28.西の国への旅立ち
ウィスタリア皇帝の元にもたらされた隣国からの一通の書簡は、瞬く間に帝国の政治中枢部を震撼させた。いつかはこうなるかもしれないと予測はしていたのだが、大半の貴族はまだまだ先のことだと楽観していて、本気で危惧していた一部の者も、まさかこれほどの早さで突然、一方的に送りつけてくるとは思っていなかった。
ツォレルン選帝侯ハーシェルもまた、予想以上の急展開に言葉を失った。しかし呆然自失となったのもつかの間、すぐに各選帝侯に対して臨時招集を発し、その夜には御前会議にてエドモン皇帝の政治決断を仰いだ。侯のすばやい行動と、皇帝の果敢な英断によって、ウィスタリア帝国の公式対応――すなわち、選帝侯の1人を使者として派遣する最終外交、国境地帯の砦の増設と兵の配備、道路封鎖や主要施設への緊急避難指示など、わずか数日で国内外への姿勢を示したのだった。
17年前に終結したはずの大戦の悪夢は、いよいよ現実のものとして、もうすぐそこまで迫ってきている。いきなり非常事態を宣言された国民の大半は、にわかには信じられずに混乱したが、前の戦争を知る者たちは国の異例の即断に感服した。そして彼らが先導して動いたため、大きな暴動はほとんどなかった。
――今はまだ、みんな落ちついているけど……。
着替えをかばんに詰め込んだリッカは、屋敷の窓から街を見渡して、見えない不安に震えた。いつもの喧騒と活気に溢れる都には、いつもとは明らかに違う陰りある。この平和な光景が戦火に飲み込まれるなど、戦争を知らない少年には想像できず、また想像したくもなかった。
――ツォレルン様は、どうされるんだろう。
この日、早朝からリッカ達を呼び集めたハーシェルは、ひとつ重要な仕事を頼みたいと言った。バーミリオン王国の都へ行き、反戦派の有力者に手紙を届けると同時に、王宮の内情を探るという極秘任務である。
『わたしや政府関係者はもちろん、ウィスタリア国民では王国領内に入ることさえできない。関係のない君たちを巻き込んで申し訳ないが、第三者でなければできないことなのだ』
ハーシェルは自分が行くより辛そうに説明した。事実上の交戦状態となった敵国に潜入するとなると、安全性の保証などまったくないのだが、フウリが迷うことなく笑った。
『お世話になったツォレルン様の頼みだし、どんなところでも手紙を届けるのがプロの空送屋だからね』
怖くないと言えば嘘になるが、リッカも同じ気持ちだった。ここへ来るまでにいくつもの町と人に触れてきたこの国と、助力を惜しまず力を貸してくれたツォレルン侯のためにできることがあるならば、どんなことでも力になりたい。他の3人もすぐにうなずくと、ハーシェルは引き受けてくれたことへの感謝と危険にさらす謝罪を込めて、深く頭を下げた。
『しかし、君たちだけを行かせることはしない。護衛をつけるから、少し待っていてくれ』
……こうして、侯が部屋を出ていった後、出発にそなえて荷物をまとめていたのだが、やはり緊張と不安は隠せない。準備を終えて再び集まったリッカ達は、さまざまな思いをそれぞれに抱えながら、ひとつも言葉に出すことなく長くて短い時間を待っていた。
「お待たせしたね」
しばらくして扉が開いたが、現れたのはツォレルン侯ではなかった。金色の髪を後ろで束ね、黒いメガネをかけた彼の外套には、円と線を組み合わせた樹の形の紋章がある。
「ケ……!?」
「はじめまして。わたしはセフィロト教会の修道騎士、ケセドだ」
危うく叫びそうになったリッカにこっそり目配せをして、選帝侯ハーシェルならぬ修道騎士ケセドはにっこりと挨拶をした。さすがに品のある威厳はそのままだが、今は軽い話し方と柔らかく親しみやすい表情で、まさにリッカが初めて出会って共に旅をしたときの、あの修道騎士そのものだった。
