35.2つの翼
ソラトとローシェの帰りを待っていたリッカは、町外れに停めた飛行艇の甲板で行ったり来たりしていた。数人の空賊が仕事をしている他は、みな船内にいる。特にアランとアリアドーネ王女は病室にこもりっきりだったが、リッカは眠ったきりの姉を見ていられなかった。
――姉ちゃんは絶対に大丈夫だ。
ぐっと船縁をつかみ、祈るように自分に言い聞かせた。兄がいなくなったときの絶望と喪失感は、突然のことだったので実感が湧くのに時間がかかったが、今は真綿でじわじわと首を絞められているかのように苦しい。大事な家族が遠くに行ってしまう現実感が、目の前に迫ってきている気がして、そのたびにリッカはかぶりを振った。
「……あれ?」
うろうろと何度目かの往復で、遠くで何か物置が聞こえた気がして足を止めた。どおんと爆発するような、高い叫び声のような、あるいはその両方……。
「大変だ!」
船縁から身を乗り出したリッカは、町の入口に何匹もの犬らしい影がなだれこんでいくのを見て、すぐに魔獣の襲撃だと気付いた。急いで船室に降りて、船長室へと駆け込むと、ほとんど同時に船の見張り番もやってきた。
「リッカ、あなた、いい空賊になれるわよ」
本職よりも先に異変を見つけたリッカに、エリアーデはにっこり微笑んだ。そして慌てることなく部下たちに船を守るよう指示を出すと、病室のアラン達に知らせにいった。
「あたしだけでも、魔獣くらい楽勝なんだけどね」
「いや、俺も行きます」
「そうだな。王女殿下、先代殿、彼女をお願いします」
アランはすばやく立ち上がって槍を取り、ケセドはアリアドーネとリオネルにフウリを託した。リッカも迷うことなく後に続いた。
リッカ達4人がソーテルネスの町に駆けつけたときには、すでに喧騒が収まっていた。ケガをした町の人々が何人かいるが、無事な者たちに支えられて足早に家に帰っていく。何十匹もの狂った野犬が累々と倒れているところを見ると、戦いは終わったはずなのに、みな何かに怯えているのがリッカ達にはわかった。しかし、それを不思議に思う前に、刀をつかんだままうずくまっているソラトを見つけた。
「ソラトさん、大丈夫ですか!?」
真っ先に駆け寄ったリッカは、戦えないため、せめてもと思って持ってきた薬箱を取り出したが、ソラトが手で制した。苦痛のためか顔を歪め、言葉が出ない。リッカが見たところ、すり傷ひとつ見当たらなかった。
「お前、またあの病気なのか?」
アランが出てきて言うと、ソラトはわずかにうなずいた。なんのことかと訊こうとしたリッカは、ふとソラトの視線が気になった。先ほどから、無理に顔を上げて上空を見ている。同じように見上げてみたリッカは、あっと息を呑んだ。
「まっ、魔王……!」
空に浮かんでいた人影は、じっとこちらを見下ろしていた。その姿、鋭い威圧感は、へちま島の塔で見えた、ソラトの兄と名乗った魔王その人に間違えようがない。
――どうしてここに……。
今攻撃されたらひとたまりもないのだが、リッカ達は驚きのあまり逃げることも忘れて呆然としてしまった。そんな彼らの様子を見透かしたように、ゆっくりと魔王が降りてきて、距離を保ったまま地面に立った。
「兄貴……」
落ちついたらしいソラトが、まだ胸を押さえながら立ち上がった。そんな弟を見る魔王の表情は、心なしか以前より穏やかになったように、リッカには思えた。
「ソラト、やはりお前も発現してしまったのか」
魔王は、リッカ達も家々からこっそりのぞいている住人たちもまったく気にかけることなく、弟だけを見据えて言った。黙って視線を受け止めるソラトの表情は、敵としてにらんでいるのか、兄としてすがっているのかわからなかった。
