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3章 1

 その頃、静夏は連絡もせずに帰ってこなかった夫の安否を憂慮していた。

 今夜帰ってこなければ二日目である。喧嘩をしたせいで実家にいるのかもしれないとも思うが、夫は家庭のごたごたを安易に両親に話す人ではなかった。それに両親は、生活は裕福ではないが心が裕福だった。夫が家に帰らずに、いじいじしていたらすぐに一喝するに違いない。

 だとすれば事故に巻き込まれてしまったとしか考えられない。でも事故なら身分を証明できるものを持っているし、すぐに警察から連絡がくるはずだ。

       

 やはり朝村に関してのことなのか。

 水銀が空気に触れて気体になるよう、胸の中の大事なものが一気に失われていく。あのとき正直に言うべきだった。ほんとうは不倫ではなく朝村にレイプされかかったのだと。

 でも言えなかった。言えば夫は怒り、朝村を許さないだろう。

       

 夫は基本的に優しい人だ。それに拍子抜けするぐらいの子供っぽい一面を持っていた。だが理に合わない場に遭遇すると、烈火のごとく怒ることがある。

 例えば電車の中で、ちんぴら風の若者が乗客に言いがかりをつけていたとき、普段他人のことなど気にとめないはずなのに、夫はいきなり若者の首を鷲づかみにしてホームへ放りだしていた。その目は正義感に燃えるものではあったが、どこか戦国時代の武将のような好戦的で自信に満ちた表情を窺わせていた。

 その反面、女性にハイヒールで足を踏まれても怒ることもせずに我慢し、指先に血を滲ませて帰ってくることも度々あった。

       

 けれど静夏と朝村のことに関しては別問題だろう。

 静夏は夫と結婚して会社を退職するまで、朝村と同じ大手の広告代理店に勤務していた。交際こそしていないものの、上司として好意を寄せていた。そこへ夫が新入社員として静夏と朝村の部署へやってきたのだ。

 特に恋愛感情へ発展しないまま一年がすぎた頃、課長職に就いた朝村は夫の才能を見出し、新規で舞い込んできた食品会社のプレゼンの担当に夫を抜擢した。

 古風ながら斬新な発想がよかったのか、CMは好評を博し商品が爆発的に売れた。その後も夫は着実に成果を上げ、若手の実力者として地位を不動のものにしていく。

 

 夫を抜擢した朝村は、ほんらい喜ぶべきなのに地位を脅かされるのではと逆に焦る。というのも夫は社主に評判がよいうえ、スポンサーからもライバル代理店からも一目置かれるようになったからだった。またチームとして静夏が同じプレゼンを一緒に手掛けていたことも気に喰わなかったようだ。

        

 そして最近、霊的なことを信じる性分ではなかったはずの静夏だったが、無意識のうちに、自分の中に自分以外の何かを感じることが多くなった。

 特に夢の中で。

 確か夫にも聞かされたことがあったが、静夏も夢の中では夢を越えた夢を見る。鬼が人間を食べている夢だ。夫と違うのは、静夏が物陰にいつもじっと隠れていることだった。

       

「ここは地獄……すると私は犯罪者?」

 夢の中で、静夏は途方に暮れていた。永遠に繰り返される惨劇の中で失意の底にいた。どのくらいの時がすぎ、幾たび喰われたことだろう。徐々に心の微妙な変化が感じられてきた。逃げずに受けとめよう。そう考えるようになっていったのだ。

 不思議なことに、それ以来鬼に喰われることはなくなった。悪夢にピリオドが打たれた。でも鬼に食べられなくなってから、どこか夫の名残のような匂いを感じていた。

 もしや夫はずっといたのかもしれない。静夏が感じなかっただけで常にそこにいた。だから変われた。そうだとしたら会社でめぐり逢い、強く惹かれたのも、そして結婚したのも決して偶然ではないのかもしれない。

 でも、どうしてあの場所で夫の存在を意識したのだろう。もしかすると夫も犯罪者だったのだろうか。

 いや違う。あのとき感じたのは実体ではなく存在。包まれるような優しい風だった。

       

 静夏は窓に目を向ける。

 グラスの氷が解けてその形を崩すよう、ゆっくり夜が白み明けていく。

 息子の寝息がかすかに聞こえてきた。


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