7.見上げる空、旅立ち
ついにファルギスホーン島でも魔獣の被害が出たという噂は、壊れた馬車を捨てて命からがらたどり着いた御者から、あっという間にメドウ谷中に広がった。これまで大陸での被害状況は聞いていたが、まだまだ遠い世界の話で、大陸との玄関口ケントでさえ実感が薄かった。
偉い学者によると、魔獣とは家畜から野生まで普通の動物が突如として狂暴化したものと言われている。眼が赤く光り、非常に獰猛で、力も数倍になってあらゆる生物を見境なく襲う。なぜ、どういうメカニズムで魔獣になるのかわかっていないため、病気説、神の怒り説、生物兵器説など、憶測ばかりが飛び交い不安が広がっていた。
ちょうど襲われた便に乗りあわせて一緒に帰ってきた乗客の中に娘を見つけたフランツは、危険を嘆くやら無事を喜ぶやら半狂乱の大騒ぎだった。ケガはないがまだ震えていたローシェは、猛烈な勢いの父にかっさらうように連れて帰られ、アランも心配しているだろう叔母のところへまっすぐに顔を出しに行ったので、フウリの家に全員がそろったのはしばらくしてからだった。
「……。」
姉弟と帰ってきて先に待っていたソラトは、2階の窓辺に立ったまま、ずっと外を見つめて黙りこんでいた。道端や庭先など、そこかしこで谷の住人たちが眉をひそめて噂話をしている。ほとんどすべての家で羊を飼っているので、いつ家畜が魔獣になって襲いかかってくるか気が気でないのだろう。
――ここにも魔獣が……やっぱり魔王の力なのか。
まさかこの世界にもいるとは、まったくの予想外だった。似ているところが多いと安心していたのだが、魔王の存在まで同じでは、いずれこの世界がたどる運命は……。
――それに、魔王は……もしかすると……。
「ソラト、みんなそろったよ。」
フウリに声をかけられて、初めて後ろに人がいたことに気がついた。アランが何かをのどに詰まらせたようなすっきりしない顔で部屋に入ってきて、生きた心地のしないローシェはそれでも真相を知りたさにやってきた。青い顔をしたリッカは、部屋のすみでじっと座って動かない。フウリが1番いつもどおりに振る舞っているが、時々ちらちらと落ち着かない視線を向けていた。
「……まずは、オレのことから話そうか。」
ソラトはふり返って、ひとつため息を落とした。
「オレはこことは別の世界から来たんだ。遺伝子構造の突然変異で翼のある人間が生まれるようになったっていうのは、前にも言ったとおりで、もうひとつ……あぁ、いや、なんでもない。」
とっさに口をつぐんだソラトは、視線を逸らせて何もなかったかのように平静を装った。有翼人の持つ力のことは、もうしばらくは黙っていようと考えたのだった。
――あのことがはっきりするまでは……それからでも遅くはないよな。
「とにかく、どういう関係でつながっているのかはわからないけど、ある力で光のトンネルを抜けたら、ここに落ちてきたらしい。」
「そこにぼくが通りかかったんだよね。」
途中で口を挟んだフウリに、ソラトは小さくうなずいて、また話を続けた。
「オレの世界では60年くらい前に、ほとんどの町も人も、文明も滅んだ。……『ロス・トイフェル』戦役と呼ばれる戦争でな。」
「『ロス・トイフェル』……!?」
アザニカ学院でのソラトと同じように、今度はローシェ達が驚いて互いに顔を見合わせた。
“解き放たれた悪魔”を意味する先の戦争は、こちらでは17年前に終結したが、滅亡まではいかなくても甚大な死者と被害を出した、大陸史上最大最悪の争いだったと言われている。それと同じ名の戦争が、もうひとつの別の世界を滅ぼした……。
「あの戦役以来、魔獣が至るところに出現していて、生き残った人たちは地下に隠れて生活している。どうして同じ名前で呼ばれているのか……2つの世界が似ているところは他にいくつもある。言葉や文化だけじゃない、エアプルームも知っているし、ガッコウだって昔はあったらしいからな。」