「お前も、って……兄貴はこの病気のこと、知っているのか?」
「病気ではない。それは……運命だ」
悪魔の王と呼ばれている男の声は、今やはっきり変化していた。その眼差しは紛れもなく憂いに満ちていて、リッカは亡き兄のそれを思い出した。
――セラ兄ちゃんも、僕や姉ちゃんを見つめるとき、こんな顔をしていたな。
たった3歳だったから、兄との思い出はほとんどない。それでもあの優しい眼差しの笑顔だけは、今もはっきりと覚えていた。
しかし、なぜ彼がここにいるのかも、彼らの会話の意味も、まったくわからない。どうやら人々を襲う気配はなく、アランやケセドも武器を降ろしている。どうするべきなのかと戸惑っていると、1人の男がつかつかと近寄ってきた。
「ちょっと診せてみろ」
家に隠れて恐る恐る様子を伺っている町の人々をよそに、黒ずくめのその男はソラトのそばへ来ると、胸を押さえていた手を振り払った。魔王はじっと見ているだけで動かない。
「ソラトさん!」
怪しい男と同じ方向から走ってきたローシェが、リッカ達に気付き、ソラトを案じながらもリッカのところへ歩いてきた。
「ローシェさんは大丈夫?」
「うん、私はクロード先生と避難していたから」
「あの人、知っているの?」
「お医者さまよ。フウちゃんを助けてもらうために探していた……」
リッカは顔には出さずに驚き、また視線を戻した。髪から靴まで黒づくめで、鋭い目つきと声の男は、とても医者には見えない。下手をしたら、彼の方が魔王というイメージに合っているのではないかとさえ思った。
「……かなり進んでいるな」
ソラトの脈を取り、聴診器を当てていたクロードが、眉をひそめて低くつぶやいた。そして踏みじられた花壇の向こう側に立つ、彫像のように動かない人影に目を向けた。
「その翼、こいつの仲間か血縁者か?」
「……」
「こいつの病の原因はわからんが、もうあまり猶予がない。次に発作を起こしたら……危ないと思え」
最後の言葉に、魔王の表情がほんのわずかにこわばった。魔王と呼ばれていることは知らなくても、禍々しい威圧感を放つ翼ある者を相手に、クロードは恐れも遠慮もない。むしろ、横で聞いていたリッカの方が動揺した。
「ソラトさん、病気なんですか?助けてください、先生!」
「病の正体がわからなければ処置の仕様がないが、それを調べている時間はない。助かる方法があるとすれば、ただひとつ」
「なんですか?方法があるんですね!」
「教皇の癒しの力だ」
ケセドの眉がぴくりと動いた。無表情を装った黒メガネの下に隠したのは、意外な困惑か、あるいは確信的な絶望か。
リッカにも、その意味はわかる。あらゆる生命を癒すと言われるセフィロト教の教皇ならば、どんな原因や症状であろうとも治癒できるだろう。しかし、その奇跡の力に頼る以外にはもはや助かる道がないということを、医師の決断は意味していた。
――ソラトさんが、そこまで重い病気だったなんて……。
旅の間はいつも元気に笑い、戦いのときは先陣を切って刀を振るい、町ではフウリやアランに負けずよく食べていた彼が、急に遠くに行ってしまう気がした。翼を見せられ、未来から来たと言われたときには驚いたが、いつの間にか一緒にいることが当然のような、大切な友達の1人になっていたのに、彼がいなくなるなど想像もできない。想像したくない。
「エリアーデさん!」
「わかってるわよ。ウチの船は、いつでも飛び立てるようになっているからね」
リッカが言う前に、ジーク号の船長はにやりと笑ってうなずき、一足先に船へと戻っていった。セフィロト教会の本部は大陸中央にあり、ソーテルネスの町からでは馬車で飛ばしても5日はかかる。しかし、飛行艇ならば明日の夕方にはつくだろう。本来ならばブラント村を助ける協力をしてくれただけでも充分な借りなのに、今度は大儀も義務もない、ただ友人を救うためだけに船を出してくれる空賊たちに、リッカは心からありがたいと思った。
