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その夜、義樹は虫になって初めての夢を見た。とても不思議な夢だった。それはこの地球に人類が誕生する何億年も前の話であった。地球が生まれて四十五億年、長い年月をかけてやっと海に生命が誕生し陸へと上がる。その地球と壮大な生命の歴史の中で、義樹は一本の大木となって生物を見つめていた。
今では見ることのできない、原色の絵の具を塗りつぶしたような空に巨大な鳥が飛び、緑一面がただ広がる地上をさまざまな動物たちが駆け巡る。もちろん今より巨大化している昆虫たちもたくさんいた。
だが強い者も、弱い者も、皆義樹へ寄り添い、その身体を休めにやってきた。彼らは義樹の元では殺戮を忘れ、愛だけを育ませ新しい生命を創り出す。たとえ隣に敵同士がいても、決して争うこともせず魂を癒すと、またエネルギーを蓄えて外へ飛び出していく。
――どうしてこんな夢を。
ただの夢? それとも何かの暗示なのか。不思議な気持ちだった。捉われつつ、枯葉に囲まれた寝床を跳ね除けようとすると、中枢神経を麻痺させる異様な感覚にはっとさせられた。
義樹の身体に足を巻きつけて若い雌が眠っていたのだ。人間でいうなら、まだ二十歳前後のうら若き女性で、はちきれんばかりのフェロモンを振りまく女優のようだった。しかも寝乱れた姿を隠すことなくセクシーに。
虫になって二日目、人間のときに感じなかった雌のフェロモンに神経を侵され、目眩がする。雄としての生殖本能が覚醒されてふらふらとする。それでも理性はまだまだ充分に残っていた。義樹は木の葉と彼女をはねのけ外へ出た。
するとそこにヨウゾウが立っていた。彼は別段この状況を軽蔑するふうでもなく、にやにやしながら話しかけてきた。
「ふうん、意外とやるんだね。初日からもうお持ち帰りしたんだ」
「誤解だ。私は何もしてない。気がついたら彼女が隣に寝ていた」
懸命に身の潔白を証明をする義樹に、ヨウゾウはにこやかに言った。
「信じるよ。でも気をつけたほうがいい。彼女シーズといって、きみと同じで新顔だけど、この森いちばんの美人だからね。昨夜も彼女を射止めようと、荒くれ者たちが競い合っていた」
別に彼女を射止めようとも思わないし、ましてその雄たちと諍いを起こすつもりもなかった。けれども頭の中に不安がよぎっていく。ヨウゾウが言うには、この森のかぶと虫たちは認められた雄だけが家を持ち、そこへ獲得した雌を呼び入れ一夏の結婚生活をするという。だから雄が家に呼び入れない限り、雌のほうから雄の家には絶対に入ることはないのだ。
案の定かぶと虫の視点で家を見てみれば、葉っぱの中に潜り込んでいただけと思っていたねぐらは、木の枝できちんと造作を施してあり、屋根の代わりに葉を幾重にも編みこんであった。虫たちにすればまさに立派な邸宅である。
「どうしよう。私にはそんな気がないし、それにここは私の家でもない」
「そんなことはない。おそらくここが君の家だということは、昨夜僕が話をしたから皆知っているはずだ。でも彼女はどういうつもりでここに来たのだろう」
ヨウゾウは腕を組んで考え込んでいる。それというのも彼女は昨夜、この地区のミス女王に選ばれたらしい。ヨウゾウが言うには、ちょうど義樹がクヌギの樹液を初めて舐めた頃だと言っていた。でもそれが却って義樹にとっての幸運だともいえた。
普通であれば、新参者の義樹にゆったりと食事を堪能する機会などあるはずがないのだ。それを堪能するどころか、たらふく食べ満腹にした。でもそれは単に主だった連中が会場に行っていて留守だっただけのこと。義樹はこの世界の事情が分からずどうすることもできないが、ふっとサイモンの顔が浮かんだ。
「ヨウゾウはサイモンを知らないか。たぶんこの森のナビゲーターのはずなんだけど」
「サイモン? 聞いたことのある名前だけど、僕は知らないな。でも、ユッグに聞けばわかるかもしれない」
ユッグ? それはもしかしたら世界樹のことなのか。そしてここは、その世界樹が統治する世界なのか。気になる。でも今はそれどこではない。この場面をうまく切り抜けないととんでもないことになってしまう。知らないで済まされるような問題でない気がするのだ。
「何か妙案があったら教えてほしい」
「しょうがないな」
ヨウゾウはそう言うと、ずかずかと家に入り込みこの方法しかないという素振りで、乱暴にもぐっすりと寝ているシーズを足で小突き、叩き起こした。