「あぁ、だから……。」
リッカがひとりで納得するようにつぶやいた。そのとなりでは、ローシェがメガネの奥の目を細めて、同じようで異なる世界を想像していた。
「あ、あの……。」
「ん?どうした、ローシェ?」
「あ、ご、ごめんなさい!し、質問があるんだけど……その、学院での反応からして、戦争だけじゃなくて、もしかして魔王も実在していたんじゃないかって……。」
どんな答えを期待しているのか、何に怯えているのか、ローシェは自分から言ったのにうつむいて縮こまってしまった。そう言われてみれば、というフウリの視線に、ソラトは逃げることなくはっきりとうなずいた。
「あぁ、そのとおりだよ。『ロス・トイフェル』は魔王が引き起こしたものだって言われている。少なくとも、オレの世界ではな。」
「魔王……そんな嘘くせぇ神話のヤツが、実際にいるってのか?」
1番後からのところしか知らないアランには、急に振って湧いたような別世界の話など、にわかに信じられない。しかし翼で空を飛んだ少年が現実に目の前にいるのだから、笑い飛ばして強く否定することまではできなかった。
「魔王の目的も、その後どうしたのかもわからない。でもヤツが魔獣を生み出して、世界を破滅させたのは間違いないんだ。だからこの世界も、このままじゃ同じようなことになってしまうかもしれない。」
「同じって、つまり、ドカンッ!……ってこと?」
さすがに直接口にするのははばかられて、フウリはわざと大げさに叫んでみせた。その不安な心情に応えて、ソラトもただ黙って肩をすくめた。が、ローシェ達を戦慄させるには充分な答えだった。
「せっかくたどり着いたこの世界を見捨てるわけにもいかないし、何より、もし本当に魔王が同じヤツだったら、訊きたいことが山ほどある。だからオレは……魔王のところへ行ってみる。」
「えぇっ……!?」
耳を疑う4人を見まわした少年の目には、疑いようもない固い決意があった。
どうしてこの世界に来たのか、魔王が何をしようとしているのか、それはわからない。しかし、ここでじっとしているわけにはいかなかった。
世界を救うなどと壮大な大義などない。ただ、あの広く美しい空から、色を失いたくはなかった。
「ほんの短い間だったけど、いろいろありがとう。じゃぁな。」
「待ってよ!」
目の前を通り過ぎようとしたソラトを、フウリが立ち上がって止めた。
「ぼくもついて行く。」
「何言ってるんだよ。さっきなんかより、もっと危ないんだぞ。」
「大丈夫だって!エアプルームと護身銃があれば、魔獣だって魔王だってへっちゃらだよ。」
「でも……。」
「それにキミだけじゃ、この世界のこと、よくわからないだろ?」
それを言われては、ソラトも言い返せなかった。魔王のところへ行くとは言ったものの、どこへどうやって行ったらいいのかなど、まったくわからない。それくらいは調べればなんとかなるとも思うのだが、フウリが言い出したら聞かないことは、“ほんの短い間”の付き合いでもよくわかっていた。
「しゃーねぇな。それじゃ、俺も一緒に行ってやるか。」
「アラン?お前まで何を……」
「大陸に行くんだろ?修行の成果を試す、いい機会だ。それに言っておくが、俺はお前のためなんかについていくわけじゃねぇからな。」
「じゃぁ、なんのためだよ……。」
ソラトはあきれたが、すでに腕をポキポキ鳴らせて準備運動までしているアランに、苦笑しながらも頼もしく思った。彼の武術の腕前はまだわからなくても、初めて見た魔獣に武器もないのに真っ先に立ち向かい、馬車を守って的確な動きをしていたことからも、度胸や判断力に心配はなさそうだった。
「本当に、いいのか?」