「おや、君はリッカ君じゃないか。久しぶりだね」
「あ……は、はい、そうですね」 ごく自然に声をかけられて、リッカもあわてて笑顔を作った。
「リッカ、知り合いなのか?」
「ほら、前に話した、都へ来る途中で一緒になって、姉ちゃん達を探す手伝いをしてくれた人だよ」
「あぁ、あの修道騎士様か」 フウリは再会したときに聞いた道中の話を思い出してうなずいた。「弟を助けてくれて、ありがとうございます。まさかこんなところでまた会えるなんて、よかったな、リッカ」
弟が世話になったという恩人に礼を言うと、ケセドはいたずらっぽく笑って、フウリとアランに目をやった。
「こうして名乗るのは初めてだが、君たちはいつか財布を届けてくれたのを覚えていないかな?」
「あっ、もしかしてシュデン街道で……!」
言われて、2人は同時に目を丸くした。宿場町エアホルンで休憩をしたとき、食堂の店主から忘れ物の財布を届けてほしいと頼まれ、その落とし主こそ、この修道騎士だったことをようやく思い出した。あのときは名前を聞くことなく別れたが、わずかに顔を合わせただけの2人の空送屋を覚えていたことに驚いた。
「いや、君たちとは何かと縁があるようだね。今回は君たちの護衛をしながら、バーミリオン王国へと向かうことになった。重要な任務だが、よろしく頼むよ」
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
――ケセドさん、芝居がうまいなぁ。
服装と髪型を変えて、黒いメガネをかけただけなのに、まったく雰囲気が違っているので、先ほどこの部屋を出ていったばかりのツォレルン侯だとは誰も気付いていない。リッカはまったく思いもよらなかった素顔に絶句したことを思い出しておかしくなるやら、自分だけが知っている秘密にほくそ笑むやら、吹き出しそうになるのを必死でこらえなければならなかった。
「あれ?でもツォレルン様は?」
「あぁ、また会議が入ったとかで、急いで宮殿へ向かったぞ。彼とは古い知り合いだから、どれだけ多忙かは知っているが、見送りもできずに申し訳ないと言っていたよ」
すらすらと答えるケセドは、むしろ逆にどうやって会議や政務を抜け出してきたのだろうかと、リッカは顔に出さずにこっそり思った。彼の裏の顔を、まさか皇帝は知っているのだろうが、他の閣僚や貴族たちはどこまでわかっているのかと考えると、しばらく宮殿を留守にする言い訳をどうしたのかが純粋に不思議だった。
「あ、あの、質問、いいですか?」
最近、まだ遠慮をしながらも勇気を出して発言をするようになったローシェが、おずおずと手を上げた。視線を受けたケセドが、気軽にうなずく。
「修道騎士が国家間の問題に口をはさんでいいのか、ってことかな?」
「は、はい」 先に言い当てられ、ローシェは顔を真っ赤にした。「教会が中立を崩したら、本当に大陸が2つに分かれてしまうんじゃないでしょうか。せっかくのご協力に、差し出がましいんですが……」
「いやいや、君の言うとおりだ。聡明な問いだな」
肩をすくめたケセドは、黒メガネの下で目を細めた。
「世間ではローゼン教に対抗して帝国に肩入れしていると言われているが、セフィロト教会はどんなことがあろうとも中立だ。戦争を憂える教皇猊下の勅令で、今は多くの修道士や修道騎士が両国に散って活動している。帝国にも王国にも属さず、あくまで大陸の民のためだと思ってほしい。…もっとも、降りかかる火の粉は最低限、払いのけるつもりだが」
腰に付けた細身の剣がただの飾りでないことは、リッカ達にもわかる。神と教皇に仕える誓いの心と、何物にも動じない精神力だけでなく、修道騎士は教会の守護者として、現実的な脅威から信徒を守れるだけの武術を身につけていなければならない。だからこそ、ごく一部の限られた者しかその身分を名乗ることが許されず、またそのために民の信望は国を問わず篤い。
