40.絶望と希望の世界に
教皇クラウ3世が目を覚まさない――。
夕暮れのまぶしい光と濃い闇が包み込む大神殿の一室には、悲愴な沈黙が押し広がっていた。
襲撃してきたローゼン教徒は、ほとんどが武器の扱いに慣れない一般市民だったため、数十人の修道騎士によってすぐに鎮圧されていた。その後、知らされた教祖クロイツの死によって消沈し、逃げたり悔い改めたりと散り散りになった。すぐに噂が伝わった各町では、暴動こそ起こっていないまでも混乱が見られ、今も修道士が教義をくり返して動揺を収めようと躍起になっている。突然起こった宗教戦争は半日で終結したが、セフィロト教が受けた傷は深かった。
「ねぇ、教皇様は大丈夫なの?」
たまりかねたフウリが誰にともなく尋ねたが、誰も答えなかった。ここに運び込まれてきて数時間がたつが、クラウ3世は浅い呼吸をどうにか保ったまま眠り続けている。このまま教皇までをも失うことになれば、再び大きな動揺が広がるのは抑えきれないだろう。今はまだ、この教会本部内だけにとどめている教皇危篤の噂も、いつまで秘密にしておけるかわからない。
――“生命の樹”の呪い、か……。
エリアーデは腕を組んで壁にもたれ、黙ってまわりを見まわしていた。ドクター・クロードとケセドが横たわる教皇に付き添い、他はそれぞれに床や窓の外を見ている。
正門の守備から戻ったエリアーデ達は、アランからクロイツ=ローゼンとの対峙とその顛末を知らされた。直接見たことはないので、その圧倒的な威圧感や異様な雰囲気に対する恐怖はわからないが、教祖の悲しい運命と壮絶な最期を聞くと、同情さえ感じられた。他にあるとすれば、運命という名の、神が与えた呪いに対する怒りか。
――でも、それもあたし達の心のせいなのか。
リヒトが言ったとおりならば、“生命の樹”が枯れるのも呪われた者が生まれるのも、すべては歪んだ心が自ら望んだ結果なのだ。空賊を名乗り、法に触れることをいくつもやってきたからには、今さら正義をかたるつもりはない。ただ、人の道に外れることだけはするなという義父の教えは守ってきたつもりだ。そして命や信じるものを守るために闘う者を見ていると、放ってはおけない性分だった。
――なんとかしてやりたいわね。まだこんなに若いのに。
教皇もここに集まった者のほとんどが二十歳前後の若者だというのに、懸命に神が定めた世界に抗おうとしている。最初は――もちろん今も――“生命の樹”の力を得るために天使を狙っていたが、ここまで乗りかかったのならば何か力になってやりたいと、エリアーデは思った。
「……クラウリルに課せられた呪いは、意識を奥底に引きずり込んで、体ごと封じてしまうというものだ」
ぽつりと、クロードがつぶやいた。眠る青年をじっと見つめる目は、いつものように冷たく無表情だが、医師として友として、助けることができない己の無力さを押し殺しているようにも見える。
「もしかすると……もう、このままかもしれない」
「そんな……」
フウリだけでなく、その場の全員が絶句した。最悪の可能性として考えてはいても、はっきりと言葉にされると現実になりそうで、恐怖が何倍にも膨れ上がる。エリアーデが翼ある少年にちらりと目をやったとき、先に気にかけていたのはフウリだけだっただろう。
「ソラトの呪いは、ぼくが絶対に解いてやる。教皇様だって、こんなにみんなを助けようとしているのに、1人で苦しんでいるなんておかしいよ」
「でも、どうすればいいんだろう……」
憤る姉に、リッカが戸惑いながらつぶやいた。再び重苦しい沈黙がのしかかる。生命の流れを淀ませていた教祖は消えたが、大陸中で激化している戦争と宗教の混乱で、負の力は激流のように渦巻いている。そんな中でエネルギーの流れを見極めるのは、リヒトでもむずかしかった。