「ただ、しばらく仕事を休むことになるから、ボスに言っていかなきゃならねぇ。」
「それに、ちゃんと準備もしなきゃね。明日、ケントの港に集合しよう。」
「あ!あの……。」
おずおずと声を出したローシェは、真っ赤になってうつむいて、少しの間口をつぐんだ。言うべきか、言ってもいいものかと悩んだ末、精一杯の勇気を出した顔で続けた。
「私も、ついていってもいいかしら……その、帝国大学に行きたいんだけど、1人じゃ怖くて……。」
意外な申し出に、1番驚きながらも喜んだのは、彼女の幼なじみだった。
「ウィスタリアに行くかどうかは、まだわかんないよ?でも、ローシェがいたら心強いね。いろんなこと詳しいし。」
「でも、私、戦うなんてとても無理だし……。」
「心配しなくても、ローシェはぼくが守るから!……それより、おじさんの説得の方が大変なんじゃないの?」
「うん、どうしよう……。」
――ただの旅行じゃないんだけどな……。
ソラトは朱色の髪をかきながら思ったが、しかし文句を言うわけではなかった。
1人で行くと決めたものの、正直に言えば、独りではやはり不安が大きかった。それなのに、理由はそれぞれにどうあれ、こんないきなりで危険なことに同意を示してくれたのは、素直にうれしかった。
「僕はごめんなさい、学校があるから行けません。」
「いいよ、リッカ。別に行かなきゃならないものじゃないんだ。気にするなよ。」
「その代わり、学院の図書館で魔獣や魔王のこと、調べてみます。ローシェさん、後でさっき調べていた文献とか、教えてください。」
リッカもここに残って協力することを約束して、さっそくローシェから書物やノートを預かっていた。各自が親に説明し(ローシェは早くも苦戦を覚悟していた)、学校や職場に休みの連絡をしなければならないので、出発は明日の昼、ケント港から船に乗って大陸を目指すということになって、その日は別れた。
――魔王……もしあんたが本当に……なら……。
フウリとリッカも台所にいる両親のところへ行ったので、ソラトはひとりまた窓辺に向かって、薄い紫に染まっていく空を見つめた。部屋の中は、まるで彼の心を映し出すかのようにうす暗くなっている。しかし、ソラトは雲間に燃える鮮やかな赤の光に、かすかな希望を感じていた。
――雲の中に埋もれても、太陽は必ずどこかにある。オレはそれを探し出すために、ここへ来たんだ。
二度と戻らない、戻れない灰色の世界にも、かつてこれとまったく同じ空があったことを、有翼人の少年はまだ知らなかった。
青から紫、そして赤へと変化していく空の下――。
……草原の真ん中に横たわる、狼ではなくなった狼どもの死骸を眺めていた人ならざる人影は、冷たくなってきた風が吹きつける方角へと、再び歩き出した。
……冷たい風の中に生暖かい不吉な何かを感じた女性は、船べりをぐっとつかみ、眼下を流れていく雲を鋭く見つめていた。雲の海は、山も町も越えて、はるか空の果てまで広がっている。いつも見慣れたこの光景に、どうして胸騒ぎを覚えるのか、こんなことは初めてだった。
……紺色に暮れていく夕闇の雲を見上げて、町の一角に立っていた男は夜色のフードの下から目を細めた。同じ色のローブが突風にあおられて、一瞬、その中に隠れていたバラの刻印の柄があらわになる。男は薄い唇を片方つり上げると、気配もなく建物の中へと消えた。
……壮麗な城のまわりに広がる町に、夜の帳が足早に下りていくのを、男は見るともなしに見ていた。目の前で飛び交う議論に集中しなければならないのに、普段は空など見上げることもない男は、なぜかこの時、星のない夜空に言い知れぬ闇を見た気がして、心がざわめいた。
黒一色に染められた空の下に、いくつも集まり絡み合う思惑。
旅立ちの空は、すでに動き始めていた歯車の1つでしかないことを、彼らはまだ誰も知らなかった。