この上なく頼れる仲間を加えて、ツォレルン侯の密命を受けたリッカ達は、西の大国バーミリオン王国へと旅立った。
ウィスタリア帝国の都は海に面していて、豊富な海産物を大陸各地に船で運び、逆に港に集まってきた材料を加工することを主な産業としている。
対してバーミリオン王国の都は山に囲まれた内陸部にあり、国内のどの町でも得意な農産物を有していて、それを速やかに各地に運ぶために道路が細部まで整っている。
そして、そこに住む人々の性格や風習も、まったく違っている。海洋国家の民は大らかでマイペースだが、農業国家の民は計画的な栽培のために緻密で、部外者や予定外のことを嫌う。はるか南東から来た島民と、建前上は無国籍の修道騎士は、国境の関所でさんざん身元証明や旅の目的などの審問を受けた後、ようやく入国することができた。
「ぼく達、思いきり怪しまれたんじゃないかなぁ……」
石畳が敷かれた広い街道を馬車で進みながら、フウリが小声でつぶやいた。他に乗客はいないが、御者も王国の人間だと思うと油断できない。しかし、ケセドはやはり声をひそめながらも、ゆったり微笑んだ。
「巡礼に向かう子供たちと、その道案内をしている修道騎士に、政治的要素などあるはずがない。怯えていると、かえって怪しまれるよ」
視線を感じたローシェとリッカは、それだけでびくっとした。普段からおどおどしている彼らに、こんな重大な秘密を抱えて堂々としていろというのは、まわりが思うよりずっと難題である。
――お、落ちつけ。これはただの旅行なんだ。今度は姉ちゃん達も一緒だし、1人で家を出たときよりずっと安全なんだぞ。
リッカは心の中で自分に言い聞かせて、こわばった顔をどうにか緩ませようとした。隣を見ると、ローシェも同じようなことを考えていたらしく、顔を見合わせた2人は中途半端に引きつった笑みを浮かべていた。そんな虚しい努力を見かねて、アランがやれやれとため息をつく。
「バーミリオンの国民は閉鎖的だが、基本的には人情があって親切だから、慣れてしまえば温かいところだよ。食べ物もうまいしな」
ウィスタリアよりも整備された大きな街道は、丘いっぱいに広がるブドウ畑を左手にかすめて西へと伸びていく。この地方は昔から大陸一のワインの名産地で、右側の山の向こうのルフト地区ではかの有名なルフト牛の畜産が、その西では甘いフルーツがいたるところで色づいていると、ケセドが説明した。
「うわぁ、ずっと果樹園が続いている!」
「そういえば、ぼく、ソーテルネスのワインを買ってくるってお父さんと約束したんだっけ」
広大な景色に感動したソラトが窓から身を乗り出して叫び、フウリはふと島を出たときのことを思い出していた。
――僕は、こんな遠い国にまで来たんだ。
本来ならば一生見ることがなかったはずの異国を旅しているのだから、せっかくならもっと今しか感じられない世界に触れたいと、リッカはようやく肩の力を抜いて思えた。
「ケセドさんは、この国に来たことがあるんですか?」
「あぁ、教会の使いでいろいろな地方へね。“あちら”の仕事では、ほとんど都ばかりだが」
選帝侯として国の用件で訪れたときのことは、リッカにしかわからないように言った。リッカもそれに答えて、何気ないふうを装って笑い返す。
「さて、あと少しで王都につく。準備はいいかな?」
ケセドが黒いメガネの下から見まわすと、リッカ達は屋敷を出発したときよりも強くうなずいた。もうここまで来たからには、覚悟を決めるしかない。
――また、笑ってこの道を帰りたいな。
故郷の島と同じ海に浮かぶ大陸、旅をして慣れ親しんだ国と同じ大地なのだから。少年は、きっとわかり合えると信じていた。