8.青き大海原と白兎
初登場人物
・ウサギ……謎の兎男。
じつは初めて船に乗ったフウリは、甲板から身を乗り出して、いたく感激していた。
今日も天気がいいので、海の中に太陽が沈んでいるのではないかと思うくらい波が白く輝き、それでいて水はどこまでも青く深い。
それがどこを見ても見渡す限りに続いていて、波音が近く遠く終わることなくくり返されている。陸から眺めたり空から見下ろしたりする海とは、まったく違う別の顔を見せていた。
「空送屋じゃなかったら、ぼく、絶対船乗りになっているな!」
海と同じ色の瞳を輝かせて、フウリは誰にともなく宣言していた。内陸育ちで慣れない潮風に、鼻がひくひくする。海辺の空とは違ってまともに水分を含んでいるので、湿った長髪が首にまとわりついたが、そんなことなど気にならないくらい景色も気分もいい。空を駆けるときと似ているこの開放感が、たまらなく好きだった。
出港前からずっとこんな調子ではしゃいでいるフウリの横では、船に乗るという以前に青い色をした海を初めて見たソラトが、キラキラ光る波しぶきと群がるウミドリを飽きることなく眺めていた。
「ほんっとにこの世界は明るいよな。目がクラクラする。」
「でも大陸には季節ってものがあるらしいから、すごく寒かったり暗かったりするのかもしれないぞ。」
答えたフウリも、どこかで聞いた話から想像するだけなのだが、それもこれからナマで見られるのだ。あれもこれも、知らないものばかりがごろごろあるのだろう未知の世界が待っていると思うと、今にも叫びそうになるくらいワクワクする。
しかし、同じように興味があるはずのソラトは、心から笑っていなかった。
「……なぁ。お前、本当によかったのか?」
「ん?何が?」
「家を出て、仕事を休んで、帰れな……あ、いつ帰れるのかわからないんだぞ。」
「帰れるよ。」
ソラトが口に出すのをためらった言葉を引き継いで、フウリははっきりと言い切った。
「ぼくは死ぬつもりも、そんな覚悟もない。でも、なんでかな……せっかく知り合ったキミを放っておけなかったんだ。それに1人よりいっぱいいた方が、なんでもラクだろ?」
「それはそうだけど、ただ魔王に会うだけじゃ済まないかもしれない。場合によっては……オレは戦うつもりでいる。危険だし、これはオレが勝手にやっていることなのに、本当は巻き込みたくなかったんだ。」
「巻き込むとか自分の問題だとか、そんなのソラトが思っているだけだよ。アランとローシェも自分の都合で一緒に来たし、じつはぼくも前から大陸へ行ってみたかったんだ。だからキミが気にすることじゃない。……そんなにぼく、信用ないか?」
「少なくとも、寝起きの悪さはな。」
「う……。」
フウリは言葉につまった。それだけは言い返す余地が微塵もないことは、自分でも充分承知している。昔から寝るのが好きというか、起きるのが何よりも苦手で、たとえまわりが爆発しても寝続ける自信があった。
「でも、寝顔はかわいかったぞ。」
「うっ、うるさい!」
まじめくさった顔をニヤリとさせて、ソラトが付け足したので、フウリは本気で怒った。これだけ寝起きが悪いくせに、なぜか寝ているところを目撃されることだけは絶対に嫌いだった。いま思い出しても顔が赤くなってしまい、あわてて話題を変えた。
「と、とにかく、悪いことは言葉にしたら本当になるって昔ばあちゃんに言われたけど、逆にいいことだって思っていれば叶うさ。」
「驚いたな。オレもひいばあさんが同じこと言っていたって、母さんから教えられたんだ。」
「はは、どこの世界も一緒だね!」
笑い合う2人の間を、空に向かって潮風が駆け抜ける。エアプルームと同じようにエンジンと風を使って進む定期船は、今はいっぱいに広げた帆をはためかせていた。
「ウチの親は大陸に出張するって言ったら、大賛成で応援してくれたよ。お土産はソーテルネス地方のワインでいいってさ。」
「のんきだなぁ……っていうか、出張だなんて言ったのかよ。」
「えへへへ〜。」
悪びれることなく笑うフウリに、ソラトはあきれて肩をすくめた。
「まぁ、アランの方も問題なかったみたいだし。」
「ローシェは、ありゃ大変だったなぁ。」
「フランツおじさん、『娘を殺して俺も死ぬ!』の勢いだったからね……。」
無事に帰ってきて心臓が休まったかと思ったのもつかの間、いきなり大陸に行きたいなどと言い出した愛娘に、フランツは怒るかと思いきや、おいおいと泣き出してしまった。そしてお父さんを捨てるのかとか、ならば一緒についていくとか、駄々っ子のように大騒ぎになった。
間に入ったフウリの両親になだめられ、ローシェが旅先から毎日手紙を出すと約束して、43歳親バカ親父は涙をぬぐいながらしぶしぶ首を縦に振ったのだった。
――それでもローシェが折れないでがんばったのが、ぼくは1番びっくりしたなぁ。
