3.雲間から舞い降りた白翼
初登場人物
・ソラト=エルファス……白い翼を持つ少年。19歳。
・リッカ=ラトゥール……アザニカ学院初等部に通うフウリの弟。15歳。
・ダミアン=ラトゥール……フウリの父。
アザニウス山の火口でアランと別れたフウリは、残った配達物を届けて家に帰るため、南に向かって飛んだ。
右側から、透き通った赤黄色い光が押し寄せてくる。目を細めると、海と空を焦がす大きくて真っ赤な夕日が見えた。ちりぢりに浮かんだ雲が、大海原に漂う波と同じ姿を映している。
――あの向こうに大陸があるのかな。
今の生活は気に入っているが、いつかはあの大空の彼方に飛び出してみたいと、子供のころから憧れていた。そのきっかけとなった出来事……10年前のあの日のことは、今もはっきりと覚えている。
――お兄ちゃんが死んだ日……そして、天使に出会った日。
まだ7歳だったフウリは、突然聞かされた兄の訃報も、いきなり目の前に現れてすぐに去っていった白い翼の男のことも、理解するにはしばらく時間がかかった。そうして長い間考えた末、この世界とすべての生命を支えている“生命の樹”が兄を呼び戻し、そこから案内の天使がお迎えにきたのだろうと、自分の中で納得することにした。
「……ん?」
メドウ大草原の北にそびえる双子の岩山近くまで来たとき、雲の間に何かが見えた気がして、フウリはエアプルームの速度を落とした。
飛行している間はエンジンを切って、鳥と同じように風に乗って上昇しているため、空中で完全に停止することはできないが、翼の角度を変えて気流をとらえたら緩やかに漂うことはできる。巧みに風の動きを読み、微妙なバランス調整をするフウリの技術や感覚は、アラン達先輩空送屋でも及ばない。
――風が、騒いでいる……。
浮力を維持できるギリギリの速度でエアプルームを操りながら、フウリは夕焼け空にじっと目を凝らした。急に風の流れが淀み、音でない何かで彼女に異常を知らせている。
隊列を組んで横切っていく黒い鳥の群れ、ちぎれた雲の尾、赤紫色に変化し始めた山際……。
「あっ!」
息を呑んだときには、思いきりハンドルを前に押していた。同時にエンジンスイッチを押して、一瞬で顔がのけぞるスピードに加速する。しかしフウリは両手と両足をふんばって、一直線に飛んだ。雲間からおぼれ落ちた、黒でありながら白く光る影に向かって。
「もう、少し……!」
左手だけでハンドルを操作して、ぐっと右腕を伸ばす。もうすぐそこまで追いついたが、ちょうど正面にきた夕陽が逆光となって、目標の形がはっきりとわからない。フウリは見失わないようにできる限り目を開けて、ひたすらまっすぐに落ちていく何かを目がけて手を開き……岩山に激突する寸前で、ついに「それ」をつかんだ。
「あ、危なかったぁ……えっ!?」
想像していたより重くて、危うく滑り落としそうになったので、つかんですぐにそのままデッキに引っ張り込んだ。何かもわからずに反射的に追いかけたものの、ようやく姿かたちを確認したフウリは、びっくりして素っとん狂な声をあげた。
それは、フウリと同じ年頃と思われる少年だった。夕焼け空と同じ朱色の髪、ボロボロに破れた灰色の服、細身で少しやつれた顔……そして、背中に折りたたまれた2つの大きな白い翼。
「天使、様……?」
恐る恐る小声で呼びかけてみたが、ピクリとも反応しない。意識がないが、呼吸はゆっくりと静かに続いている。フウリはいつの間にか風が穏やかになったことに気付かず、ドキドキしながら食い入るように少年の顔をのぞき込んだ。
――あのときの天使とは違うみたいだけど……。
10年前ははっきりと顔がわからなかったが、雰囲気がどことなく似ている気がするのは、幻のはずの天使を2度も見たからなのだろうか。もし同一人物でもそうでなくても、以前は天使が現れた直後に兄の事故の知らせが届いたことを思い出し、不吉な胸騒ぎを覚えた。
「……とにかく帰ろう。」
このまま彼を放っておくわけにはいかないし、とにかく家族の安否を確認したい。フウリは1人乗りのエアプルームに意識のない天使を乗せて、バランスをとりながら双子山の向こうの谷を目指した。
急速に深くなっていく夕闇の空に、小さな一番星が輝いていた。
自宅の裏庭にゆっくりと着陸したフウリは、細身とはいえ自分より長身の少年を抱えて家の中に入った。当然、びっくりした母親から質問攻めにあったが、まずは空いている部屋に寝かせて落ち着けた。
「……で?」
待ち構えていたアラベラが、部屋から出てきた娘を捕まえて食卓に座らせた。しかし何がどうなっているのかは、フウリも訊きたい。わかっているのは、帰り道に突然空から落ちてきたということだけだった。
「……で、とりあえずウチに連れて帰ってきたんだ。」
「あの翼を見るまでもなく、空から来たってだけで普通の人間じゃないわね。」
「お父さんとリッカは?」
「お父さんは羊小屋で道具を片付けているわ。リッカももうすぐ帰ってくる時間よ。」
「ぼく、ちょっと見てくる。」
やはり心配なので、フウリはもうしばらく目が覚めないだろう少年を母に任せて外へ出た。
あたりはすっかり暗くなり、明かりが灯った家々の間をくぐり抜けるように石段を降りていった。急いで行きたかったが、途中で残っていた手紙2通を届けていくのは忘れない。それがプロの空送屋である。
そしてようやく谷の住人が共同で使っている羊小屋につくと、水おけや鋤を片付けている男たちの中に父ダミアンを見つけた。
「お、フウリじゃないか。帰っていたのか。」
「うん、ただいま。お父さんもみんなも、何も変わったことはなかったよね?」
「いいや。昼過ぎに仔羊が生まれた以外は、いつもどおりだったぞ。」
「そっか、よかった。」
「なんだ?どうしたんだ、フウリ?」
父は首をかしげたが、ほっとしたフウリは小屋に入ることもなく、すぐにクルリときびすを返して、そのまま石段を終わりまで駆け下りた。
谷の入口から広がる草原にはすでに羊の姿はなく、紺碧の夜空にはにぎやかな音が聞こえてきそうなほどの星屑が瞬いている。
――リッカは……?