「俺も行こう。最初に頼まれた患者を診なければならんからな」
時間が惜しいからと、クロードは誰の許可も相談もなく、勝手に同行する準備をしていた。ケセドとアランとローシェも飛行艇に戻っていったが、最後に行こうとしたリッカは、話が進んでいく間にもずっと黙ったままだった翼ある兄弟に目をやった。2人は心の奥を探ろうとするかのように、互いの目を見つめて動かない。
「あの、ソラトさん」
「……え?」
「僕たちも行きましょう。すぐにでも出発するみたいだから」
どこへ、何をしに行くのか、それさえもわかっているのか怪しかったが、ソラトは初めて目を逸らしてうなずいた。発作は完全に治まったようで、いつもの足取りに戻っているものの、背後を気にして足が重くなっていることに、リッカは気付いていた。
「お兄さんも、一緒に行きませんか?」
思いきって言うと、ソラトだけでなく魔王も驚愕した表情でリッカを見た。魔王、と呼ぶには気が引けて、なんと呼べばいいのかそればかりを気にしていただけに、2人からそんな目で見られると、リッカは自分の顔が赤くなるのを感じた。
「あ、その、みんなにはうまく言っておくから……」
ローシェは怖がるかもしれないが、アランは話せばわかってくれる。他には誰も彼が魔王だと知るも者は、その強大な力を実際に見た者はいないので、どうにかなるだろう。リッカはそう考えていたのだが、ソラトは彼の言葉そのものに戸惑っていた。
「どうしてだ?1度は殺されそうになった相手なんだぞ」
「でも、ソラトさんのお兄さんなんでしょ?お兄さんを探して、この世界に来たって言っていたのに」
魔王は何も言わず、恐ろしいまでに鋭い目でにらみつけている。怒らせてしまったかもしれないと、リッカは震えそうになったが、視線から逃げ出したいのを必死でこらえ、逆にまっすぐに見返した。
「あなただって、ソラトさんを心配して来てくれたんじゃないんですか?」
驚いたことに、小柄でやせっぽっちな少年の視線から、魔王が逃げた。やはり間違っていなかったと、リッカは確信した。
「兄弟なのに別々にいるなんて、敵対するなんておかしいよ。家族は一緒にいるべきなんだ」
遠くに来てしまったと、リッカは改めて思った。はるか海の向こうのファルギスホーン島で、両親は元気に暮らしているのだろうか。兄はもういない。ただ1人一緒にいたはずの姉も、今は笑うことも名前を呼んでくれることもない。
――でも、姉ちゃんも僕も、大丈夫だから。
リッカは前に進んだことを後悔していなかった。だから、遠くの空にいる両親が心配しないように、また姉と笑って歩き続けなければならない。
「いいのか?」
ソラトがもう1度確認するように尋ねると、リッカは力強くうなずいた。自分からは言い出せずにいたソラトは、破顔して兄にふり返った。
「行きましょう、お兄さん」
「……リヒトだ」
今度は問いかけではなくはっきりと呼びかけたリッカに、魔王はたった一言だけ口を動かすと、さっときびすを返して町を出て行ってしまった。肯定とも否定とも取れない態度だったが、リッカとソラトは飛行艇に向かったのだと信じていた。
「ありがとうな、リッカ」
「また、天使様の目撃談が増えてしまいましたね」
「オレ達も、早いところ消えるか」
今は怯えている町の人々が騒ぎ出す前に立ち去らなければ、面倒なのことになる。2人は笑い合い、仲間たちに置いていかれないように走った。いろいろな意味でにぎやかになった飛行艇でフウリが目を覚ましたらなんと言うか、今から楽しみだった。