「……ヘチマ島」
突然クロードが口にした言葉は思いがけないもので、エリアーデ達は理解できずに眉をひそめた。
「クラウリルが倒れたとき、最後にそうつぶやいていた。もしかして、そこに“生命の樹”があるのかもしれない」
「でもぼく達、へちま島へ行ったことがあるけど、大きな樹なんてなかったよ」
フウリが言うと、ケセドとエリアーデ以外の者たちもうなずいた。彼女たちはリヒトに会うため、帝都ウィスタリアから船に乗って、南海の孤島へと渡ったことがあると話した。へちまの形をしたその島は、茶色い砂と灰色の岩場が広がるだけの不毛の地だった。神と呼ばれる“生命の樹”どころか、まともに生きている木さえなかった。
「南海の孤島?」 今度はその話を聞いたクロードが首をひねった。「その島のことは知らんが、俺やクラウリルが住んでいた北方地域では、東のファルギスホーン島をヘチマ島と呼ぶことがある」
「ファルギスホーン島!?」
フウリとアランが素っとん狂な声で叫び、リッカとローシェも目を見張った。そういえば、彼らはその東の島からやってきたのだと、エリアーデは前に聞いたことを思い出した。
「ファルギスホーン島は、神話に出てくる巨大牛の角から名前がつけられたって……」
ローシェが説明するまでもなく、大陸の者でもその伝説は聞いたことがある。もちろんクロードも知っていたが、雪に閉ざされた町エクリュでは独特の説話があった。
「雪の中でも育つルファーヘチマというものがファルギスホーン島の形と似ていて、そこからやってきた天使が食料に困っていた北方地域にもたらしたと言われている。最近はヘチマ島と呼ぶ者も少なくなったが、エクリュの住人なら誰でも知っているぞ」
エリアーデはわずかに体を起こして、ニヤリと笑った。世間には知られていない限られた伝説と、教皇が残した言葉……体中の血がめまぐるしく沸き立つ興奮を覚えた。これは間違いなく、何かがある。世界の宝を追い求める女空賊の長年の勘が、そう直感していた。
「おもしろそうじゃない。行ってみましょう」
「でもエリアーデさん、ファルギスホーン島に“生命の樹”なんか、あるわけが……」
「あるかないか、行って確かめてみればいいじゃない。どうせここでこうしていても、何も解決しないんだから」
考えるよりも、まず行動。そして自分の感じる世界を信じること。空賊の信念に真っ先にうなずいたのは、空を愛する少女と空を駆ける翼の少年だった。
「連れて行ってください、エリアーデさん!」
「オレも行きたい。行って、“樹”を見つけたい」
「あんた達、いい空賊になれるわよ」
アラン達も次々に立ち上がり、口々に同じことを言った。エリアーデはふふっと笑うと、颯爽と部屋を出て、先に船の準備をしに戻った。
――これだから、あのコ達といると退屈しないのよね。
国の軍隊と一戦交えるときや、ライバルの空賊団と宝をめぐって争うときに感じる、緊張と期待と胸の高鳴り。空が続く限り世界の果てまででも挑む覚悟は、空賊の証であり、誇りである。その先に何があろうとも、前に進み続けるのみだった。
意識の戻らないクラウ3世の看病をするため、ドクター・クロードは大神殿に残った。残る7人がジーク号に乗り込み、いつでも全速力で飛べるように準備を整えていた飛行艇は東に向かって飛び立った。
ファルギスホーン島までは、大陸の半分と海を越えなければならないため、飛行艇でとばしても2日はかかる。闇夜の空を進むジーク号の進路を確認したエリアーデは、部下たちにいつもどおり見張りを続けるように指示を出すと、自室で少し休むことにした。
「兄貴は大丈夫なのか?」
――……?