「おい君、人の家でいつまで寝ているつもりだ。起きろ!」
ヨウゾウの剣幕に、夢現のシーズはゆっくりと起き上がる。
「ごめんなさい、ひどく疲れていたので眠ってしまったみたい」
「そんなことはどうでもいい。それよりもどうして君がここで寝ているか知りたい。この家が義樹の家になったことは話したから知っているはずだよね。どうしてなんだ」
シーズは女らしく身を整えると、さっきまで見せていた寝乱れた痴態を隠すように話し出した。それはまさに夜の顔と昼の顔を使い分ける、人間でいうなら淑女そのものであった。虫たちにもこんな一面があるのだ。義樹は内心感心させられた。
「じつは夕べ広場の近くの枝で仮眠をしていたら、いきなりフジモンが襲おうとしたの。私は怖くて懸命に逃げた」
義樹は凶悪なレイプ事件を想像して、どきりと胸を高鳴らせた。しかしヨウゾウは案外冷静で白けた感じで聞いていた。
「ふ~ん、それで……」
「逃げている途中で見覚えのある女性に会い、ここに隠れるといいと言われて、彼の家だとわかっていたけど入り込んだの。そして隠れながらはらはらして二人の争いを見守っていた。二人はしばらく睨み合っていたけど、ざわざわ大勢の虫の声が聞こえはじめると、そのうち静かになっていった」
「雄に対抗するなんて、勇敢な雌がいるんだ」
義樹はその雌の勇気に驚き、シーズを見つめた。
「そうなの、彼女は立派だった。でもその後どうなったのか憶えてないの。私はどっと疲れがでて、そのまま寝てしまったから」
「まあ大体詳細は分かった。けどシーズ、君も子供じゃないんだから覚えておくことだ。僕たちには理性がなくて、食欲と性欲しか頭の中にないってことをさ」
「うんわかってる。これからは気をつけるわ」
「そうさ、気をつけてくれなきゃ困るよ。だって君は今年のミスコンの優勝者なのだし、三日後に開かれる格闘大会のチャンピオンと結婚をして、最強の子孫を残すという使命があるんだからさ。こんなことで森の秩序を乱されてはかなわないしね」
かぶと虫に限らず、昆虫たちには最強の子孫を残すという定められた本能が備わっている。たとえば女王蟻と結婚する雄蟻たち。彼らは一匹の女王蟻をめぐりその強さを徹底的に試される。生き抜いた者だけが交尾の権利を与えられえるのだ。
シーズも蟻とは立場が違うが、色艶容姿とすべてにおいて他の雌かぶと虫を凌駕し、今年のミスコンの女王になったはずだ。だから三日後に雄のチャンピオンと交尾し、最強の子孫を残すという使命を定められた。
そのため他の雄と交尾をして、勝手に身籠ってはいけないのだ。もちろん恋愛感情などは許されない。それが選ばれた者達の宿命だ。だがシーズは近来稀に見るきわめて美しい容姿であるがため、三日後を待ちきれない雄たちが出現したとしても不思議じゃない。
シーズはいそいそと去っていく。その佇まいはまさに華だ。けれど、どことなく寂しげにも見えた。遠い昔に村のしきたりによって生け贄にされてしまった少女のようで切ない感じがする。
ただ強いからといって、どんな性格かも知れぬ雄と結婚をする。そこに彼女の意志はあるのか。仮に彼女と相思相愛の恋人がいたら、恋人は黙って引き裂かれるのを見ていることになる。虫たちは人間のように恋などしないのだろうか、好きになった人と結ばれることなど有り得ないのか、義樹は疑問に思った。
「虫には恋愛感情というものはないの」
「いやに高尚なことを訊いてくるね。でもこのことは、この先の君にも必要なことだから話すよ。僕たち虫は力の世界、弱肉強食なんだ。だから力のない者は餌も食べることも許されないし、雌と接触することもできない」
「だったら飢え死にしたり、女性の身体も知らずに死ぬこともあるのか」
「そうさ、あたり前だ」
「大変な世界だ」
しかしとヨウゾウは言った。弱い雄たちはしぶとい生存本能というものがあって、餌場に自分より強い雄がやってくると、戦いを挑まずにひたすら逃げ、強い雄同士が争っている隙を狙って樹液を吸うらしい。
性に関してもそうだという。雄同士が一匹の雌を奪い合い、死力を尽くして戦っている最中に雌の背後に忍びより、その身体に覆いかぶさって交尾してしまうらしい。やるもんだ。義樹は焼きつけられたシーズの面影を思い出しながら、弱者たちの生き抜く知恵に感服していた。
けれどシーズ、どこかに見覚えがあった気もする。もしかして?