30.王女誘拐事件
怖い夢を見た。
つないでいた温かい手が離れていき、強い力で冷たい暗闇に引き込まれていく。
こちらを見つめながら通り過ぎていく、無数の金や銀の顔。
はるか遠くで自分の名前を叫ぶ声。
もがいても、もがいても、体はさらに深いところへ沈んでいき、声にならない恐怖が意識を飲み込み――。
……目が覚めたローシェは、ぼんやりと横たわる無機質な灰色の壁を、何も考えずにただじっと眺めていた。耳が痛くなるくらいの静寂と、ひんやりとした肌寒い空気があたりを包んでいる。
どれくらいの時間がたったのか、やがて瞬きをしてもぼやけた視界が変わらないことに気付いた。
――メガネは?
無意識に動かそうとした腕はきつく縛られていて、その痛みで意識がはっきりと戻ってきた。
横になっていたのは自分の方で、するとこの冷たい感覚は壁ではなく床らしい。いつもかけているメガネがない理由を思い出し、ローシェは先ほどの悪夢が夢ではなく現実だったことを思い知らされた。
リッカが選んでくれた髪飾り、それを付けたときにメガネをはずし、視界がよく見えないまま引っ張っていってくれた彼の手の温もりが引き離されて……。
――私、どうなっちゃったのかしら……。
いきなり取り囲んで押さえつけてきた者たちにも、身動きできないまま連れてこられたこの場所にも、自分がこんな目に遭う理由も、どれもまったく思い当たることがない。唯一考えられることがあるとすれば、バーミリオン王国の関係筋に正体がバレたという可能性だが、それにしてもこんな強行的な拉致で、1人だけを連れ去るのもおかしい。
「王女はどうだ?」
部屋の外で低くて鋭い声がして、ローシェはとっさに目を閉じた。直感だが、この状況から助けてくれる味方の声には思えなかった。
「まだ意識が戻っていません」
「丁重に扱えよ。何しろ戦争の切り札になる、大事な王女殿下なんだからな」
――王女……?
扉が少し開いて中をのぞく気配があったが、ローシェは息をひそめて動かないようにした。じっと目を閉じたまま、しかし頭の中では目まぐるしく考えをめぐらせていた。
――王女って、もしかしてバーミリオンのアリアドーネ王女様のこと?王女様を狙うなんて、まさか軍のクーデター?それとも、ウィスタリアのスパイが裏で動いているのかしら。でも、それならツォレルン様の手紙を届ける私たちを襲うなんて……え?それにどうして私を捕まえて、王女だなんて言っているの?
わからないことばかりで、ローシェはますます混乱した。有能な政治家であり、敏腕外交官であり、聖女の再来とも言われるバーミリオン王国の第一王女の噂は、遠くファルギスホーン島の田舎にまで届いている。新聞に載っていた写真と記事を思い出し、なんとか冷静に思考を働かせた。
――1番最近の記事は、半年前……戦争孤児の保護について、アリアドーネ様が演説したことで議論になっていたわね。私と同じ17歳で、国家体制を基盤から動かそうとするなんて、すごいなって思って……私と同じ?
ローシェはそこまで考えて、はっとした。写真は白黒で小さかったので、顔まではよくわからないが、髪型や体型がなんとなく似ているように思う。フウリほど背か高く髪が長ければすぐにわかっても、メガネをはずして仮面を付けた金髪の少女では区別がつかないかもしれない。
――私、王女様と間違われてさらわれたんだわ……。
そう考えると、捕まった理由も犯人像も見えてきた。
王国内でも主戦派と反戦派に意見が分かれているらしいことは、帝国新聞でも噂されていたが、王女は反戦派のリーダー的存在であり、それを疎ましく思う者たちが誘拐を画策したのだ。しかし、そうなると身代金目的ではないので、見せしめに殺害して同志の士気を上げるか、帝国の仕業に見せかけて国民の支持を集めるか、どちらにしても無事でいられる可能性は極めて低い。
――どうしたらいいの……怖いよ、フウちゃん……リッカ君……。
ローシェはぐっと目を閉じ、体を小さく抱えるように震えた。勝気で面倒見のいい幼なじみが、いつもそばで助けてくれていたので、独りになると恐怖で息がつまりそうだった。年下なのに力強く手をつないで引いてくれたリッカに、無意識のうちに頼って安心していたことに、今さらながら気付いた。
――助けて……。
どうにか涙だけはこらえていたが、重い沈黙に気が狂いそうになる。動けない暗闇に閉じ込められた時間は永遠のようであり、しかしいつ殺されるかもわからない不安は長くは続かなかった。
「そろそろ目が覚めたか?」
体の震えが抑えられず、もう眠っているふりもできない。しばらくして再び戸が開いたときには、ローシェはゆっくりと目を開けた。そろいの紅いローブを着た男が2人、じっと見下ろしている。
「お忍びで祭りを見学とは、オレ達に絶好のチャンスをくれたものだ」
「我らの正体も目的も、わかっているだろうな?」
ローシェは震えないように唇を噛んで、小さくうなずいた。このローブは港町リールでも見た、ローゼン教のものに間違いない。そして彼らは主戦派だということが、今はっきりとした。
「教祖様が、お前と話をしたいとおしゃっている。来い!」
腕をつかまれ立たされたローシェは、おぼつかない足で引きずられるようについていった。やはり王女だと思っているらしいが、このまま黙っているべきか、人違いだと言うべきか、極度の緊張の中でわずかに残っている理性で、精一杯に考えた。
――もし人違いだとわかったら、ローゼン教の目的を知られたことを口封じするために、すぐにその場で殺されてしまうかもしれない……。王女様を何かに利用するつもりなら、もう少し生かしておくかも……。
誰かが助けに来てくれるまで時間を稼ぐためには、王女のままでいる方がわずかでも可能性が高い。
――きっとリッカ君が助けてくれる。それまでは……!
