24.黒きバラ十字
・クロイツ=ローゼン……ローゼン教の教祖
思いがけない客人たちが姉の手紙を持ってやってきたその日、ハーシェルは夜遅くまで仕事を片付けていた。
選帝侯であると同時に修道騎士でもあるツォレルン侯は、本来、自分が2人いても手がまわらないくらい多忙なのだが、今日は昼過ぎに少年とお茶をしたり、もう1人やってきた彼らの友人も加えて一緒に夕食を食べたりもした。早急に対処しなければならない仕事が山積みになっていることなどおくびにも出さず、侯のスケジュールを知る屋敷の者たちが驚くほどゆったりと客人との時間を過ごしたのは、姉が最期に託した思いを少しでも知りたいと思ったからだった。
――もうすぐ大陸が混沌に覆われる、か……。
予知の力を持った前教皇が垣間見た未来は、大陸全土に暗黒の時代が訪れ、文明が滅亡するというものだった。しかし、それはまだ定まっていない未来であり、この手紙を託したことで、少女たちが未来を変革する可能性を持ったのだという。巻き込んで申し訳ないと、ナタリアは渡す前に書いた文中で謝っていた。
――彼らにそんなことができるというのか?
あの紅い髪の少年はどことなく不思議な感じがしたが、5人ともごく普通の子供たちにしか見えない。
ハーシェルが考える『暗黒』とは、二大大国による17年前の戦争の再来か、宗教の混乱から起こる暴動という、2つの現実的問題である。それを彼らが止めるのかと思っても、現状からはどんな関連も可能性も想像できない。だが、今まで外れたことがない姉の予知を、ハーシェルは疑っていなかった。
――姉上、後のことはお任せ下さい。
現在すでに現実味を帯びつつある危機を、せめて自分にできるところでできる限り食い止めていかなければならないと、ハーシェルは今度の宮廷会議で取り上げられる内政書に意識を戻した、そのとき。
「失礼します、旦那さま」
時間を考えて遠慮がちにノックする執事の声がして、ハーシェルは顔を上げた。長年この屋敷に勤めている彼は、侯の性格や立場の重みを知り尽くしているので、仕事の最中にやってくるのは軽々しい案件ではない。
「どうした?」
「はい。先ほどクロイツ=ローゼンと名乗る者がやってきて、ぜひ旦那さまにお話したいことがあると申し上げております」
「クロイツ……ローゼン教の教祖が?」
「このような時間ですので、また改めて明日にでも用件を伺うと言ったのですが、どうしても夜でないと話ができないと……いかがいたしましょう」
「……わかった。会おう」
「では、西棟の応接室にお通しいたします」
近年、社会的な影響が大きくなってきている新興宗教の教祖ともなれば、軽々しく追い返すわけにもいかない。それを充分に理解している執事は、客人たちや夫人が休んでいるところから離れた部屋をとるという考慮までして、音もなく扉の向こうから消えた。
――皇帝陛下ではなく、わたしのところへ来たか。
祖父の代で姻戚関係もある現皇帝の右腕として、そして教会内部の事情を知る立場をもって、今まさに宗教騒動に対する我が国の対応を考えようとしていたハーシェルは、本日2度目の珍客に思わず苦笑した。このタイミングであちらか出向いてくるなど、少し予想外で驚いたものの、悩みの種である男と一対一で話せるなど、こちらとしても好都合である。
――さて、しかし目的は選帝侯としてのわたしか、それとも修道騎士としてのわたしかな。
ハーシェルはすっと立ち上がり、誰にともなくひとりごちた。もちろん裏の顔はごく一部の関係者をのぞいて誰にも知られていないなのだが、不可思議な雰囲気を持つという謎の多い教祖には油断するわけにはいかないと、西棟へと向かいながら気を引き締めた。
空送屋たちから手紙を受け取った東の応接室は、普段のほとんどの客人に使っている。しかし、重要な仕事上の話をするときや、国賓クラスの重鎮を迎えるときには、この西側の部屋に通している。が、今回の場合は微妙な相手であり、どう出てくるかも読めないので、万が一のことを考えて特別な部屋を選んだ老練な執事の対応は、いつもながら抜かりがない。
「お初にお目にかかります、ツォレルン侯」
部屋に入ると、男が立ち上がって優雅に会釈をした。バラ十字の紋章が背中に大きく描かれた夜色のローブが全身を覆い隠し、低く静かな声はその奥底から響いてくるようだった。
「クロイツ=ローゼンと申します。以後、お見知りおきを」
「わたしも以前から、貴殿にお会いしたいと思っておりました」
「夜分に突然の訪問で申し訳ございません。なにぶん、わたしは日の光に弱いもので……」
そこで初めてフードから現れた顔に、ハーシェルは眉ひとつ動かすことなく目を見張った。
真っ白の髪に、白を通り越して薄青い肌、そして眼は内側に炎を灯しているかのように赤い。ゆったりとしたローブの中身は細く小柄で、白髪から老人のように見えるが、世間の噂では壮年と言われ、声は変声期の少年にも思えて、年齢がまったくわからない。
病的な顔色でありながら妖しく輝き、貴族のそれとは違った威圧感とカリスマを放っている。100年に1人の割合で生まれつき色素を欠いた人間がいて、太陽の光に当たると肌や目が焼けるように痛むということを、ハーシェルも聞いたことはある。しかし実際に目にするのは初めてであり、それが近年、大陸を揺るがしている存在ともなれば、運命めいた必然性まで感じてしまう。
