36.呪われし奇跡の癒し
大陸各地から参拝に来ている信徒に気付かれないよう、飛行艇ジーク号は大神殿から少し離れた林に静かに着陸した。
――まさか、このような形で戻ってくることになるとは。
最初に降りてきたケセドは、複雑な気持ちで神殿を見つめた。
以前にここへ来たのは、教皇の側近である“枝葉”として、臨時会議の招集を受けたときだった。俗界の諸侯として戦争を回避するためにこの神殿を離れたというのに、戦争はついに現実のものとなり、役目を果たすことはできなかった。その戦いで傷ついた仲間を救うために、表の顔を隠したまま彼らを連れてくることになろうとは。
――しかも、天使と魔王が一緒とはな。
ケセドは後から降りてきた面々を、わずかにふり返った。エリアーデは部下たちに船を任せ、道中の船内でできる限りの外的処置をしたドクター・クロードの指示で、細心の注意をしながらアランが意識のないフウリを背負った。ちらちらと後ろを気にしているローシェを、リッカとソラトが気にしている。最後にはしごを使わずにふわりと地面に降り立った魔王リヒトは、ここへ来るまでもそうだったように、ずっと無表情のままである。
――彼が魔獣の元凶、なのか……。
リッカが彼を紹介し、一緒に行きたいと申し出たとき、船内の誰もが息を呑んだ。彼に会うため、場合によっては戦うだろうことを予想しながらも船を貸したツォレルン侯としては、警戒しないではいられなかった。しかし、粘り強く仲間たちを説得するリッカは、彼が敵ではないと確信している。一言も発しないで微動だにしないリヒトを見据えたケセドは、その瞳に悲しいまでの憂いを見た気がした。
「ソラト君の兄上だし、リッカ君がこれほど信用しているのならば、いいのではないかな」
戸惑う一同の中で、ケセドが真っ先に賛同した。それなら、とアランとローシェも納得し、危険と見なしたらすぐに船を下ろすという条件でエリアーデもうなずいたのだった。
ブラント村救出作戦を共に協力したナハツ号は、ソーテルネスの町で別れた。彼らは、さすがにこれ以上は国をあけておくことができないアリアドーネ王女を、都まで送り届けることになった。
「本当に申し訳ありません。私の頼みを聞いてもらったばかりに、フウリさんは大怪我を負ったのに……」
ずっと悩んでいた王女は、せめてフウリが無事に回復するのを見届けてからにしようかと直前まで迷ったのだが、アランが帰るように説得した。
「あなたがいないと、戦争はもっと大きくなってしまいます。それを止めるために俺たちは、フウリは戦ったんだし、止められるのはあなたしかいない。あいつも、きっとそう思っています」
「ですが……」
「あいつが目を覚ましたとき、少しでも戦争が収束しているようにしてやってください。それが、あいつの1番の願いです」
「……そう、ですね。私は私にしかできないことを、全力でやります。フウリさんが元気になったら、また都に遊びに来てくれるのを待っていると伝えてください」
こうして国に戻ることを決心した王女を送る役目を、セファスが買って出た。至るところで戦火が上がっている空を飛び、まして最防衛地である王都に空賊の船が近づくなど、危険極まりないことなのだが、ナハツ空賊団の船長はからからと笑った。
「なぁに、オレ達の船が王国軍なんかにやられるわけがねぇだろ。後で追いかけてやるから待っていろよ、エリス!それと天使様もな!」
しっかりとソラトを狙うことを忘れていないセファスは、屈託のない笑みでエリアーデにそう言い残して飛び立った。エリアーデのジーク団にひけを取らない実力の彼らならば大丈夫だろうと、ケセド達も安心して王女を見送ったのだった。
アランが背負うフウリを入れて9人がジーク号から降りて、大神殿へと向かうことになった。ケセドは緊急のときにしか使わない裏道を案内し、途中で彼らを待たせておいて、先に中の様子を見に行った。
「失礼します、猊下」
すでに夕日が傾いたこの時間ならば祈りの間にいるだろうと踏んだケセドが扉を開けると、そこにはやはり神にひざまずく青年教皇の姿があった。
「ケセド、どうしたのですか?もうしばらくは戻ってこられないと思っていたのですが」
