37.教皇と天使
底のない暗闇から引き戻されたばかりのフウリには、あまりにまぶしすぎる光だった。目を開けていられないほどの神々しい輝き、しかしこの上もなく温かい安らぎ――同時に、いつ失うかわからない不安と、いつかは失うという確信的な絶望感。言葉でも音でもない何かが、立ち尽くすフウリに語りかけていた。
「これは……」
青年のつぶやきと共に光が消え、フウリは我に返った。窓際に立つソラトと、その胸に手をかざす教皇クラウ3世の姿が、忘れかけていた現実にあった。しかし、どちらも表情がこわばっていて、息苦しくなるほど空気が重い。それがなぜなのかフウリにはわからなかったが、あの光の中で感じた得体の知れない不安が頭をよぎった。
「どうなされたのですか、猊下?」
ケセドが心配そうに尋ねると、教皇はソラトを見つめる目を細め、小さな声で答えた。
「これは、僕にも治すことができません」
「猊下のお力でも、ですか?今まで、そのようなことは……まさか猊下、お体が?」
「いえ、僕はまだ大丈夫です。そうではなくて、彼は……」
「ねぇ、ソラトはどうしたの?」
目覚めたばかりで状況が読めないフウリが、たまらなくなって口を挟んだ。ソラトの体調がよくないのだろうことまでは気付いていたが、自分もこんなに元気に回復したのだから、すぐ治るのだろうと思って今まで黙っていた。それなのに、教皇の奇跡の力でさえ治らないとは……急に頭が混乱した。しかしクラウ3世は顔を曇らせ、視線を合わせようとしなかった。
「僕や歴代の教皇は、どんな傷でも病気でも治すことができました。でも、自分に対してだけはこの力が効かないんです。自分の生命を力に変えて、他の命を癒すから……」
ごく限られた者しか知らない極秘の事実に、ケセドとクロードがうつむき、フウリ達はハッと驚愕したが、教皇は気に留めることなく続けた。
「だけど、正確には違っていたみたいです。自分だから効かないのではなく、『同じ力を持つ者には通じない』ということでした」
「同じ力……?」
フウリは言葉の意味を考えた。大陸に1人、それも数年に1度の割合でしか現れない、神から奇跡の力を与えられた者……それが、セフィロト教を束ねる教皇の唯一絶対の資格である。ツォレルン侯の姉上である先代リオ1世も、現クラウ3世も、もちろんその力を有していたが故に、教会に見出され教皇となった。
――教皇様とソラトが同じ力を持っているってことは、つまり……。
ソラトや魔王が使っていた魔法と呼ばれる不思議な力は、教皇の癒しの力と同じものということになる。それはすぐに理解できた。どちらも常人にはない、まさに奇跡のような現象であるから。
しかし、それは同時に、恐ろしい真実もが同じであることを意味していた。
『どうか、よろしくお願いします。そして……ごめんなさい』
『君たちは、セフィロト教の歴代教皇がなぜ全員短命であるか、知っているか?』
『自分の生命を力に変えて、他の命を癒すから……』
宿場町の旅籠で出会った老婆。ツォレルン侯の屋敷で言われた問い。青年教皇がつぶやいた言葉。それらがフウリの頭の中でよみがえり、ぐるぐる回っていた。無意識に左胸を押さえるソラトの目は、ここではないどこかを見つめて動かない。
――つまり、ソラトは……。
自分の中ですでに答えに行き当たっていたが、それを言葉にすることはできなかった。ソラトがいなくなるなど、考えられない。すでに彼は親友であり、かけがえのない仲間であり、大切な家族だとも思っている。
フウリは唐突に、空から落ちてきた天使を抱きとめたときの感覚を思い出した。真っ白な翼、細いがしっかりとした腕、なぜか懐かしい温もり――そのすべてが今は胸を締め付け、目の奥が熱くなるほど苦しい。なぜ突然そんなことを思うのか、なぜこれほどまでに胸が痛いのか、フウリはわからなかった。
「うっ……」
クラウ3世の体が後ろに大きく傾き、仰向けに倒れる寸前でケセドが支えた。すぐにクロードが駆け寄り、脈を調べる。青白い顔に冷たい汗が伝い、教皇は顔を歪めながら、浅い呼吸をなんとか落ちつかせようとしているようだった。
「脈がかなり弱くなっている。無理をしすぎだ」
2人は小柄な教皇を担ぎ、フウリがいなくなったベッドに横たえた。フウリ達とそれほど歳が違わないはずの青年が、まるでその何倍も生きた老人が苦渋の人生に幕を下ろそうとしているかのように思えた。
「もう……大丈夫です」
しばらくして目を開けた教皇は、息をするのも辛そうなのに、心配な顔で見守っている者たちに笑顔さえ作った。今にも消えてしまいそうな、優しくも儚い幻ではないかと、フウリはその手をつかんで確かめずにはいられなかった。
「教皇様、本当に大丈夫なんですよね?すぐに元気になるんだよな?」
「ありがとう……僕のために泣いてくれて」