「わたしの眼には部屋の明かりも厳しいので、失礼します」
クロイツは薄く笑うように眼を細め、また深々とフードをかぶった。ハーシェルはどこか納得した感を覚えながら、向かいに腰を下ろした。
「では、さっそくですが、ご用件を伺いましょうか」
「ご存知のように、現在、我がローゼン教はバーミリオン王国を中心に活動しています。しかし、大陸の滅亡が間近に迫ってきているため、貴国でも真実を説くための許可をいただきたいと思ってまいりました」
「滅亡……ですか」
姉の手紙が頭をよぎったが、ハーシェルは内心の動揺を微塵も見せることなく、静かに問い返した。もう1日でも手紙が遅れていれば、ただの世迷い言だと一笑に付すところだったが、今は無視するわけにはいかない。
「なぜ、そうわかるのですか」
「神の啓示です。『ロス・トイフェル』戦役以来、この大陸には負の力が増えすぎていて、世界を支える“生命の樹”をも食い尽くそうとしているのです」
「それが、貴殿の教えで助かる、と?」
「みなが偽りの真実から目を覚ませば、まだ間に合います」
黒衣の教祖は、低い声ではっきりと断言した。表情はわからないが、自信に満ちて迷いがない。
――宗教家にはよくあることだな。
根拠があいまいな理屈で不安をあおり、まことしやかに神の教えだと言い切る。そして、いつの間にか相手を自論に丸めこんで信用させてしまうのだが、権謀術数うずまく宮廷に生きてきた選帝侯は、そんな詭弁では動じなかった。
「では、どのようにすればよいのですか」
ハーシェルは心の中で肩をすくめながらも、興味を持ったふうに話を促した。穏やかな物腰を崩すことなく、あくまでも感情は表に出さない。
「まずは、誤った信仰を改めなければなりません。そして世界が危機にあることを知り、正しい神の教えに従って“樹”を再生させるのです」
直接的には言わなかったが、誤った信仰というが大陸最大の宗教を指しているのは明らかである。修道騎士とは知らなくても、前教皇を輩出した家系ならばその信徒であることもまた自明だというのに、クロイツは遠慮も戸惑いもなかった。
「なぜ、セフィロト教を否定する必要があるのですか」 ハーシェルは以前から疑問だったことをはっきりと尋ねた。「かの教えはこれまで1,000年にわたって人々を導き、“樹”を守り敬ってきたはずです」
「昔はそうだったのかもしれません。だが、それが事実ならば『ロス・トイフェル』は起こらなかったはずでしょう。神に守られているはずの命が、いったいいくつ無駄に消えたことか」
「それは我々が自ら起こした過ちです。逆に、神は自身を信じる者たちが滅亡する前に、戦争を止めてくれたのではないでしょうか」
「失礼ながら、閣下は人間を買いかぶりすぎておられる。間違った教えを信じ、また懲りずに戦争を引き起こそうとしている人類を、神は今度こそ滅ぼすでしょう。いや、醜い負のエネルギーによって、人間こそが神を滅ぼそうとしているのです」
戦争のきっかけを作っているのはお前だろう、とハーシェルは苦笑しそうになったが、やはりこのときも神妙な面持ちでイスに背をもたせ掛けることしかしなかった。これ以上、私的な意見を言うことも、選帝侯としての結論を出すことも、時期尚早だと考えた。
「わかりました。次の宮廷会議で審議にかけてみましょう」
「前向きなご検討を、よろしくお願いします」
「ひとつだけ、お尋ねしたい。どうして直接、皇帝陛下にお話し申し上げなかったのですか」
「その理由は、閣下がよくご存知であられるはずですが」
クロイツは小さく笑ったようだった。しかし、うやうやしく一礼しただけで何も答えず、短い会談を切り上げてそのまま帰っていった。
現ウィスタリア皇帝エドモンは、ツォレルン家と双璧を成す大貴族ホーエン家の当主であり、豪胆な決断力を持った英明な君主と誉れ高い。だが、帝王たる器には繊細な調整を必要とする細事は向いておらず、事前の駆け引きは他の選帝侯や閣僚貴族がすることも多い。
クロイツはそういった政治の裏事情を承知の上で言っていたのか、それともツォレルン侯のもうひとつの顔をつかんでいるのか、謎めいた黒衣の下からは読み取れなかった。どちらにしても、本来は外部が知り得るはずのない秘匿事項であり、それを知っているというだけですでに由々しき事態である。
――いや、それこそが彼の狙いだな。
ハーシェルは肩の力を抜き、ふっと息を吐き出して自嘲した。今ここでどれだけ考えてもクロイツの真意がわかるわけでもなく、深読みをして堂々巡りに疑心暗鬼におちいれば、勝手に彼の仕掛けた罠にはまるようなものだと思い直した。
――しかし、恐るるべきは、あの話術と雰囲気か。
怪しげながらも説得力のある話し方と、つかみどころのない独特の気配に、警戒をしていても知らず知らずのうちに引き込まれていた。宗教という実体のないものを広め、それ以外の共通性もない集団をまとめ上げるカリスマ性は、やはり一筋縄では片付けられそうにない。
ハーシェルは来客が帰った後も、しばらくそこから動かず、じっと考え込んでいた。