真っ暗な星明りの闇の中を、南西の方角にじっと目を凝らした。どんどん冷たくなってくる風に溶け込むように、耳と目と全身でその流れを探る。
「……来た!」
遠くにかすかな馬の足音を捉え、フウリは思わず顔を上げて叫んだ。その方向へまっすぐに走っていくと、しばらくしてアザニカ学院からの定期馬車が見えてきた。今朝早くにローシェが降りたその場所で、停車した馬車から数人の学生たちががやがやと降りてくるのを、フウリははやる気持ちを抑えて待っていた。
「あれ?姉ちゃん?」
「リッカ、大丈夫か?どこもケガしてない?」
いきなり現れて問い詰めてくる姉に、リッカは驚いて呆然としていた。少しクセのある黒髪は姉や母とそっくりで、見開いた目は父親と同じうすい緑色をしている。横から明日の約束を言って先に行く友達にあわてて返事をして、リッカは姉にうなずいた。
「僕はなんともないよ。姉ちゃんこそ、どうしたの?」
「んー、ちょっとね。リッカ、帰ったらびっくりするなよ。」
とりあえず家族の無事を確認できて、フウリはひと安心だった。そしてワケのわからないリッカと並んで歩きながら、母親に話したのと同じことを説明した。信じられないような話だったが、リッカはすぐに姉が来た理由に気付いた。
「……今度はお父さんやお母さんまで連れていかれなくて、よかったね。」
「あんたも、お兄ちゃんのことを思い出したの?」
「あのとき姉ちゃんが出会ったっていう天使様が、セラ兄ちゃんを迎えにきたんだって、僕も思っていたんだ。」
稀代の天才と言われる姉の幼なじみほどではなくても、学院初等部では優秀な成績を修めているリッカは、家族を心配するフウリの気持ちを読みとって微笑んだ。いつも物静かにひとり考え事をしている弟も同じように考えていたことを初めて知って、フウリは仲の良かった3人兄弟がまたそろったような気がした。
――っていっても、リッカは小さかったから覚えているのかな。
まだ5歳になったばかりだった弟は、自分が泣いているのになぐさめようとする姉を見て、死というものはわからないながらも、絶望的な何かは理解していたようだった。年の離れた兄に、どこへ行くにもついていって遊んでもらっていたフウリとリッカは、それ以来、ずっと2人きりの姉弟として助け合ってきた。
「天使様、今度は何をしにきたのかな?」
「さぁ。早く気がついてくれればいいんだけど。」
1年だけ同じ初等部だったころはよくそろって通ったこの道も、空送屋になってからは一緒に歩いたのは初めてだということに、フウリは谷の石段を登りながら気がついた。
「ただいまー。」
「お母さん、どう?」
「お帰りなさい。天使様は、まだそのままよ。」
「驚いたな。本当に翼があるとは。」
家に入ると、ダミアンも帰っていて、妻からちょうど天使の話を聞いていたところだった。昔セラが使っていた奥の部屋をのぞいてみると、少年は今も眠っていた。
「……ん……。」
その物音に反応したのか、あるいは4人の好奇心満々の視線を感じたからなのか、少年の喉からかすかな声がもれた。それからハッと目を開け、はじかれたように飛び起きた。
「……え、ここは?」
「天使様、気がついた?」
意識が戻ったばかりで混乱している少年は、見たことのない部屋と知らない4人を見まわして、何度も瞬きをした。神と崇める“生命の樹”の使いだと思うと、どう接したらいいのかわからない両親と弟をよそに、フウリは驚かせないようにゆっくりと部屋に入っていって普通に話しかけた。
「ここはぼくの家だよ。キミが空から落ちてきたから、連れてきたんだ。」
「空から……。」
「覚えていないの?」
「光のトンネルを抜けたところまでしかわからない。でも……。」
少年は寝かされていた布団をさわり、木造の天井を見上げ、窓の向こうの静かな谷の夜に目をやって、確信を持ったようにつぶやいた。
「やっぱり、異世界に出られたんだな。」
「天使様は、別の世界から来たの?」
「天使?」 少年はきょとんとして笑った。「オレはれっきとした人間だよ。有翼人はそんなに多くはいないけど。」
今度はフウリ達が驚いて目を丸くした。破れた服の間から伸びた翼は、間違いなく背中に生えている本物である。鳥のような羽を持った人間など、大陸でも聞いたことがない。いるとすれば、それこそ神話に出てくる天使だけだった。
しかし少年は、戸惑う4人と同じように立って、同じ言葉でお礼を言った。
「オレの名前はソラト。助けてくれて、ありがとう。」
「ぼくはフウリだよ。」
差し出された手を握り返したフウリは、幻でも神話の存在でもない、確かにそこにいるという感触と人の温かさを感じた。