「急な帰還で申し訳ありません。じつは折り入って、猊下にお願いしたいことがございまして」
「……とりあえず、部屋に行きましょう」
陰りのあるケセドの表情を呼んで、クラウ3世はすぐに立ち上がってうながした。
飾り気のない質素な私室に入った教皇は、廊下を見まわる警備兵に人払いをするよう伝えてから、改めてケセドに向き直った。
「何か、不測の事態が起こっているのですか?」
修道騎士ケセドとしてではなく、ツォレルン侯ハーシェルとしてやってきたのだと直感した教皇は、再会を喜ぶ時間も惜しんで尋ねた。その心遣いに感謝して、ケセドはこれまでのことを簡単に話した。姉の手紙がきっかけで知り合った少女たちのこと、王女の力を借りるためにバーミリオン王国へ向かったが突如戦争が始まってしまったこと、そして共に戦った少女が傷つき意識不明になっていること……。
「そうですか、そんなことが……」 クラウ3世は眉をひそめてうなずいた。「では、その少女を助けるために、ここへ?」
「それもありますが、もう1人、猊下にお目にかけたい者がいます。じつは……」
「……天使様が?本当なのですか?」
さすがの教皇も、翼ある者が実際にいるとは信じられず、声を殺して驚いた。初めて聞いたときには自分も同じような反応だったとケセドは思いながら、クロードから聞いた彼の病状や発作のことも説明した。
「原因不明の病を治すには、もはや教皇猊下の癒しの力しかないと、医師に言われました。しかし、猊下のお力を使えば……」
「構いません。僕の力は、傷ついた人を助けるためにあるんですから」
にっこり笑う青年の笑顔に、ケセドは胸が痛んだ。
――わたしには、どうすることもできないのか……。
自分の力の意味と顛末をわかっていながら、進んで人々を助けようとする教皇を、遠くで見守っていることしかできない。修道騎士は己の無力さと神の無慈悲を呪った。
こちらから頼みにやってきたのに気が進まないケセドは、しかしこのままフウリやソラトを見捨てるわけにもいかず、裏口に待たせている彼らを連れてきた。
「ようこそ、セフィロト教大聖堂へ」
ここへ来る者は、誰であろうとも信徒として等しく接する。穏やかに微笑む青年教皇に、アランとローシェとリッカはかしこまって頭を下げ、エリアーデは無礼にならない程度に普通にあいさつを返した。
「あなた、達が……」
ケセドに言われてマントを取ったソラトと、青いローブから突き出た翼を隠そうともしないリヒトを、クラウ3世はじっと見つめた。天使ではないと聞かされていても、神話にある神の使いとまったく同じ白い翼を目にしては、神の意志を感じずにはいられない。
「久しぶりだな、クラウリル」
「クロードさん!」
後からゆっくりと入ってきた黒衣の男を見るなり、教皇は目を丸くして声を上げた。その反応に、ケセドが驚いた。
「猊下、彼をご存知なのですか?」
「はい、僕の育った村エクリュで、隣の家だったんです」
子供のころはよく世話になったと、クラウ3世はうれしそうに言った。クロードはつかつかとやってきて、教皇の細い肩をどんっと叩いた。
「どうだ、体調は?」
「最近は落ちついています。でもクロードさんまで、どうしてここに?」
「あいつらの診察を頼まれてな。ここへ来るように勧めたのは俺だ」
「そうだったんですか。クロードさんも、お元気そうでよかったです」
教皇は懐かしい隣人との再会を喜んだ後、アランに自分のベッドへ背中の少女を下ろすように言った。クロードの治療で外傷はきれいに治った長い黒髪の少女は、静かに浅い呼吸をしていて、一見すると眠っているようにしか思えない。
「容態は安定している」 クロードが横から説明した。「体内の傷ももう問題はないはずだから、それでもまだ意識が戻らないとなると、頭に損傷を受けた可能性が高い。頭部の手術は、さすがに設備の整ったところでないと無理だが、何しろこのご時勢だ。いきなり使わせてもらえるほど暇な病院があるとも思えん」
クラウ3世は、この昔なじみの医師の腕を熟知している。彼でさえ困難な状態となると、確かにここへ来るしか助かる方法はないだろうと納得した。
「みなさん、離れていてください」
