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「皆も気づいているようだが、わしはじきに潰える。そうなるとこの閉ざされた森は人間の目にとまることになり、珍しい虫は捕獲されてしまうだろう」
その通りだ。義樹は頷いた。つい先日まで人間であったため、人間の考えることは手にとるようにしてわかる。人間は虫の命などよりもその商品価値に狂喜する。普段、人の目に触れない原始林であるこの森は、ありとあらゆる珍しい虫たちが生息している昆虫の宝庫だ。それに妖精たちもいる。彼女たちだけは絶対に守らなくてはいけない。決して人の目に触れさせてはいけないのだ。
「妖精たちを守ればいいのですね」
「それは心配することには及ばん。すでに次の候補地も決まっており、彼女らは新しい土地で森を守っていくだろう。問題は従わぬ虫たちだ」
義樹は大将蜂の言動を思いだした。政権が交代するとき、それまで従順だった者が反旗を翻すことが稀にある。それは全体を考えずに私欲に走ってしまうからだ。
虫に転生した犯罪者の中には人を苦しめることに喜びを見出す者もいるが、多くはやむにやまれぬ事情によって罪を犯した者たちだ。それによって悔い、再生の機会を与えられた。
だから、混乱に乗じて邪な考えに取り憑かれた者に加担してしまえば、二度と人間に戻れなくなってしまう。
「わしら世界樹は、人間のだす悪意を善意に変えるシステムを根本的に備えている。例えば植物全般が、二酸化炭素をきれいな酸素に作り変えていくよう、人の汚れた心を浄化できるのだ。そのほかにも――」
「そのほかにも?」
「おぬしには気づいて欲しかったが、まあよいか。我々植物は人の命の身代わりとなって死んでいくのだ」
返す言葉がなかった。鈍い義樹の頭でも、すぐにぴーんときた。
花が枯れて病人が奇跡的に助かった話をよく聞く。あれは偶然ではない。
去年息子が風邪をこじらせて脳にまで菌が入り込んだことがあった。すぐさま入院させて治療を受けたがまったく熱は下がらず、高熱のまま何日も危険な状態が続いた。意識は朦朧とし医師も手の施しようがなかった。
「普通であれば熱が下がって回復に向かうはずなのですが――むろん最善の手は尽くすつもりでいます。でも最悪の事態を考慮する必要があるかもしれません」
と、うな垂れて話す医師の言葉にどうしていいかわからなかった。帰宅後、部屋の観葉植物の前で、どうか息子の命を救ってくださいと泣きながら祈っていた。その観葉植物の名前は別名「幸せの木」ともいうらしい。近所の花屋さんで購入したものだった。
当初は別の花にしようかと思ったが、花屋のおばさんに事情を説明すると、だったらあんた、こっちにしときなよ。花と違って生命力が強いしさと説得された。
義樹はおばさんの言葉にすがった。妻と子供を病室に残し、部屋に帰ると夕食も食べずに幸せの木にしがみつき、寝てしまったことも何度かあった。そんなある日の朝、気づくと幸せの木が全部枯れていた。何ということだ、観葉植物は生命力が強くて枯れないはずじゃなかったのか。義樹は嫌な予感に襲われた。
案の定、スマホの着信音がけたたましくなる。まだ朝の七時前、緊急のこと以外でこんな時間に電話がかかってくることはない。
恐る恐る耳にあてた。息せき切った声がとどく。妻からだった。
「健太の熱が下がったの」
幸せの木はその命に代えて息子を守り、身代わりとなって死んだ。そのことをユッグに言われて初めて気がついた。そればかりか、おぬしには気がついて欲しかったと言ったユッグの言葉。もしかしてユッグは息子の病気も、木が枯れたことも知っていたのではないだろうか。
頭に衝撃が走る。それはまるで樹の深部から起こる荘厳な震えが、そのまま義樹の血管の中を通過していくようだった。
ようやくわかった。なぜかユッグはその頃から義樹のことを知っていて、守ってくれていたのだ。