言われて初めて、フウリは自分の頬に涙が流れていることに気付いた。ローシェもぐっとリッカの手を握りしめてうつむいている。クラウ3世は天井を見るともなく見つめ、誰に言うともなくつぶやいた。
「僕の命はもう長くないでしょう。それでも僕は、自分にしかできないこと、やらなければならないことをしたいんだ。そうすることで、僕が生きた証になるなら……僕は、この力を与えられてよかったと思う」
静かな、しかし揺るぎない青年の決意は、呪われた運命をも喜んで受け入れていた。その瞳は、暖かな冬の空のように悲しいほど澄んでいる。
――教皇様は、強いな。
死が目前に迫っているとわかったとき、自分ならば何ができるだろうとフウリは思った。彼ほど立派に立ち向かえる自信はないが、せめてこれまでの人生が無駄にならないように前を向いていたい。しかし、たとえ自分の死は受け入れられたとしても、まわりの者を失うのは耐えられない。
「ソラト……」
固まったように動かない少年は、フウリの声にようやく顔を上げた。気が付くと、アラン達も彼を見て、何かを言いたいのに言葉が出てこないようなもどかしげな表情をしている。ソラトはため息とともにかぶりを振った。
「オレは簡単には死なないよ」
笑ったつもりなのだろうが、うまくいかなかった。声はかすかに震え、顔がこわばっている。見ていられなくて目を逸らしたフウリは、ふと部屋の隅に立ったままの姿に目を留めた。
「そうだ、あんた、なんとかソラトを助けられないのか?」
視線を受けたリヒトは、じっと少女を見返した。空を映したような青い瞳は、初めて会ったときもそうだったように、物怖じすることなくまっすぐに魔王と呼ばれる男を見つめている。ややあって、リヒトは口を開いた。
「我らの呪いの源は“宇宙樹”だ。それを覆すには、直接“樹”の力を得るしかない」
「“宇宙樹”?」
「“生命の樹”のことだな」 首をかしげるフウリにケセドが説明した。「教会内部でかつて使われていた古い呼び名だ。しかし、教皇猊下の力が神から与えられたものとはいえ、本当に“樹”が呪いをも与えているというのか」
「“宇宙樹”はすべての思考や想いを糧に存在している」 リヒトはケセドの疑問にすぐには答えず、続けた。「それ故、争いや疫病などが広まれば“樹”は枯れていく。そんな病んだ世界を癒すために、限られた者に力を与えた。だが同時に、腐った部分から瘴気が溢れ、異分子と見なしたその者を消そうとする」
「それが、呪いの正体なのか……」
「元はといえば、瘴気も“樹”が吸収した感情の一部……世界に生きる生命の願いによって奇跡の癒しが与えられ、同じ生命の歪んだ心によって呪いが生まれるのだ」
セフィロト教会の中枢にいる教皇や修道騎士さえ知らないことを、リヒトはいとも簡単に答えた。その声は鋭く、まわりを圧倒する近寄りがたい威圧感があるが、偽りを言っているようには思えない。何よりも、弟を見る目には慈愛と憂いが溢れている。
「でも、肝心の“樹”の場所はわかるのかい?」
壁にもたれたエリアーデが口を挟んだ。空賊はあくまで現実的であり、感傷に流されず冷静に物事を見ている。あるのかないのか、存在自体も疑わしい伝説の“神”は、これまで誰も見たことがある者などいない。もちろん場所など知るはずのないフウリ達は、せっかく見つかりかけた可能性がまたすぐに消えて落胆したが、リヒトは少し間を開け言った。
「わたしはあえて魔獣を使うことで、負のエネルギーの流れを探ってみた。だが、さらに大きな力が邪魔をして流れを歪めている」
「兄貴、それで魔獣を……」
「その大きな力って、魔獣よりもすごいってこと?何なんだ?」
フウリは訊きながら気付いた。以前対峙したとき、彼はそれを確かめるために、へちま島から飛び立ったのだ。リヒトはフウリの考えを見透かしたように、目でうなずいた。
「王都にいる、ある男が原因だ」
「1人の人間が魔獣よりも?そんな力がある者など……まさか」
ケセドが言いかけた言葉に応えるかのように、突然大きな爆発音が響いた。全員が目を見張って身構えたところへ、さらにもう1度。外からのものらしいが、神殿の壁がかすかに揺れた。
「たっ、大変です!ローゼン教が……!」
漠然とした不安ながら、すでにその場の誰もが予感していたのかもしれない。息を切らせて駆け込んできた若い神官の報告にも、動揺する者はいなかった。
「ついに来ましたか」
蒼白な顔をさらに土気色にしながら、クラウ3世が起き上がった。ケセドとアランは武器に手をかけ、エリアーデは2丁の銃を懐から取り出す。来るべきものが来たというならば、せめて自分たちがいるときでよかったと、フウリも迷うことなく護身銃を取った。
大陸を2つに分けた大国の戦争の最中、神を分けたもう1つの宗教戦争が始まろうとしている。不安、恐れ、憎しみが渦巻く大陸の空を見上げ、人ならざる長い耳の人影は、海辺の港町をすぐ目の前にしながら、すっときびすを返した。