 観衆が、おぉっ! と口を揃えてどよめいた。するとムサシがはたと動きをとめた。目は覚醒している。

「目覚められたのか――」

 と言った刹那、ムサシは辺りに散乱していた己の闘気を集めだした。それは見ている者すべてに大きな衝撃を呼び起こす。ムサシの身体は外側をつつむ闘気と、内から沸き起こる強靭な精神力が幾層にも重なり、その大きな身体をさらに大きくしていった。

 義樹は懐かしくもあるオーラが嬉しく、目に熱いものを溜めた。それからムサシの荒ぶる魂を完全に解き放つため、会場に轟かんばかりの大声を張り上げた。

       

「武蔵坊、いざ参る!」

 その瞬間ムサシの荒ぶる魂が消え、さながら真綿のごとく柔らかさに満ちたような気がした。残るは武人としての勝負だけ。

「義経様、いざ勝負!」

 そこへ呼応するようにムサシの声が響く。

       

 同じように感じているのだ。なら躊躇いはない。義樹とムサシは同時に突進した。視界の端にシーズの姿が見えた。泣いていた。なぜ? そう思ったとき、妻と息子の姿が浮かんだ。

 死の間際、人はそのような幻覚をしばしば目にするという。ならば義樹は死んでしまうのだろう。

 済まない、許してほしい。哀願が口を突く。


 しかし萎れていてはムサシを救えない。義樹は未練を振り切り、さらにスピードを上げて体当たりを敢行した。重い衝撃を全身に感じた。意識が薄らいでいく。

       

 義樹の意識は大いなる時空を超えて、岩手県の南西部衣川の畔、持仏堂にあった。

 蠟燭に照らされる薄暗い堂内は、壁に寂し気な揺らぎを映しだしていたが、不意にその揺らぎがとまる。義樹の心の安定に、炎までが落ち着いたのかもしれなかった。


 殺戮を重ねてきた義樹が、御仏に手を合わせ必死に祈っている。といっても自らの延命を懇願しているのではない。未来の森でムサシと魂を触れ合わせ、無駄に命を落とした仲間や敵に罪を侘びているのだ。

 その目は兄である鎌倉に追いつめられ、全幅の信頼を寄せていた法皇にまで裏切られてしまったときの崩壊した人格ではなくなっている。今にして、ようやく仲間の愛と信頼を身を持って知ることができたからだ。


 あのとき義樹は一切の打算を持たず、ムサシの魂を救うことだけを考えて戦った。結果弾き飛ばされて、意識は今ここにある。虫としての義樹は間もなく死ぬ。ということは現代の義樹が死ぬことでもある。

 だが、それでもかまわなかった。過去世から続く課題を原点で清算できるのだ。気づかず無為に生きるよりどれほどましか。思えば九朗時代から悪戯に人を殺めてきた。武士であるから当然のこととし、供養することもしなかった。こんな時代に武士として生を受けたことを言い訳にしてきたのだ。


 義樹に足りないもの、それは慈愛。今はっきり自覚できた。仏に手を合わせ、郎党一人ずつの名を上げ、泣きながら非を侘びた。

 そのせいなのか、義樹を受け入れられずにいた近侍の心境も変わる。

「情愛の薄かった主君が、我らを思い泣いている」

 それは彼らにとって大変な出来事だった。鬼人のように強かった義樹だが、どこか大人になりきれず情愛に欠けていた。

「主は変わられた!」

        

 近侍たちから拒絶の心が消え去っていく。それよりも、この主とどこまでも生き抜き、最後まで我らがお守りするのだ。それも叶わぬなら、この場で共に自害するまでだ! と泣き崩れている。

 手入れのとどかぬ持仏堂の床は、近侍たちの涙で大いに濡れた。しかし義樹は、自害することも一緒にいることも許さなかった。泣き伏す近侍を強く諭すと、義樹が持ちうる財産のすべてを渡して持仏堂より立ち去らせた。

       

 その一部始終をムサシが見ているようだ。なぜなら義樹以外にいないはずの持仏堂に、啜り泣く声が聞こえたからだ。

 ムサシの思いは知っていた。

 身内が守ってくれた命を大切にしてほしい。そう願っているのだ。しかしながらそれは、この時代を揺らしてしまった人間としての尊厳の問題。武士らしく自害を選ぶ。腹に刃を立てながら、郎党、いや仲間一人ずつの名を呼び侘びた。

       

 と、突き刺した腹を一文字に割ろうとしたところ、どうしたわけか動かない。手に力を込めても奇妙な力で反対に押し返され、刃がそれ以上進まない。

「なぜ――」

 堂内に唯一気配を感じるムサシに向かって叫んだ。

 ムサシは立ちつくしたまま応えない。じっと動かずに状況を見つめている。なぜなら、その刃を三人の無垢な魂が涙ながらに押しとどめていたからだ。


 彼らの必死な姿は改心した義樹の心に映る。手を血だらけにして、絶対に死なせてなるものかと叫んでいた。その三人の顔がはっきりと瞼に焼きつけられる。彼らはともに苦難の道を歩んできた伊勢三郎、佐藤兄弟らであった。       

「主よ、我らのぶんまで生きてくだされ! 無駄に死ぬことはなりませぬ」

 彼らは感涙している。


 そこへいつのまにか魂が一人、二人集まり、堂内は郎党たちの魂で埋まっていった。それぞれに、死んではなりませぬぞと号泣している。

 義樹は腹に刃を立てながら、こんな至らぬ男になおも情をかけ、この身を惜しんでくれる彼らに筆舌に尽くしがたい感謝をした。

「済まぬ――」

 そう言葉を漏らすと、皆が皆、堰を切ったように泣きだした。弁慶が一人一人の肩に手をかけ、諭していく。

「主は今やっと目覚められた。ご慈悲だ。みな存分に、その目で生きざまを見とどけてくだされ」

 弁慶の言葉に堂内が水を打ったように静まる。蠟燭の炎が、彼らの涙でふっと消えた。


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