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ヨウゾウとそんな話をしていると何やら叫び声がした。しきりに怒鳴り散らしている。そっと足元を見ると、一匹の小さな蟻んこが真赤な顔をして怒っていた。
「邪魔だ、どけ。どかなきゃ喰っちゃうぞ!」
小さいのにやけに生意気だった。これまで気にもとめなかった存在。気がつかないだけで、どれだけ踏み潰してきたかわからない。義樹は足で蹴飛ばしてやろうかと思った。
するとヨウゾウが、よすんだ、どこうと言った。
なぜだ? 義樹はヨウゾウの言葉に疑問を感じたが、何かわけでもあるのだと思い、言う通りにしてその場をよけた。
そうしたら「あほったれ。最初から素直にどきゃいいものを」と言うなり、蟻が噛みついてきた。ずきんと足に激痛が走る。
「痛! こいつ……何をするんだ」
義樹は腹を立て、角でその蟻を突き刺そうとした。それをヨウゾウが制した。
「行こう」
無理やりヨウゾウに押されていく。だがどうも合点がいかない。ただ話をしていただけなのに、どうして噛みつかれ、しかも道を譲らなければいけないのだ。義樹が不満を漏らすとヨウゾウが答えた。
「あいつらはこの森いちばんのハンター、軍隊蟻さ。逆らうだけ損だ」
半ばあきらめたように話すヨウゾウの返答に、義樹は納得がいかない。
「でもかぶと虫だって昆虫の王様じゃなかったのか。本で読んだ覚えがある」
「君は少し、いや大いに勘違いしている。体の大きさは関係ないんだ。例えば大きなヌーと小柄なリカオンがいるとする。ヌーはリカオンを襲わないけど、リカオンはヌーを襲って食べるよね。それと同じで僕たちは樹液を舐め、彼女たちは僕たちも食べるってことさ」
「彼女たち?」
「うん、蟻はアマゾネスさ。兵士も働き蟻も、すべて女で構成されているんだ。しかも女王によって性欲をそぎ落とされ、生きる意味を食欲だけにしか見出せないでいる」
「それって、どういうことだ」
虫の世界に疎い義樹が訊き直すと、ヨウゾウは少し閉口気味に答えた。
「つまり女でありながら、女としての機能を女王によって棄てさせられたということ。要するに虫の欲望の一つである交尾ができないんだ」
「まさか……」
「何がまさかさ。そんなことでいちいち驚いていたら虫に会うたびに腰を抜かすぞ」
ヨウゾウは小さな溜息を一つついた。それは、しっかりしろよと訴えかけているようにも感じる。でも衝撃的な話だった。考えても見なかったことだ。楽しみが食べることと交尾しかないのに、それを一族の長によって奪い取られてしまうなんて可哀そうとしかいいようがない。
「あのさ、カゲロウは知っているよね。彼らは蟻とは逆に自らの意志で食欲を消し去り、交尾だけのために生き、束の間の一生を交尾に没頭するんだ」
驚きすぎて声が出なかった。口を開けて呆然としている。彼らたちに比べれば人間の欲には果てがない。虫と同じで食欲も性欲もあれば、金銭欲、権力欲など物質から心まで、ありとあらゆる欲にまみれて生きている。
それに欲には限りがない。たとえすべての欲を手中に収めても、なお際限なく次々と別の欲望が現れ、気がつくと欲望の連鎖の中に埋没している。
どうしてだろう? 義樹は生命の源である虫になって、人間だけが唯一この地球上からはぐれて、とても大事なものを失っていったような気がした。文明の発達は自然との距離を創り、恩恵を忘れさせた。原点に帰れ! そんなふうにこの森が問いかけているように思える。
少しだけ生きる意味を考え、何気なくヨウゾウを見ると、どうしたわけか、どこかしら元気がなさそうに思えた。
「どうした」
義樹は声をかけた。ヨウゾウが、はっとして振り返る。でも表情は沈んだままだ。それでもぽつりと言葉を漏らす。
「あの蟻の彼女も、カゲロウたちも、以前は人間だったんだ」
「なら、かぶと虫だけではないんだ」
「ああ、彼女たち蟻は以前人間だったとき、必要以上に情欲に溺れ、あげく犯罪に手を染めてしまった人達なんだ。そのため交尾できない蟻にさせられた。カゲロウもそうさ。彼らは物欲のために殺人を犯した。だから罰として、すべての物欲を消されたんだから」
ヨウゾウの言うことは理に適っている。だからといって、そうそう簡単に信じられる話ではない。そこまで義樹の頭は柔軟にできていないのだ。
「でも仮にそうだとしても、どうして君にそのことが分かるんだ」
つい語気を荒げて言った。刹那ヨウゾウの表情に翳りが見えた。目に涙が溜まっているようにも感じる。どうしたのだろうか、強い口調で言ったせいなのか。
数秒後、ヨウゾウが話しはじめた。
「じつは僕もそうだったんだ。カゲロウの記憶も、蟻の記憶も、まざまざと頭の中に残っている。人間のときの記憶は薄っすらとしか残ってないけど、他にもいろいろな虫に再生したのを憶えている」
「……」義樹は押し黙り、ヨウゾウは目を伏せた。
長い沈黙が続く中、木々に反射する夕陽がまどろみながら淡くなり夜の訪れを告げた。昼と夜の狭間に、苦悩し続けるヨウゾウの転生が流れていく。
そうなのか。彼は何度も転生をくりかえしたのか。そうつぶやくと、沈痛な思いに駆られ、頭の中は人間だった頃の彼の暮らしぶりを想像していた。
たとえ自殺したとしても、まじめな生活をしていたのだろう。虫になっていてもその真摯さは失われていない。しかしそれが故に起こる葛藤、考えられなくもない話だ。たぶん悩んだあげくの自殺だと思う。
待てよ。ヨウゾウが自己紹介したとき、確か人間を失格したといった気もする。なら痴情の縺れで入水自殺した……彼なのか。
痴情? その言葉が脳裏をよぎった瞬間、なぜか妻の顔が浮かんだ。もしや男に付きまとわれていたのではないのか。そんな話をちらっと聞いたことがある。だとすると、不倫ではなくレイプの可能性だって否定できない。