ローシェは後ろで縛られた手を握りしめた。なんとしても気付かれないように王女を演じ、彼らの行動を引き延ばすしかない。リッカやフウリ達が助けに来てくれるのを信じて、覚悟を決めた。
つれてこられた奥の部屋は、すべての窓にカーテンが引かれていた。途中の廊下から見えた太陽で、今は朝だと思われるが、ここは夜のように暗い。そしてその中央にいる人物は、まわりの赤い信者たちの中でただ1人、夜色のローブに身を包んでいた。
「お初にお目にかかります、王女殿下」
優雅に会釈をしたその男に、ローシェは早鐘のようにドキドキと暴れていた心臓が、今度は止まってしまいそうなくらい息を呑んで驚いた。低く地面を這うような声、妖しく光る赤い目と真っ白の髪、そして青く透きとおった肌。
初めて目にするが、ローゼン教の教祖クロイツだと、すぐにわかった。人前に現れることはめったになく、不可思議な噂だけが飛び交う謎の教祖を、実際に見たことのある者はほとんどいない。
――アルビノ……。
生物学もひと通り修めているローシェは、生まれつき色素を欠いた遺伝子疾患があることを思い出した。100年に1人と言われているため、原因や症状の研究はあまり進んでおらず、また迫害のために表立って生活することも、体質的な病で長く生きることも極めて少ない、幻とも呼ばれている存在である。
「さて、少々手荒な手段でお越しいただいて申し訳ありませんが、貴女とは以前から話がしたいと思っていました」
柔らかく丁寧な物腰だが、不気味な威圧感で息をするのも苦しい。ローシェの腕を押さえていた男たちは一礼してさがり、他の信者たちも教祖の視線を受けて退出した。2人だけになると、ますます空気が濁って重くなったように感じられた。
「貴女は、真にこの国のことを案じておられる。では、大陸そのものの未来を考えられたことはありますか?」
声や話し方で別人だとわかるかもしれないと思い、ローシェはうつむきかげんのまま慎重に沈黙を守った。たとえ王女であったとしても、この唐突な質問の意図するところが見えない。クロイツは続けた。
「今は国などという小さな単位で考えている場合ではありません。“生命の樹”がまさに枯れてしまおうとしていることをもっと認識し、我々はひとつになって手を打たないといけないのです」
「……」
「もう時間がありません。このままでは“樹”が枯れ果て、大陸は滅亡するでしょう。これは憶測や予想などではなく、事実なのです」
不気味にこだまする声には、なぜか抗いがたい説得力があった。ぼんやりと聞き入っていたローシェは、へちま島で魔王が言っていたこと、ソラトがやってきたという未来の世界を思い出した。
近い将来、大陸の文明は滅びる――。
しかし、それは戦争のためであり、そのきっかけである第二次『ロス・トイフェル』戦役は、今まさに始まろうとしている。いや、彼らローゼン教が始めようとしているのだ。
「それなのになぜ戦争を進めようとしているのか、不思議に思われましたか?」
表情を読まれたかと、ローシェはさらに視線を落とした。クロイツはくっくと口の中でかすかに笑った。
「そう、まさにその話をするために、貴女にお出で願ったのです。この大陸は、1度すべてをまっさらにして片付けなければなりません。そうするしか大陸の未来を守ることができないほど、人間の負のエネルギーが満ち溢れているのです」
「そんな……」
思わず声をもらしてしまい、ローシェだけでなくクロイツもはっとした。重くのしかかっていた空気が、ピリピリと熱を帯びて取り囲む。
「貴女は、誰だ……?」
ローシェは1歩ずつ後ろに下がっていったが、黒衣の教祖は心の内までも見透かそうとするかのようににじり寄ってくる。
――も、もうだめ……!
背中に冷たく硬い壁が当たり、ローシェはぐっと目を閉じた。うまくごまかす理性も、逃げる勇気もない。黒いローブから伸びた青白い手が顔に触れる、その瞬間。
「……ッ!?」
突然のかん高い音に、ローシェは何が起こったのかわからなかった。顔を上げると、割れた窓ガラスが床に散らばり、明るく鋭い光がまっすぐに差し込んでいる。クロイツはローブで顔を隠して、すばやく部屋の隅へと逃げた。
「ひ、光が……光が……!」
「さぁ、早く!今のうちに!」
壊れた窓に、太陽の光を背に受けた人影が現れた。逆光で姿は見えないが、ローシェはとっさにその声に従い、苦しむクロイツの手から逃れて、手を縛られたまま窓の外に転がり落ちた。
更新が遅くなっていて、本当にすみません……。
作中に出てくるアルビノについての表現は、教祖の特異性を強調するため、事実とは異なる部分があるのでご注意ください。