甲板の見まわりをしてから船室に降りようとしたところで、話し声が聞こえた。エリアーデは扉の取っ手にかけた手を止め、声がしたそっと左弦をのぞいてみると、2つの白い翼が見えた。
「兄貴も、どこか具合がよくないんじゃないのか?」
「心配するな。わたしは問題ない」
「そんなはずないだろ。オレには言えないのかよ」
「……」
「兄貴は昔からそうだ。いつだって、自分のことは話してくれない。オレのことはなんでも心配して助けようとするくせに」
ソラトが声を荒らげても、リヒトは眼下の山を見つめたまま動かない。エリアーデは立ち去ろかとも思ったが、壁に背をつけてとどまった。ソラトの兄だという以外わからない長身の男――同じ翼を持つからには、彼もまたなんらかの力と呪いがあるはずだが、あの憂いに満ちた哀しい眼が気になった。しばらく2人の沈黙が続いた後、リヒトが口を開いた。
「お前は、両親のことを覚えているか」
「え?いや……写真しか知らないよ。オレが生まれてすぐに死んだんだろ」
「わたしもほとんど覚えていない。その後、残った曾祖母が最後まで我々の面倒をみてくれた」
「ひいばあちゃんも、オレが2歳くらいのときに死んじまったんだよな。なんとなく、記憶がある」
話の方向が見えなかったが、似たような過去があるエリアーデは、彼ら兄弟の気持ちと苦労はよくわかった。幼いときに戦争で親を亡くした彼女は、偶然にも始めたばかりの空賊の一団に拾われ、船長リオネルと空賊たちに育てられた。
――あたしには大勢の仲間がいたから、身内はいなくてもみんなが家族だった。でも、あいつらはたった2人で……。
2人きりで残された兄弟は、どうやって生き抜いてきたのだろうか。天使の不思議な力があっても、並大抵のことではなかっただろうと、エリアーデはお節介だと思いながらも同情して胸が痛くなった。
――ふふ。これじゃぁ、あたしもセファスのことを笑えないわね。
他人のことにも平気で涙を流す人情家の男を思い出し、エリアーデは思わず自嘲した。
「どこまで知っていたのかはわからんが、彼女は呪いの存在にある程度気付いていたようだ。“宇宙樹”が枯れて空が死んだのは、自分たちの心のせいなのだと」
リヒトが話すのを、隣のソラトも後ろで隠れているエリアーデも、黙って聞いていた。
「我々の翼は、世界が残した最期の希望だと言っていた。世界が滅んだ原因も、狂った動物が魔獣となったことも、自分たちに課せられた運命も……すべては人々の願い、欲望、恐怖、希望がもたらした結果なのだ。魔王が滅ぼしたと言われているのは、ただの責任逃れの抽象的表現に過ぎない」
「『悪いことは言葉にしたら本当になる。逆にいいことだって思っていれば叶う』……ひいばあちゃんがよく言っていた言葉だよな」
ソラトが懐かしげに、得意そうに笑った。彼ら兄弟の生まれについてよく知らないエリアーデは、世界が滅んだという意味はわからなかったが、天使の翼は世間で言われているような美しいだけの存在ではないのだと思った。リヒトは長い髪を風に流しながら、遠い過去を見つめるように目を閉じた。
「『たとえ呪われた運命から逃れることはできなくとも、大切なものを守れるまでは私が守り続ける』――彼女は最期にそう言った。だからお前を守るため、わたしは死なない。それが彼女の願いだからだ」
リヒトはさっときびすを返し、船首の方に消えた。呆然と後ろ姿を見ていたソラトは、再び星のない空に何かを探して心をさまよわせていた。横風がマントをすくい上げ、白い翼が暗闇に解き放たれる。自分はここにいるのだと、誰かに存在を証明しているかのように。
――願いが人を守る……案外、世界っていうのはそういうものなのかもね。
エリアーデはゆっくりと立ち去り、船室に入ってタバコに火をつけた。世界を支えているという“生命の樹”が、人々の心によって作り出されたものなのだとすれば、世界はどこへ向かおうとしているのだろうか。曖昧で不確かで、希望と絶望が紙一重でせめぎ合う世界。絶対的な力も永遠の存在もなく、ただ流れていく想いだけが生きる世界で、守るべきものとはなんなのか。
「ふう……」
タバコの煙を吐き出して、エリアーデはふふっと笑った。世界の理などと大それたことを考えるなど、ガラでもない。世界はなるようになる。だが、今は彼ら兄弟の曾祖母が願ったことを信じてみたいと思った。