5.象牙の塔の見学会
ファルギスホーン島の中央に縦断するアザニウス山脈のふもとに、巨大学府アザニカ学院が設立されたのは、およそ200年前である。
当時は大陸との交流もほとんどなかったこの島で、大陸からやってきた若い学者のグループがめずらしい生物や植物を発見し、研究を続けるためにそのままそこに住みついたのが始まりだと言われている。その後、学生を中心に集まった人たちで村が作られ、レヴォン物理学者やベストセラー文学者を輩出するまでに至ったアザニカ学院には、交通の便が悪くまわりに何もない山地であるにもかかわらず、大陸からも多くの若者が訪れていた。
「……っていうのが、ここの概要です。」
突然やってきたフウリとソラトを、リッカは講義が終わってから学院内を案内した。もっとも、姉は1年前まで一緒に通っていたのだから、こんな説明は今さらだと思うのだが、むしろ初めての部外者よりも感心していた。
「へぇー、そうだったんだ。」
「姉ちゃん、知らなかったの?」
「へへ、授業中はいっつも寝ているか空を見ているかだったからな。」
悪びれることもなく、フウリは肩をすくめて笑った。いつも風の声に耳を傾けて空を眺めていた姉は、だから両親が最低限の勉強をするようにと約束した3年間の初等部を卒業すると、すぐに空送屋になったのだった。
「ガッコウって、勉強をするところだったのか。」
きょろきょろと見まわすソラトは、ダミアンの昔の服の上から大きめのマントを羽織っていた。ただでさえ知識欲旺盛な者たちが集まる場所で、背中の翼を知られると騒ぎになるだろうと思い、リッカが玄関ホールの鎧飾りから拝借してきたのだ。
「ソラトの世界には学校がないの?いいなぁ。」
「いや……まぁ、いろいろ大変だったからな。」
あいまいに顔を背けたソラトを、フウリは疑問に思うこともなく先に進んでいったが、リッカはその横顔に何か寂しそうな陰を感じた。
「あっちが講義棟で、そこの1階は食堂になっています。科目は歴史、生物生態、機工学、文化文学……あといろいろ、全部で10コースです。」
こんな山のふもとの田舎村には場違いな、美しく立派な建物がにょきにょきと立ち並ぶ敷地内を、まずは外からぐるっとまわって説明した。まわりに村人が住んでいるとはいえ、実際には世間と隔離された独自の世界となっている。
「リッカは何を勉強しているんだ?」
「僕はまだ初等部だから、全学科の基礎クラスです。来年、中等部に進級したら、工学系を専門にしようと思っています。」
「あんたは手先が器用だからね。きっと向いているよ。」
子供のころに作ったおもちゃの飛行船やからくり時計の話をフウリが自分のことのように自慢げに話すので、リッカは恥ずかしくなって先に行った。近所の友達から部屋にこもってばかりの暗いヤツだと言われてきたのを、誰にも口に出したことはなかったが、リッカ自身はずっと気にしていた。
――外で遊ぶのが嫌いなわけじゃないけど、姉ちゃんみたいに運動が得意じゃないし、物を作っている方が楽しいし。でも、やっぱり男は強くないとダメなのかな……。
将来は父の仕事を手伝って羊の世話をするものだと、漠然と考えてはいたが、本当に自分が何をしたいのか、リッカは考えれば考えるほどわからなくなる。だから、自分のやりたい仕事を楽しんでいる姉を、うらやましく思った。
「いいな。ここではみんな、生き生きした目をしている。」
3階の渡り廊下から芝生広場を見下ろして、ソラトがぽつりとつぶやいた。休憩時間の広場では、お弁当を食べる女の子たちや、ボールを蹴って走る男の子たちが、それぞれに笑ったり叫んだりしている。
――みんながみんな、勉強を楽しんでいるわけでもないんだけど。
姉のようにしぶしぶ勉強をしている者も少なからずいるのだが、リッカはあえて何も言わなかった。