そっと立ち上がった教皇の背中には、先ほどまでの温和な青年のそれとは思えないくらい、逆らいがたい威厳と神々しさがあった。ケセドは心配そうにのぞきこむアラン達を後ろに下がらせ、神に祈りを捧げる教皇を見守った。その手から柔らかい光があふれ、部屋中に広がっていく。
――猊下の知り合いならば、その運命も知っているはずなのに……。
部屋の隅で壁にもたれて見ている黒づくめの医師に、ケセドはちらりと目をやった。どんなに重症のけが人でも、不治の病で半死半生の病人でも、教皇の祈りが起こす奇跡の力は、たちどころにすべてを癒す。これでフウリもすぐによくなるだろう。しかし、神から与えられたこの力は、けして神そのものではないのだ。
――他者を癒せば、自分が傷つくというのに。
自分の命を与えることで、他の命を救う。こんな呪われた力を喜んで使う青年を、ケセドは見ていられなかった。それを知りながら連れてきた自分もクロードも同罪だと思った。
「神よ、世界を支える“生命の樹”よ。代理者たる我が命をもって、いまだ生きるべきこの命を癒したまえ」
温かい光が集まり、横たわったフウリを包み込む。そして光がその身体に吸い込まれるように消えると、教皇はふっと肩の力を抜いてふり返った。
「もう、大丈夫です。体の傷は、すべて消えました」
わずか数分間の出来事だったが、かすかに微笑むクラウ3世の顔は白に近いほど青ざめ、額から冷たい汗が伝っていた。もともと体が強い方ではないとはいえ、明らかに異常な疲労である。ふっとよろめいた細い体を、ケセドが思わず手を伸ばして支えたとき、ベッドが勢いよくきしんだ。
「あれ?え?ここ、どこだ?」
「姉ちゃん!」
「フウリ!」
飛び起きたものの状況がわからずにぽかんとしているフウリに、リッカとアランが飛びついた。ローシェとソラトも駆け寄り、エリアーデは後ろでニヤリと笑っていた。
「よかった……フウちゃん、どこも痛いところはない?気分はどう?」
「な、泣かないでよ、ローシェ。どこも大丈夫だからさ」
「お前、森に落ちて、5日間も眠ったままだったんだぞ」
「あれから、もうそんなになるのか?」
うれしさのあまり泣いてしまったローシェに大丈夫だとくり返しながら、フウリはソラトの言葉に驚いた。撃墜された記憶も体の傷もまったくないので、実感が湧かない。しかし、ローシェの涙や弟たちの喜びようを見ると、自分が危険な状態だったらしいことは理解できた。
「何度も怖い夢を見た気がする。真っ暗なところに飲み込まれるような……でも、どうして助かったんだ?」
「教皇様が助けてくださったんだ」
アランが目で示すと、フウリは見たことのない青年をじっと考え、それから遅れて飛び上がった。
「きょ、教皇様!?本物の!?」
「元気になって、よかったです」
メドウ谷にもいそうな穏やかで優しい目の教皇を、フウリはまじまじと見た。そして驚きが収まると、すばやくベッドから降りて礼を言った。
「ありがとうございます。ぼくを助けてくれて」
「いいえ、傷ついた人を助けるのは僕の役目ですから」 クラウ3世はケセドの腕を借りてまっすぐに立った。「では、もう1人の病を診てみましょうか」
教皇の言葉を追って、全員の視線がソラトに集まった。意味がわからないフウリだけが、説明を求めてきょろきょろしている。ソラトは視線から逃げるように窓辺に向かったが、逃げ場がないことを悟ると、兄の方を見た。
「え?まさか……どうして魔王がここに?」
今ごろ気付いたフウリが叫んだが、誰も動かないところを見ると、事情があると判断して黙った。リヒトは無言で何かを諭すように、弟の視線を受け止めている。教皇がそっと近づくと、ソラトはおとなしく動かなかった。
――これ以上、力を使ったら……。
ケセドは横から止めようとしたが、実際には声が出なかった。教皇の顔はまだ青く、疲労感はむしろ先ほどよりもひどくなっているように見える。それでも他者を癒そうとする青年の目に、迷いはなかった。
――わたしは、どうしたいのか。どうすればいいのか……。
フウリが元気になったのはうれしい。ソラトの病も治ってほしい。しかし、さらに命を削ろうとする教皇を止めるべきなのか、彼の役目を果たさせるべきなのか、ケセドにはわからなかった。ただひとつ言えるのは、すべてが助かるような安易な道はない、という絶望だけだった。