横で見ていたフウリ達は笑いをこらえるのに必死だったが、クラレット親子にとってはおそらく嫁に行く日の次に一大事件であり、いつも引っ込み思案の幼なじみがここまで押し通したのは初めて見た。とはいえ、ラトゥール一家が総がかりで説得に協力して、夜中までかかったのだが。
「仕事もね、大丈夫なんだ。大陸本部に連絡してもらったから、あっちでも飛べるよ。」
港町ケントで船に乗る前に、フウリとアランは空送屋ファルギスホーン島支部に寄っていった。そこで老支部長に事情を説明すると、
――もちろんソラトや魔王のことなんか秘密でね。
アーケルはついに大陸デビューするのかと喜んで、帝都の空送屋本部に紹介状を送ってくれた。これで各支部に通達が入り、フリーの空送屋として仕事を請けることができる。もちろん2人ともエアプルームを持ってきていた。
「ところで、ローシェとアランはどうしたんだ?」
「アランは船酔いで死んでいるよ。ローシェは部屋で本を読んでいるんじゃないかな。」
「せっかく船に乗ってまで勉強しているのかぁ?」
「たぶん空想小説だよ。こーんな分厚い辞書とか文献も好きだけど、ファンタジーも大好物だから。」
フウリは大げさに両手を広げて、本の厚さを強調した。船にある書物……ほとんどは航海専門書や乗客向けの雑誌なのだが、中には推理小説や詩集などもあり、思ったより大きな本棚を見つけて目を輝かせていたローシェは、今ごろ嬉々(きき)としてそれらを読み漁っているに違いない。運動好きでエアプルームも乗りこなすアランが船に酔ってダウンしているのには、2人は気の毒に思いながらもつい吹き出してしまった。
「……ん?」
ふとソラトの方を向いたフウリは、目をまん丸に見開いて何度も瞬きをした。周囲にいる他の乗客の誰も気にすることなく、この青い空と海を背景にした船上のひとコマにあまりに自然に溶け込んでいるので、つい自分の目を疑ってしまったが、目の錯覚にしては不自然すぎる。
「え……えぇ?」
「どうした、のどでも詰まったのか?」
「いや、その……。」
怪訝な顔をするソラトに、フウリは目で彼のとなりを示した。ゆっくりとふり返ってとなりを見たソラトも、同じように驚いて言葉を失った。
いつの間にかすぐ横に立って海を眺めていたのは、明らかに人間の姿をしていなかった。
「やぁ、いい天気だね。」
帽子の中から伸びた2つの白く長い耳、宝石のような赤い眼、小さな鼻と数本のひげ……どこからどう見ても兎だった。それが黒いスーツを着て、瞳と同じ色の蝶ネクタイまでして、当たり前のように直立している。そしてごく普通に挨拶をしてきたのだから、フウリとソラトはどう答えたらいいのかわからなかった。
「まぁ、そんなに驚かなくてもいいじゃないか。兎もときには船に乗りたくなるものなのさ。」
「そ、そういう問題じゃなくて……」
「ん?ちゃんと乗船料は払っているぞ?」
「いや、でも兎だし……。」
「兎をバカにしたらダメだぴょん。」
――ぴょん……?
怪しむべきなのか笑ってもいいものなのか、フウリはのどが詰まったような中途半端な顔をしていた。兎男はにっこりと笑って、細めた眼をソラトの背中に向けた。
「それに君だって、なかなかおもしろいモノを持っているじゃないか。白翼の天使様。」
「……!」
不自然に膨らんでいるとはいえ、兎男はマントに隠れて見えないはずの翼を言い当てた。さっとソラトの表情がこわばる。
「あんた、いったい……。」
「ボクは見てのとおり、ただのしがない兎だよ。名前は……まぁ適当に、ウサギとでも呼んでくれ。」
――まんまじゃん。
フウリは口の先まで出かかったツッコミを飲み込んで、かろうじて場の雰囲気を壊すことなく黙っていた。ウサギと名乗った兎男は、もうすぐ入港するという連絡放送に、長い耳をぴくっと立てた。
「さて、そろそろ失礼するよ。君たちが追い求める先に真実があれば……またどこかで会うことがあるかもしれないぴょん。」
――だから、ぴょんってなんだよ……。
最後まで真剣なのかボケているのかもわからないまま、謎の兎男はさっそうと行ってしまった。にわかに風の方向が変わり、水平線の向こうに大陸の港が見え始めたが、2人はしばらくそこから動けなかった。
「フウちゃん、降りる準備は大丈夫?」
「……あ、あぁ。すぐ行くよ。」
船室から出てきたローシェに声をかけられて我に返ったフウリは、まだ海のどこかを見つめたままのソラトを置いて、先に荷物を取りにいった。
――大陸には、何があるんだろう。
何しろ大陸は広いし、ファルギスホーン島でうわさを聞くのはごく一部の話なので、もしかすると兎男がうじゃうじゃと普通に生活している地域があるのかもしれない。それはそれで見たような見たくないようなだが、どんな謎や真実がそこにあろうとも、フウリは受けて立つつもりだった。
――待っていろよ、魔王。
船が小刻みに震えて、スピードを落としながら入港していく。フウリはかばんを肩からさげて、ついでにとなりの部屋でうめいているアランを叩き起こして、何かに挑むように甲板へと階段を登っていった。