学院規則に縛られ、試験に苦労し、それでも学生生活には独特の楽しさがある。将来の夢を語り合い、恋愛に一喜一憂し、自分の知らない世界を広げ……中にいると気付かなかったが、外部から言われてみると、確かにそれは今ここにしかない貴重な時間なのかもしれない。
――でもソラトさんは、なんであんなに悲しそうな目をしているんだろう……。
姉よりも少し年上らしいが、この学院では中等部か高等部に同じ年頃の学生がたくさんいる。ソラトは明るく笑っていても、現実の苦労を知らない学生とは明らかに違う、深く刻まれた憂いは隠しきれていなかった。
「えーっと、ここは……図書館?」
「アザニカ学院の図書館はすごいんだよ。大陸の帝国図書館にも負けないくらい、貴重な本がどっさりあるんだから。」
「へぇ、オレもここで勉強してみようかな。」
「そういえば、ソラトはなんでこの世界に……」
「あ、フウちゃん!」
図書館の入口から中をのぞいていると、重そうな本を何冊も抱えたローシェがこちらに気付いてやってきた。高等部の紫のケープは、ただでさえ少数なのにほとんどが研究棟の上階にこもっているので、めったにお目にかかることはできない。ただ1人、学院きっての天才と呼ばれている姉の親友だけは、家でいる時間よりも図書館で過ごしている方が長いというほど読書好きだった。
「どうしたの、こんなところで……あ。」
うれしげに走ってきたローシェだったが、見知らぬ少年がいるのを見て、びくっと足を止めた。フウリはお構いなしにソラトを目で示した。
「ローシェは初めてだよね。昨日、ちょっとしたことで彼を助けてさ、学院を見てみたいって言うから、案内してあげていたんだ。」
「ソラト=エルファスだ、よろしく。」
「あ、そ、その……ロ、ローシェンナ=クラレット、です……。」
ローシェは真っ赤な顔で、しどろもどろに答えた。自分も幼なじみであるリッカは、極度の人見知りである彼女のおびえ方を見て気の毒に思った。
――僕も昨日は驚いてどうしようかと思ったくらいだから、いきなり紹介なんかされても泣きそうになっているよ……。
しかしそんなことは気にしないフウリが、さらに声をひそめていたずらっぽく笑った。
「ね、ね、ローシェ。びっくりすること、教えてあげよっか?」
「え?な、なんなの……?」
「じつはね……。」
耳元でこっそり打ち明けた後、目を瞬かせるローシェに、フウリはまわりに誰もいないことを確認してからソラトのマントを持ち上げた。
「……ッ!!」
声もなく驚いたローシェは、ひっくり返って尻もちをついた。メガネの奥の目を、これでもかというくらいまん丸に見開いて、口をパクパクさせている。ソラトはやれやれと頭をかき、リッカはおかしそうに笑う姉をにらみつけた。
「姉ちゃん、笑っている場合じゃないよ。」
「ごめん、ごめん。ローシェがあんまり予想どおりにびっくりしてくれたからさ。」
「オレは見世物じゃないっての。」
「ソラトもごめんってば。でもローシェ、本当に天使様の翼はあっただろ?」
話を振られたローシェは、数秒の間をあけてから、ハッと我に返って反射的にうなずいた。兄セラの事故があった日、フウリが天使に出会ったという話を知っているのは、リッカとローシェだけだった。他の誰も信じてくれないだろうと思ったからだが、彼らもこれまで半信半疑だった。
「ほ、本物の天使様、なの……?」
「オレは人間だよ。オレの世界では遺伝子構造が変化した子供が20年くらい前から生まれるようになって、有翼人って呼ばれているんだ。」
「ゆ、有翼、人……。」
「そ。だからそんなに警戒しなくて大丈夫だって。」
今度は瞬きをするのも忘れて見上げていたローシェは、最初の衝撃が過ぎると、ようやく詰まっていた息を吐き出した。あまりに驚かれたソラトも気の毒だが、最初から遠慮も物怖じもしないフウリが特別なのだということを理解してほしいと、リッカは横から眺めながら思った。やはり、マントで翼を隠しておいて正解だった。
「それで、ローシェは何をしていたの?」
「あ……これ。先週出た新刊の記事を、文献で調べていたの。」
ローシェはあくまでソラトと目を合わさないようにしながら、ようやく立ち上がって答えた。ぱらぱらと開いて見せたのは、大陸で発行されている新聞や帝国学会の報告書など、3人がのぞきこんでもさっぱりわからない内容のものばかりだった。
「……で?」
「えぇ?」 だからなんだと逆ギレぎみのフウリに問い返され、ローシェはますます焦った。「えっと、つまり、最近増えてきている凶暴な獣、魔獣の発生原因と動向についての研究なの。」
それを聞いたソラトの目が、わずかに鋭くなった。しかしフウリの影に隠れるように小さくなっているローシェは、気付かずに説明を続けた。
「ファルギスホーン島ではまだほとんどいないけど、大陸では被害が毎日のように出ているらしいわ。それで市民や教会では、神話に出てくる魔王がよみがえったんじゃないかってうわさが広がっていて……」
「魔王……!?」
急にソラトが叫んだものだから、ローシェはまた本を床にばらまいてしまった。ただならない様子の有翼人に、リッカとフウリも息を呑んで黙り込んだ。しばらくの間、ソラトは険しい表情でじっと床の一点を見つめていたが、やがて目を閉じてため息を落とした。
「……ごめん、大きな声を出して。」
「な、何かあったの?」
「あぁ、ちょっとな。……その魔王っていうのは、本当に現れたのか?」
「そ、それは、あの……。」
「ローシェさん、落ちついてよ。まだうわさなんでしょう?」
ソラトとは直接会話もできないほど緊張しているローシェも、リッカに尋ねられたらどうにかうなずくことができた。
「う、うん。それに悪魔の王なんて神話の中の存在だから、帝国学会は『ロス・トイフェル』戦役時代の生物兵器かもしれないって……」
「『ロス・トイフェル』だって!?」
「ひゃっ……!」
答えるごとにソラトが怖い反応をするので、今度こそローシェはメガネを落とすほど飛び上がってフウリにしがみついた。図書室から出てきた黄色い初等部のケープの学生が、入口で立ち尽くしている4人をじろじろ見ながら通り過ぎていったが、当人たちはそれぞれにそれどころではなかった。
「まさか、それじゃぁこの世界も……。」
「ソラトさん、大丈夫……?」
リッカが恐る恐る声をかけると、ソラトは意を決したように顔を上げた。
「オレ、いったん帰る。」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
すでにきびすを返して歩き出したソラトを、フウリがあわてて追いかけた。
「ワケがわかんないよ。どうしたんだ?」
「……帰ったら、話すよ。」
「うーん、わかった。リッカとローシェはどうする?まだ授業があるの?」
「わ、私は今日はもともと何もない日だけど……。」
「僕も午後からはレポートを書くだけだったから、ローシェさんも一緒に帰ろうよ。」
「それがいいよ。ほら、さっき言ってたみたいに、いつこの島にも魔獣が出るかわからないんだからさ。」
まだ腰が抜けたようなローシェも小さくうなずいて、4人は一緒にメドウ谷へ帰ることにした。リッカは急いで教室に置いたままのかばんを取りに走りながら、先ほどの話とソラトの態度を思い返した。
――魔王、か……まさか本当にいるとは思えないけど、ソラトさんは何かを知っているのかな。あんなに驚いていたなんて、もしかしてソラトさんが悲しい目をしているのと、何か関係があるとか……。
「おーい、リッカ!早くしないと馬車が来るぞ!」
「あ、うん。すぐに行く!」
かばんをつかんだところで下から姉の叫び声がして、リッカは考えをまとめる暇もなく教室を飛び出した。